第3話 パパの書斎、陥落する
第3話 パパの書斎、陥落する
日曜日の朝、桜井拓海は一・五畳の書斎にこもり、机の上に並んだ三本のペンを順番に確認していた。黒は訪問記録、青は研修資料への書き込み、赤は重要事項に使うと決めており、ペン立ての中でも左から黒、青、赤と並べている。白い長袖Tシャツの袖を肘までまくり、紺色のジャージをはいた拓海は、青いペンが黒いペンより二センチほど前へ出ているのを見つけ、指先で位置をそろえた。防音扉の向こうから、陽太が恐竜になって吠える声と、掃除機をかける葵の声がかすかに聞こえてくる。
「陽太、掃除機に乗らないで! それは乗り物じゃありません!」
「きゅうきゅうしゃです! きんきゅうです!」
拓海は扉を見つめたが、すぐに机へ向き直った。壁の棚には訪問看護の参考書と研修用のファイルが高さ順に並び、その横には充電器や予備の電池を入れた白い箱が置かれている。窓のない小さな部屋には、新しい木材とコーヒーの匂いが残っていた。家の中で複数の音が重なると、拓海の頭の中では、それぞれの音が同じ強さで押し寄せてくる。しかし防音扉を閉めれば、絡まった糸が一本ずつほどけるように、次に何をするべきか考えられた。
「パパ、あけて」
扉が二回たたかれた。ひかりの声だと分かったが、拓海はすぐには立ち上がらなかった。訪問先で使う血圧計の電池を確認し、鞄の内側のポケットへ入れてから扉を開ける。桃色のトレーナーと灰色のズボンを着たひかりが、半分に割れたビスケットを手に立っていた。
「パパ、どうぞ」
「ありがとう。でも書斎では食べない約束だよ」
「どうぞ、したい」
ひかりは半分のビスケットを拓海の口元へ差し出した。表面にはひかりの指の跡がつき、少し湿っている。拓海が口を開けると、ビスケットは舌の上でほろりと崩れ、バターの甘い匂いが狭い部屋に広がった。
「おいしい。ごちそうさま」
「パパのおへや、はいりたい」
「ここはパパが頭を休ませる部屋だから、勝手に入らない約束だったよね」
「ひかりも、あたま、やすめる」
もっともな申し出だったが、拓海は背後の整った机を振り返った。ひかりが一度入れば、陽太も必ずついてくる。陽太が入ればペンは持ち出され、書類は道路になり、付箋は壁へ貼られるだろう。拓海は扉を少しだけ閉め、ひかりと同じ高さまで腰を落とした。
「今日は入れません。午後、パパが帰ってきたら、リビングで一緒に遊ぼう」
「いまがいい」
「今は訪問のお仕事へ行く準備をする時間です」
「パパ、けち」
ひかりは唇を突き出し、残りのビスケットを自分の口へ入れた。拓海が「けち」という言葉をどこで覚えたのか尋ねる前に、ひかりは廊下を走っていく。入れ替わりに掃除機を持った葵が現れ、よれた黄色いTシャツの肩へ長い髪を貼りつかせたまま、防音扉から顔をのぞかせた。
「ずいぶん厳重だね。国家機密でも置いてあるの?」
「僕には国家機密より大事なものがある。訪問予定表、研修資料、予備の充電器、それから三色のペン」
「最後のだけ百円ショップで買い直せるよ」
「同じ型でも、インクの出方は一本ずつ違う」
拓海は真顔で答え、扉の内側に貼った注意書きを指さした。「入る前にノック」「飲食禁止」「物を動かさない」と、大きな字で三つの約束が書かれている。葵は注意書きの端がわずかに斜めになっているのを見つけたが、指摘すれば貼り直しが始まりそうなので黙っていた。
「分かった。子どもたちには言っておく。でも、鍵はつけていないんだから、絶対に入られたくない物は上に置いてね」
「ひかりは約束を理解できる。陽太には赤い線から中へ入らないように説明した」
「赤い線?」
廊下を見ると、書斎の入口の前に赤いビニールテープが一本貼られていた。陽太はその線の上へミニカーを並べ、「つうこうどめです」と得意げに説明している。葵は拓海の肩を二回たたき、掃除機を引きずってリビングへ戻った。
