第1話 新築マイホームはインシデントだらけ!
第1話 新築マイホームはインシデントだらけ!
九月最初の土曜日、桜井葵は真新しい玄関の前で、受け取ったばかりの鍵を何度も握り直していた。紺色の半袖ブラウスに白いワイドパンツを合わせ、病院へ行く日には選ばない小さな真珠のイヤリングまでつけている。隣では、薄い水色のポロシャツを着た夫の拓海が、鍵の説明書と住宅設備の保証書を両脇に抱え、茶色いショルダーバッグのポケットを順番に開けていた。五歳のひかりは黄色いワンピースの裾を揺らし、三歳の陽太は恐竜柄のTシャツから丸い腹をのぞかせている。朝食に食べたコンビニのおにぎりの包装が、まだベビーカーの物入れに残っていた。
「拓海、まさかと思うけど、鍵をもう失くしてないよね?」
拓海はショルダーバッグを裏返しそうな勢いで探したあと、葵の右手を指さした。鍵を握っているのは葵であり、拓海が持っているはずはない。葵は自分の手を見て口を結び、拓海は保証書の束で口元を隠した。
「患者さんの家の鍵なら、三回確認するんだけどなあ。自宅だと確認機能が停止するみたい」
「停止しているのは私の記憶でした。はい、入ります」
玄関扉を開けると、新しい木材と壁紙の匂いが一度に流れてきた。昨日まで暮らしていた二DKの賃貸住宅には、揚げ物と子どもの靴と洗濯洗剤が混ざった匂いが染みついていたが、この家にはまだ桜井家の匂いがない。正面には白い壁があり、廊下の先から朝の光が差し込んでいる。葵は靴を脱ぐ前に白い靴下の裏を確かめ、足の指をそっと床へ下ろした。
「見て、傷が一つもない。新築って、本当に傷がないんだね」
「当たり前だよ。昨日完成検査をしたばかりだから」
「うちの子が二人いるのに、いつまでこの状態を保てると思う?」
拓海は腕時計を見て、午前十時十二分と確認した。ひかりは玄関の段差へ座り込み、自分で靴を脱ごうとして右足だけを何度も引っ張っている。陽太は靴のまま上がろうとしたため、葵がTシャツの背中をつまんで引き戻した。
「目標は一週間」
「ずいぶん現実的になったね」
リビングへ入ると、大きな窓から庭まで見渡せた。淡い蜂蜜色の無垢床は朝の光を柔らかく反射し、キッチンの白い天板には、工務店から贈られた小さな花籠が置かれている。冷蔵庫もテーブルもまだ届いておらず、部屋の隅には昨夜ドラッグストアで買ったトイレットペーパーと箱入りの麦茶だけが並んでいた。葵は何も置かれていない床の中央に立ち、夜勤明けに住宅情報サイトを見続けた日々を思い出した。
「ここなら、ひかりも陽太も走れるね。下の部屋の人に謝りに行かなくていいんだよ」
「庭には小さいプールも出せる。僕はもう動線を全部考えてあるから、前の家みたいに毎朝捜し物をしなくて済む」
「それ、三年前から聞いてる。まず自分のスマホを冷蔵庫へ入れない生活を目指そうか」
拓海は聞こえなかったふりをして、リビングの壁一面に設置された特注収納へ向かった。扉を開けると、棚板が等間隔に並び、奥には充電器用のコンセントまで設けられている。拓海は設計段階から、保育園の書類、ひかりの療育教材、救急箱、爪切り、体温計まで、すべての置き場所を決めていた。棚の寸法を書いた方眼紙は、何度も折り畳んだため端が白く擦れている。
「葵、収納ケースを持ってきて。半透明の、ラベルに『園関係』って書いてあるやつ」
「引っ越し業者さんは午後だよ。車に積んできたのは、すぐ使うものだけ」
「その箱なら車に積んだ。動線の検証を最優先にしたから」
「着替えより収納ケースを優先したの?」
拓海は玄関へ走り、車から半透明のケースを抱えて戻ってきた。ふたには油性ペンで「保育園・療育」と書かれ、その下に陽太が貼った納豆のシールが残っている。葵が納豆のシールを剥がそうとすると、陽太が「ぼくの、なっと!」と叫んだため、指を離した。拓海はケースを両手で持ち、胸の高さの棚へ慎重に差し込んだ。
