第2話 家庭内トリアージ、大崩壊
第2話 家庭内トリアージ、大崩壊
午前七時二十分、夜勤を終えた桜井葵が玄関の扉を開けると、焦げた食パンと甘いイチゴジャムの匂いが流れてきた。白いナースシューズを入れた手提げ袋が膝に当たり、夜露を吸った紺色のパンツスーツは裾が重くなっている。病院を出る前に飲んだ缶コーヒーの苦みが舌に残り、まとめ直す暇のなかった髪は、黒いゴムから半分ほど落ちていた。静かな家へ帰り、子どもたちの寝顔を見てからシャワーを浴びるつもりだったが、廊下には赤い靴下、クレヨン、開封された紙おむつが点々と落ちている。
「ただいま。何かあったの?」
キッチンから返事はなく、代わりに電子レンジの終了音が三回続けて鳴った。葵がリビングへ入ると、灰色のスウェットを前後逆に着た拓海が、冷蔵庫とトースターの間で立ち尽くしていた。右手には牛乳パック、左手にはひかりの連絡帳を持ち、首には陽太の黄色い通園帽子をぶら下げている。
「拓海、状況を説明して」
「五時十二分にオンコールが終わって、六時四十分に帰宅した。朝食を作りながら二人を起こして、着替えと歯磨きを進めて、ひかりの連絡帳を書こうとしたんだけど」
「その説明だけで、同時にやりすぎているのが分かる」
「大丈夫。工程表は作った」
拓海が顎で示した冷蔵庫には、青いマーカーで書かれた紙が磁石で留められていた。「パンを焼く」「牛乳を出す」「子どもを起こす」「着替え」「検温」「連絡帳」「水筒」「歯磨き」「ごみ出し」と並び、すべての項目の横に開始時刻が記入されている。しかし、チェックがついているのは「パンを焼く」だけで、そのパンはトースターの中から黒い煙を細く上げていた。
「大丈夫な人の家では、パンから煙は出ないよ」
「一枚目は成功した。これは二枚目」
「成功した一枚目はどこ?」
ダイニングテーブルの下から、陽太が顔を出した。水色のパジャマには消防車が何台も走り、寝癖で立った髪にはパンくずがついている。陽太の前には食パンの白い部分だけが置かれ、ちぎられた耳が床一面に散らばっていた。
「ママ、とうやくです」
陽太はパンの耳を一つ拾い、投薬カップを扱うように両手で持った。次に、昨日買ったばかりの観葉植物の鉢へ向けて放り投げる。パンの耳は葉に当たり、湿った土の上へ落ちた。
「それは投薬じゃなくて、餌やりでもない。食べ物は投げません」
「おくすり、どうぞ」
「誰に処方してるの?」
「はっぱさん。げんきないから」
葵が鉢を見ると、確かに一枚だけ葉が垂れていた。陽太なりに、親が患者へ薬を渡す姿を再現しているらしい。叱る言葉を探している間にも、陽太は二つ目のパンの耳をつまみ上げたため、葵は手のひらを差し出した。
「葉っぱさんはパンを飲めません。残ったパンはママに投薬してください」
「ママ、びょうき?」
「夜勤明けという難しい病気です」
陽太は納得した顔で、少し湿ったパンの耳を葵の手へ載せた。葵がそれを口へ入れると、イチゴジャムの甘さに観葉植物の土の匂いが混じった気がした。吐き出す場所を探したが、陽太が期待に満ちた目で見上げているため、麦茶で流し込む。拓海はその横で焦げたパンを皿へ移し、黒い部分をバターナイフで削り始めた。
「陽太の朝食は対応できている。次はひかりだ」
「ひかりはどこ?」
「玄関。靴下が見つからない」
玄関へ戻ると、ひかりが下駄箱の前に座っていた。ピンク色の長袖シャツに紺色のレギンスをはいているが、足は裸のままだった。右手には白い靴下、左手には水玉模様の靴下を握り、口を固く閉じている。昨夜脱いだらしい黄色い靴下が片方だけ、廊下の洗濯籠からはみ出していた。
「ひかり、おはよう。今日はこの白い靴下で行こうか」
「ちがう」
「水玉ならどう?」
「ちがう。きいろ」
ひかりが療育へ行く日に履くのは、履き口へ小さなヒヨコが縫いつけられた黄色い靴下だった。予定が変わることを受け入れるには時間がかかる。葵は分かっていたが、壁の時計が七時半を回ったのを見ると、裸足の小さな足へ白い靴下を履かせたくなった。
「黄色は片方しかないの。今日は白で行って、帰ったら一緒に探そう」
「きいろ、ふたつ」
「一つはあるけど、もう一つがないんだよ」
「きいろ、ふたつ!」
ひかりは両足を身体の下へ折り込み、玄関の隅へ小さくなった。葵が手を伸ばすと、黄色い靴下を胸へ抱え込む。無理に履かせれば、ひかりは全身の力を抜いて「ダイオウイカ」になり、送迎車まで運ぶことになる。葵は廊下に膝をついたまま、病棟で高齢患者へ検査の必要性を説明したときより慎重に言葉を選んだ。