「その線、三歳児には侵入禁止じゃなくて、スタートラインに見えると思うよ」
午前九時、拓海は訪問用の紺色のポロシャツとベージュのチノパンに着替えた。肩から医療用の鞄を提げ、玄関でポケットの中身を一つずつ声に出して確認する。スマートフォン、鍵、財布、職員証、消毒液まで確認したところで、陽太が片方の靴を抱えて逃げた。
「陽太、それはパパの靴です。返してください」
「パパ、おしごと、だめ」
「今日は二軒だけ行ったら帰ってくる」
「だめ。きょう、にちようび」
「日曜日でも、看護師さんはお休みとは限らないんだ」
陽太は靴を胸へ抱き、ダイニングテーブルの下へ潜り込んだ。朝食の皿には、ひかりが残したリンゴの皮と、陽太が指で穴を開けた目玉焼きが残っている。葵が牛乳のついた食事用エプロンを洗いながら、「パパが困っている利用者さんのところへ行くんだよ」と説明すると、陽太はようやく靴を差し出した。
「おじいちゃん、いたいいたい?」
「今日はおばあちゃん。ちゃんと薬が飲めているか見てくる」
「とうやく?」
「そう。陽太より上手にやってきます」
拓海は靴を履き、書斎の扉が閉まっていることを確認した。ひかりと陽太に向かって、勝手に入らないようもう一度伝える。二人は並んで「はーい」と答えたが、陽太は返事をしながら赤いビニールテープの上で足踏みをしていた。
拓海を送り出したあと、葵は洗濯機を回し、リビングに残った段ボール箱を片づけ始めた。引っ越しから一か月が過ぎても、「あとで考える」と書かれた箱が三つ残っている。中からは古い電気コード、片方だけの手袋、病院でもらった試供品の保湿剤、賞味期限の切れた乾燥わかめが出てきた。葵がわかめの袋を眺めていると、ひかりと陽太が空になった段ボール箱を引っ張っていく。
「その箱で何をするの?」
「おみせ」
「ようたは、おしろ!」
「お店とお城、どっちにする?」
「おしろのおみせ!」
二人の意見は一秒でまとまり、大きな箱は城の中にある店になった。葵は段ボールの底をテープで補強し、窓になる四角い穴を開けた。ひかりはクレヨンで魚と丸いパンを描き、陽太は緑色のクレヨンで箱の側面を塗りつぶした。洗濯機の終了音が鳴り、葵が濡れたタオルを抱えて二階のベランダへ上がっている間に、段ボールの城は少しずつ廊下を移動していった。
ひかりが書斎の扉を開けたのは、葵が陽太の小さな靴下を物干し竿へ留めているころだった。扉の前の赤い線は、すでにミニカーの道路になっている。ひかりは段ボール箱を押して中へ入り、陽太も鍋と木べらを持って続いた。
「ここ、ひかりのおみせ」
「ようたのおしろ!」
「パパのおへや」
「パパ、いないから、ようたの」
一・五畳の書斎に大きな段ボール箱を入れると、人が座れる場所はほとんどなくなった。ひかりは机の下を厨房に決め、陽太は椅子へクッションを積んで要塞を作る。ペン立ての三本のペンは料理用の箸になり、黄色い付箋は卵焼き、桃色の付箋はハム、青い付箋は魚として皿へ盛られた。
「いらっしゃいませ。おさかな、あります」
「ようた、きょうりゅう。おかね、ないです」
「じゃあ、だめ」
「ガオー! ぜんぶ、ください!」
陽太が両手を広げた拍子に、棚の下段に並んでいたファイルが倒れた。床へ広がった研修資料は、二人にとってちょうどよい石畳になった。ひかりは紙を一枚ずつ並べ、その上をゆっくり歩く。陽太は研修資料の端へミニカーを走らせ、「きゅうきゅうしゃ、とおります」と声を上げた。
二階から戻った葵は、リビングに子どもたちがいないことに気づいた。テレビは幼児番組を映したままになり、テーブルには二人が飲みかけた麦茶が残っている。庭にも洗面所にも姿がなく、廊下には緑色のクレヨンと木べらが落ちていた。
「ひかり、陽太、どこにいるの?」