ケースは途中で止まった。拓海は一度引き抜き、今度は角度を変えて押したが、やはり入らない。葵は床に膝をつき、棚板とケースの隙間をのぞき込んだ。木の匂いに混じって、拓海の額から流れた汗の匂いが近づいてくる。
「向きが違うんじゃない?」
「このケースに向きはない」
「棚板を一段上げれば?」
「可動棚じゃない。強度を優先して固定してもらった」
拓海はショルダーバッグから金属製のメジャーを取り出し、ケースの高さを三回測った。次に棚の内寸を測り、方眼紙の数字と見比べる。唇が小さく動き、右手の親指がメジャーの留め具を何度も押していた。
「ケースが三十一・八センチ。収納の内寸が三十一・五センチ」
「三ミリ?」
「三ミリ」
「ミリ単位で計算したんじゃなかったの?」
「計算した。内寸じゃなくて、棚板を含めた高さを」
葵は天井を見上げ、ゆっくり息を吐いた。病棟なら、部下が輸液ポンプの設定を間違えたときでも、まず患者の安全を確認してから原因を調べる。しかし患者の安全とは関係のない三ミリの前では、どんな顔をすればいいのか分からなかった。拓海はケースを抱えたまま、完成した収納と設計図を交互に見ている。
「つまり、この大金をかけた特注収納に、特注する原因になったケースが入らないのね」
「大金という表現は正確じゃない。標準仕様との差額は十八万六千円で……」
「詳しい金額を今ここで言わないで。ローンの重みで床が沈むから」
そのとき、キュッ、キュッと床をこする音が聞こえた。葵が振り向くと、陽太がリビングの隅にしゃがみ込んでいる。小さな右手には黒い油性ペンが握られ、蜂蜜色の無垢床には丸い顔が四つ並んでいた。一番大きな顔からは髪らしい線が何十本も伸び、その隣の顔には眼鏡が描かれている。
「陽太、それ、どこから出したの?」
「ママと、パパと、ねえねと、ようた!」
陽太は褒めてもらえると思ったのか、白い歯を見せた。黒い線から油性インクの鋭い匂いが立ち、葵のこめかみが一定の速さで動き始める。拓海は収納ケースを落としそうになり、慌てて壁へ立てかけた。
「油性だ。水性じゃない。どうして引き渡し日に油性ペンがあるんだ」
「あなたの方眼紙と一緒に入ってたんでしょう!」
「僕の管理区域へ陽太が侵入した形跡はなかった」
「三歳児に侵入の形跡を求めないで!」
葵はキッチンへ走り、持参した掃除用の布と中性洗剤を取り出した。床へ洗剤を直接つけそうになり、無垢材に使ってよいのか分からず手を止める。拓海はスマートフォンで工務店の注意事項を検索し始めたが、電波が弱く、画面中央の丸印だけが回っていた。陽太は自分の作品へ、さらに足を描き加えようとしている。
「拓海、ペンを確保!」
「了解。陽太くん、危険物をこちらへ渡してください」
「やーだ。まだ、くつ、かくの」
「靴は描かなくていい! 家の中だから全員裸足!」
葵が陽太の手をつかんだ瞬間、庭のほうから水の激しい音が聞こえた。さっきまでリビングにいたはずのひかりが、開いた掃き出し窓から庭へ出ている。黄色いワンピースの裾は茶色く染まり、両手には泥がべったりついていた。庭の蛇口から勢いよく水が流れ、まだ芝の根づいていない土に大きな水たまりができている。
「おみず、いっぱい!」
ひかりはホースの先を持ち上げ、窓の前に立つ両親へ笑いかけた。次の瞬間、水が網戸を直撃し、細かな飛沫がリビングの無垢床まで飛び込んできた。陽太は油性ペンを放り出し、「ようたも!」と叫んで庭へ走ろうとする。
葵は濡れ始めた床、油性ペンの似顔絵、泥だらけのひかりを順番に見た。拓海もスマートフォンを握ったまま、入らない収納ケースと全開の蛇口を見比べている。病棟で複数のナースコールが同時に鳴ったときと同じ顔を、夫婦は互いに向けた。