「拓海、最後に黄色い靴下を見たのは?」
「二日前、洗濯物を畳んだとき」
「その洗濯物はどこへしまった?」
「畳んだところまでは覚えてる」
「質問を変えるね。どこで畳んだの?」
「リビングだったと思う。でも途中で訪問先から電話が来て、血圧計の電池を確認して、それから陽太が麦茶をこぼして」
「つまり、しまってないのね」
拓海は返事をせず、リビングに積まれた洗濯物へ向かった。新居へ移って一か月が過ぎたが、特注収納に入らなかったケースは、今も壁際に置かれている。その上には畳みかけのタオル、子どもの肌着、葵の靴下、拓海の訪問用ポロシャツが雪崩のように積まれていた。柔軟剤の匂いが残る山を拓海が両手で掘り始める。
「黄色、黄色、黄色。黄色いものは、陽太の帽子、葵のハンカチ、なぜか冷蔵庫の取扱説明書」
「取扱説明書は黄色くないでしょう」
「黄色いマーカーが挟まってる」
「それを今報告しなくていいから!」
葵も洗濯物の山へ手を入れた。畳んだはずの服は引っ張るたびに広がり、床を覆っていく。夜勤前に探していた薄手のカーディガンが一番下から出てきたが、今は喜んでいる場合ではない。拓海がソファの下をのぞいている間に、陽太は黒く焦げたパンを持って現れた。
「パパ、おくすり」
「それは重症例だから、廃棄でお願いします」
「はいき、やだ。パパ、あーん」
陽太は焦げたパンを拓海の口へ押し込もうとした。拓海が顔をそらした拍子にテーブルへ肩をぶつけ、置いてあった牛乳パックが倒れる。白い牛乳が連絡帳の上を流れ、青いインクで書かれた文字がにじんだ。
「連絡帳!」
葵は近くにあった布で牛乳を押さえた。それは陽太が昨日まで使っていた食事用のおしぼりで、乾いたケチャップが端についている。連絡帳からは牛乳とトマトの酸っぱい匂いが立ち、拓海が今朝書いた文章は「睡眠良好」の三文字を残して読めなくなった。
「良好なのは子どもだけだね」
「葵、怒ってる?」
「怒るための体力が残っていない」
「僕も同じ。今朝、訪問先からステーションへ戻る道で、赤信号を三回待った」
「同じ信号を?」
「気づいたら三回とも青から赤になってた」
葵は動きを止め、拓海の顔を見た。眼鏡の奥には濃い隈があり、髭も剃っていない。いつもなら相手の息遣いや皮膚の色まで観察する拓海が、今は牛乳パックを立てたあと、ふたを閉めずに冷蔵庫へ戻そうとしている。
「あなたの疲労度、十段階でいくつ?」
「九・五。葵は七くらい」
「八です。夜中に認知症の患者さんが点滴を抜いて、朝方には緊急入院が二人来た」
「僕は深夜一時から四時まで、独居の利用者さんの発熱対応。そのあと記録が十六件」
「でも私は一万七千歩、歩いてる」
「僕は雨の中を車で八軒回った。視覚情報の負荷も計算してほしい」
二人は洗濯物の山を挟み、互いの勤務がどれほど過酷だったかを並べ始めた。葵は昨夜飲めなかった冷めた味噌汁の話をし、拓海はコンビニのおにぎりを開ける時間さえなかったと訴える。どちらも相手を責めたいわけではない。それでも、自分のほうがあと一歩で倒れそうなのだと認めてもらわなければ、その場に立っていられなかった。
「私は夜勤明けで、このあと眠らないと今夜も働けないの」
「僕だって今日の午前中に二件訪問がある」
「その状態で運転するつもり?」
「葵こそ、ひかりを送ってから寝ると言っただろう」
「送迎車に間に合わないから、私が療育まで連れていくしかないでしょう!」
二人の声が高くなると、陽太がパンを持ったまま動かなくなった。ひかりは玄関からリビングへ戻り、両親の顔を交互に見ている。裸足のまま無垢床を歩き、床へ散らばった洗濯物を踏んでも、いつものように注意する者はいなかった。
ひかりはソファへ近づき、背もたれに掛かっていた灰色の毛布を引っ張った。毛布はひかりの身体より大きく、床を引きずって洗濯物とパンくずを巻き込んでいく。ひかりはそれを両手で抱え、葵と拓海のところまで運んだ。
「ママとパパ、ねんね」
ひかりは二人の膝へ毛布をかけた。灰色の布には昨夜ひかりが食べたバナナの小さな染みがあり、端からは陽太のミニカーが一台転がり落ちた。葵は口を開いたままひかりを見つめ、拓海は途中まで持ち上げていた洗濯物を静かに床へ戻した。
「ママ、め、くろい。パパ、こえ、おおきい」