書斎から、二人の笑い声が聞こえた。葵が扉を開けると、机の下には段ボールの厨房があり、椅子の上にはクッションの要塞が築かれている。拓海の三本のペンは木製の皿へ載せられ、研修資料にはミニカーの黒いタイヤ跡が何本もついていた。
「二人とも、ここは入っちゃいけないって言われたでしょう!」
葵の声に、ひかりは青いペンを握ったまま肩をすくめた。陽太は机の下へ潜り込み、倒れたファイルの陰から目だけを出している。葵は床へ散らばった資料を拾い始めたが、元の順番が分からない。番号を確認しようとしても、研修資料の一部は魚屋の包み紙として折られていた。
「パパ、帰ってきたら困るよ。これは遊ぶものじゃないの」
「パパのおみせ、つくった」
「頼まれてないでしょう」
「パパ、くる。いらっしゃいませ、する」
ひかりはそう言って、壁の一番低いところを指さした。白い壁には、大きな画用紙が養生テープで貼られている。クレヨンで描かれた拓海の顔は、左右の目の大きさが違い、髪の毛が緑色だった。隣には、訪問用の鞄らしい四角と、赤い車が描かれている。
画用紙の下には、葵が昨日ひかりの手を添えて書いた文字があった。「パパ、おしごと、がんばった」と、濃い青色で一文字ずつ並んでいる。訪問件数が増えて帰宅の遅い拓海に見せるため、リビングの壁へ貼るつもりだったものだ。ひかりは自分で一番よい場所を考え、拓海の書斎へ運んでいた。
「パパ、ここで、みる」
葵は画用紙を見たあと、足元の研修資料へ目を落とした。叱らなければならないことは分かっている。勝手に部屋へ入り、大切な物を動かしてはいけない。しかし、ひかりは父親の場所を奪おうとしたのではなく、父親が帰ってくる場所へ、自分の作ったものを置きたかったのだ。
「これをパパに見せたかったの?」
「パパ、いっぱい、おしごと」
「そうだね。でも、この紙はパパのお仕事で使う大事なものなの。踏んだり、折ったりしてはいけません」
「ごめんなさい」
ひかりは青いペンを両手で持ち、葵へ差し出した。陽太も机の下から出てきて、潰れた付箋を一枚ずつ集め始める。葵は二人と一緒に資料を机の上へ戻したが、元の並び順までは直せなかった。
正午を少し過ぎたころ、玄関の鍵が開く音がした。拓海は二軒の訪問を終え、医療用の鞄とコンビニの袋を提げて帰ってきた。昼食用に買った梅おにぎりとカップの豚汁から、温かい味噌の匂いが漂っている。拓海は玄関に並んだ二人の靴をそろえ、廊下へ落ちていた緑色のクレヨンを拾った。
「ただいま。クレヨンが避難経路を塞いでいました」
「おかえり。先に言っておくけど、怒鳴らないでね」
リビングから現れた葵は、洗濯物を干していたときのまま、薄い灰色のパーカに黒い綿パンをはいている。右手には拓海の青いペンがあり、左手には折れた研修資料を持っていた。拓海の視線は両方を確認し、それから開いたままの書斎の扉へ移った。
「何があったの?」
「私が洗濯物を干している間に、二人が入った。資料もペンも動かしてる」
拓海は靴下のまま書斎へ入った。机の上には順番の乱れた資料が積まれ、三本のペンは別々の場所に置かれている。椅子にはクッションが積まれ、床の隅には段ボールの厨房が押し込まれていた。拓海は入口に立ったまま、医療用の鞄を強く握った。
「黒いペンがない」
「ここにある。陽太が段ボールの中へ入れてた」
「資料の順番が違う。これは訪問看護の制度改正で、こっちは褥瘡ケアの研修だ。混ぜたら探せなくなる」
「ごめん。できるところまでは戻したんだけど」
「机の位置もずれている。椅子の高さも変わってる」
拓海は鞄を床へ置き、机の端へ指を当てた。壁との隙間を確かめ、数ミリずれた机を元の位置へ押す。呼吸が浅くなり、指先が小さく動いていた。
「ひかり、陽太、こっちへ来なさい」
葵が二人を呼ぶと、ひかりは陽太の手を握って廊下へ現れた。陽太は恐竜のぬいぐるみを胸に抱え、拓海と目を合わせようとしない。ひかりは父親の顔を見たあと、書斎の壁を指さした。