「まずはトリアージ!」
二人の声が重なった。葵は床の水を拭き、拓海は庭の蛇口を閉める。陽太から油性ペンを回収したあと、泥だらけのひかりを浴室へ運び、玄関に置いていたバスタオルで手足を拭いた。ひかりは水遊びを終わらされたことが納得できず、浴室の床へ座り込んで全身の力を抜いた。
「ダイオウイカになった。搬送困難」
拓海はひかりの両脇へ腕を入れたが、力の抜けた身体は予想以上に重い。葵は笑いをこらえながら足側を持ち、夫婦で娘を脱衣所まで運んだ。陽太も手伝うつもりで、ひかりの泥まみれの靴を一足ずつ胸に抱えてついてきた。
夕方、引っ越し業者が到着するころには、夫婦の服は汗と泥で斑になっていた。葵の白いワイドパンツには茶色い手形がつき、拓海の水色のポロシャツには濡れた跡が大きく広がっている。積み上がった段ボールの間を子どもたちが走り回り、どの箱からも必要なものだけが見つからなかった。電気ケトルはあるのにカップがなく、歯ブラシはあるのに歯磨き粉がない。拓海は探し物をするたびに、箱へ貼られたラベルを指でなぞっていた。
「僕は全部、部屋ごとに分類したはずなんだ」
「『すぐ使う』『たぶん使う』『あとで考える』は、部屋の名前じゃないからね」
「分類したときは、それが一番分かりやすかった」
「過去のあなたと現在のあなたで、引き継ぎができてないのよ」
夜八時を過ぎても、ダイニングテーブルは段ボールの中から出てこなかった。葵は近所のそば屋で買ってきた引っ越しそばを、容器のまま床へ並べた。天ぷらは時間がたって衣が柔らかくなり、つゆの甘い匂いに新しい畳と木材の匂いが混じっている。ひかりは着替えた桃色のパジャマで座り、短く切ったそばを一本ずつすすった。陽太は海苔を額へ貼り、「おばけ」と言って拓海を驚かせている。
「新築の初日の夕食が、床に座って伸びたそばかあ」
拓海は割り箸を割り損ね、左右の長さが違う箸を見つめた。葵は自分の天ぷらを半分にして、ひかりと陽太の容器へ入れた。窓の外では庭の水たまりが街灯を映し、網戸には乾いた泥の粒が残っている。
「僕は、もう少し整った暮らしになると思ってた。収納も動線も、全部考えたから」
「三ミリだけ考え足りなかったけどね」
「それは今、かなり効く」
葵は箸を置き、落書きの残った床を見た。洗剤を使わず乾いた布で拭いたため、四人の似顔絵はほとんど消えていない。髪の毛が爆発した大きな顔も、眼鏡をかけた顔も、線の曲がった小さな二つの顔も、段ボールの陰からこちらを見上げていた。
「この家、完成したばかりなのに、もう桜井家らしいね」
拓海は黒い似顔絵を見つめたあと、眼鏡の顔を指さした。陽太は口いっぱいにそばを入れたまま、得意そうに胸を張る。ひかりも「かぞく」と言い、泥遊びで赤くなった両手をぱちぱち鳴らした。
「床の補修はできる。でも、これは少し残しておこうか」
「いいの? 傷ひとつない家を守るんじゃなかった?」
「一週間は無理だった。次の目標は、四人とも大きなけがをせずに住宅ローンを完済すること」
「急に三十五年先まで延びたね」
誰からともなく笑い声が上がり、何も置かれていないリビングによく響いた。無垢床には初日の落書きが残り、特注収納の前には入らないケースが置かれ、浴室には泥のついた黄色いワンピースが水に浸かっている。葵は冷めたそばをすすりながら、この家で始まるのは整った暮らしではなく、四人で何度も立て直す暮らしなのだと思った。
陽太は空になった容器を頭に載せ、両手を広げて立ち上がった。
「ママ、つぎのインシデント、なに?」
葵と拓海は箸を止め、顔を見合わせた。次の瞬間、容器に残っていたつゆが陽太の髪から無垢床へ流れ落ちた。桜井家の二度目のトリアージは、入居初日の午後八時二十三分に始まった。