ひかりは葵の目の下を指でなぞり、次に拓海の口へ人差し指を当てた。陽太も何かしなければならないと思ったのか、焦げたパンを毛布の上へ置く。黒い粉がぱらぱらと落ちたが、葵にはそれを払う力も残っていなかった。
「拓海、私たち、五歳児にトリアージされたね」
「判定は?」
「二人とも赤。最優先で休息が必要」
拓海はスウェットのポケットからスマートフォンを取り出した。訪問看護ステーションへ電話をかけようとして、療育施設の番号を表示する。葵が間違いを指摘する前に、拓海は自分で気づいて画面を閉じた。
「僕はステーションへ連絡して、午前の訪問を代わってもらう」
「そんなの無理でしょう。予定が詰まってるんじゃないの?」
「この状態で運転して事故を起こすほうが無理だ。利用者さんにも迷惑がかかる」
葵はひかりの療育施設へ電話をかけた。送迎車の出発時刻は過ぎていたが、事情を聞いた職員は、近くを回っている別の車が立ち寄れるか確認してくれた。葵は「大丈夫です」と言いかけ、舌の上で言葉を止める。
「夫婦とも夜勤とオンコール明けで、送っていくのが難しい状態です。お願いできるなら、助かります」
電話の向こうから、二十分後に迎えへ行けるという返事があった。葵が頭を下げると、額から落ちた髪が頬へ張りついた。顔の見えない相手にまで頭を下げている自分に気づき、口元が少し緩んだ。
拓海もステーションへ事情を伝え、午前の訪問を同僚へ代わってもらった。電話を切ったあと、冷蔵庫に貼った工程表を外し、裏返してテーブルへ置く。青いマーカーの細かな予定は、牛乳を吸って紙の裏までにじんでいた。
「今日の予定を変更します。朝食はバナナとヨーグルト。ひかりは送迎車。陽太は九時に保育園へ連絡して、遅れて登園。僕たちは交代で寝る」
「一度に全部言わないで。一つずつお願い」
「まず、バナナを出す」
「それならできそう」
拓海は冷蔵庫を開けたが、バナナは食器棚の横に吊るしてあった。葵が黙って指さすと、拓海は牛乳のふたを閉めてから冷蔵庫を閉じた。バナナを四本に分け、ヨーグルトのふたを開けるだけの朝食なら、煙も出ず、工程表も必要なかった。
ひかりは黄色い靴下を片方だけ手に持ち、もう片方の足には白い靴下を履いた。左右が違っても、黄色が一つあれば今日は出かけられるらしい。玄関で靴を履いたとき、陽太の通園帽子の中から、探していたもう片方の黄色い靴下が落ちてきた。
「どうして帽子の中に入ってるの?」
葵が尋ねると、陽太がヨーグルトのついた口で答えた。拓海は首に掛けていた帽子を外し、黄色い靴下を取り出す。ひかりは両足の靴下を同じものに履き替え、何事もなかったように立ち上がった。
「きのう、ぼうしさん、あし、さむいって」
「陽太が履かせたのか」
「かんごです」
送迎車の音が聞こえると、ひかりは職員に手を引かれて玄関を出た。葵は黄色い靴下が二つそろった足を見送り、扉が閉まるまでその場に立っていた。陽太は腹が満ちたのか、リビングのラグへ寝転がり、消防車のパジャマの裾からへそを出している。
葵と拓海は、ひかりが持ってきた毛布へ並んで座った。床にはパンの耳が残り、流しには朝食の皿が積まれ、洗濯物の山はさっきより大きく崩れている。家の中は何一つ片づいていなかったが、時計の秒針が動く音だけは、ようやく聞こえるようになっていた。
「患者さんには、無理をしないでくださいって言えるんだけどね」
拓海が毛布の黒いパンくずを指でつまんだ。葵は髪のゴムを外し、ソファの背もたれへ頭を預ける。夜勤中から締めつけられていた頭皮が緩み、シャンプーと消毒液の混じった匂いが肩へ落ちた。
「家族には、助けてくださいって言わないと伝わらないんだね」
「次からは疲労度が七を超えたら、競争じゃなくて申告する」
「八を超えたら?」
「朝食はバナナ」
「九を超えたら?」
「工程表を作らない」
拓海はそう答えたまま、毛布を顎まで引き上げた。数秒後には眼鏡をかけたまま眠り、口から小さないびきが漏れ始める。陽太は父親の隣へ這っていき、自分の小さなタオルケットを拓海の腹へ掛けた。
「パパ、とうやく、おわり。ねんねです」
葵は目覚まし時計を一時間後に設定し、陽太を挟んで横になった。焦げたパンとこぼれた牛乳の匂いが残るリビングで、洗濯機だけが脱衣所から規則正しい音を響かせている。家事も登園も仕事も、今日一日ですべて終わらせる必要はない。まず三人で目を閉じることが、この家を守るための最優先事項だった。