「パパ、みて」
拓海は壁の画用紙へ顔を向けた。緑色の髪、左右で大きさの違う目、四角い鞄、赤い車。その下には、少し傾きながらも、「パパ、おしごと、がんばった」と読める文字が並んでいた。
「ひかりが描いたのか?」
「ママ、じ、いっしょ。ひかり、パパ、かいた」
「僕の髪、緑色なの?」
「みどり、かっこいい」
拓海は壁の絵へ近づき、養生テープの端を指で押さえた。斜めに貼られているが、剥がして直そうとはしなかった。陽太も恐竜のぬいぐるみから顔を上げ、段ボール箱を指さす。
「パパのおしろ。パパ、いらっしゃいませ、する」
「お城なのか、お店なのか、どっち?」
「おしろのおみせ。おにぎり、うってる」
拓海は持ち帰ったコンビニ袋を見た。中には梅おにぎりが一つしかない。葵が朝食の焦げたパン以来、何も食べていないことを思い出し、袋からおにぎりを出して机へ置いた。
「じゃあ、この店でおにぎりを半分ずつ食べよう」
四人は一・五畳の書斎へ身体を寄せ合った。段ボール箱を机代わりにし、梅おにぎりを四つに分け、冷めかけた豚汁は葵と拓海が交代で飲んだ。陽太は小さな梅干しを口へ入れて顔をしわくちゃにし、ひかりは海苔だけを先に食べた。拓海の膝には陽太の足が乗り、葵の背中は書棚へ当たっている。
「やっぱり四人で使うには狭すぎるよ」
葵が豚汁の容器を持ったまま言った。拓海は壁の似顔絵と、段ボール箱の厨房を順番に見る。机の上には乱れた資料が残り、付箋の一部はもう使えない。それでも、訪問から戻って一人で食べるはずだった梅おにぎりは、四つに分けたため一口でなくなった。
「この書斎を全部渡すことはできない。ここがないと、僕は次の日の準備ができなくなる」
「うん。それは守ったほうがいいと思う」
「でも、入口側の床なら空けられる。段ボール一個分だけ」
「パパ、はいっていい?」
「パパと一緒のときだけ。机と棚は触らない。食べ物は今日だけです」
ひかりはすぐに「はーい」と答えた。陽太もまねをしたが、手には豚汁の中から拾ったニンジンを握っている。拓海はティッシュで陽太の手を拭き、机の下に落ちた米粒を一つ拾った。
翌週、拓海は書斎の奥に鍵つきの棚を設置した。訪問記録や研修資料、三本のペンはそこへしまい、机の上には必要な物だけを出すことにした。入口側には小さな青いマットを敷き、子どもたちが座れる場所を作る。段ボールの厨房は場所を取りすぎるため、陽太と相談して半分の大きさに切った。
「ここから奥はパパの仕事基地。青いマットは、みんなの基地です」
拓海が説明すると、ひかりは青いマットへ正座した。陽太は段ボールの窓から顔を出し、木べらをマイクのように握っている。葵は開いた扉にもたれ、リンゴを四つに切った皿を持っていた。
「書斎じゃなくて、共同基地になったね」
「僕の区域は守られている。運用上は問題ない」
「でも、ちょっと狭くない?」
「一・五畳に四人入ること自体が、設計上の想定外だから」
ひかりが壁の似顔絵を指さし、「パパ、かっこいい」と言った。拓海は三本のペンが鍵つきの棚に収まっていることを確認し、青いマットへ腰を下ろす。陽太が差し出した木べらを受け取り、段ボールの窓へ顔を近づけた。
「梅おにぎりを一つください」
「ありません。きょうは、りんごやさんです」
「では、リンゴを四人分お願いします」
葵が皿を差し出すと、甘酸っぱい果汁の匂いが小さな書斎に広がった。机と棚は拓海の決めた位置にあり、壁には緑色の髪をした父親の絵が少し斜めに貼られている。防音扉はもう閉まっていなかったが、拓海の頭の中では、家族の声が一つずつ聞き分けられた。桜井家の共同基地は、四人の膝がぶつかるほど狭く、誰かが動くたびに段ボールの壁が揺れる。それでも拓海は、机の位置を直すことなく、ひかりからリンゴを受け取った。




