格闘
「漆黒」
メアリーはダランドの顔めがけて、闇の球をぶつけた。
「なっ」
ダメージを与えるものではないが、一瞬の『隙』は生まれる。目つぶしなら光玉の方がより効果的だが、それだとメアリーの方も目を閉じなければいけない。その点、闇の球は、相手の視界を妨害するだけだ。
メアリーは相手の振り上げられた右腕をつかみながら相手の懐に入り、その背で背負ってダランドの体を投げる。そしてそのまま腕を固定して自分の前に抱え込んだ。白刃がメアリーの頬や首筋をかすめたが、意に介さずにメアリーは足を使って相手の肩を固定する。
「ひぃいっ」
なんとしても逃れようとダランドは暴れたが、完璧に決まったメアリーの体術から逃れられず、くたりと力が抜けた。失神したようだ。
「ふぅ」
メアリーは拘束を解き、ゆっくりと立ち上がる。さすがに息が上がり、しばらく呼吸を整えた。
頬に手をあてると、ねっとりとした感覚をおぼえ、メアリーは苦笑する。
「あら、血だわ」
手のひらに赤い血がべっとりとついている。感覚からして深い傷ではないが、顔の傷は目立つ。痛くはないが、周囲は心配するだろう。特にサラから小言を言われるに違いない。
「こんな夜中に騒ぎたてたくはないけれど、とりあえず、セバスは呼ばないといけないわね」
メアリーはダラントが手にしていた短刀を拾い上げて、小さくため息をついた。
呼び鈴を鳴らす紐をひくと、ほどなくセバスが現れた。
メアリーと床で伸びている女性を一瞥をすると、メアリーの言葉を待たずに、メイドを一人呼んだ。
「大奥さまのお手当てを」
やってきたマーシィというメイドにそう命じると、セバスはきびきびとダラントを縛り上げる。ダラントは意識を失ったままだ。
「警察に連絡をいたします」
「そうね、しかたないわ」
正直な話、警察が来れば受け答えをせねばならず、寝てしまうわけにはいかないから、明日にしたい気持ちは山々だ。だが、朝になってしまえば、ウォルクが起きてくる。さすがに信頼する家庭教師が警察に連れて行かれるところを見せたくはない。
「くれぐれも大ごとにしないように伝えて。捜査そのものは協力するからとね」
「承知いたしました」
セバスは頭を下げる。
「大奥さま、お手当てをいたします。そちらの椅子におかけになってください」
マーシィが救急箱を片手に手当てを始める。若いが、随分と手際が良い。
「深い傷ではありませんが、お美しい大奥さまのお顔に傷なんて……」
マーシィは苦い顔になった。
「気にしないで、かすり傷よ」
メアリーは首を振る。正当防衛を主張するには、これくらいのかすり傷があった方が説得力があるだろう。一方でダラントの腕は脱臼しているかもしれない。腱が切れている可能性もある。刃物を持っていないのであれば、あそこまで徹底してやらなかった。
たとえ相手が誰であっても、メアリーは刃物を持った相手に容赦はするべきではないと思っている。刃物を持てば、幼子でも人が殺せるのだ。手加減などと悠長な考えは、死に直結する。
「ラスカルゴ侯爵家の爵位が宙ぶらりんの現状は、できるだけおとなしくしていたほうが無難とはいえ、魔術一発で仕留める方が、結果としては穏やかだったかもしれないわね」
メアリーはもともと肉弾戦の専門家ではない。ただ、魔術で沈めれば、もともとが軍の魔術師であった経歴から、『過剰防衛』と非難を受ける可能性もある。
ウォルクの後継者争いでは、どこで足を引っ張られるかわからないのだから、用心に越したことはない。
「それより、久しぶりに無茶をしたから、あとで、体のあちこちが痛くなるかもしれないわ。最近は、なかなか疲れが取れないからそちらの方が心配ね」
若い頃と違って、眠ったところで疲れが残ってしまう。
そればかりは、日々どんなに体を鍛えるようにしていても逃れようがない。
「それにしても、マーシィ、あなた、この状況で何も驚かないのね?」
一緒に働いていた使用人の一人が家令に縛り上げられ、遠方から来た元侯爵夫人と争った様子があるのに、少しも動揺した様子がない。
「大奥さまは国の英雄だと伺っておりましたし、ロクスタン男爵夫妻の顛末もしっかり見ておりましたから」
マーシィはメアリーの首筋についた切り傷にそっと包帯を巻く。
「彼女については、別に驚きません。あの人、私たちメイドには厳しくて、酷い言動をとる人でした。性格が悪くって、いつも油断のない目つきでしたもの」
アンリから聞いた通り、本当にメイドの間では評判が良くなかったようだ。ダラントは、自分の方が立場が上であることを事あるごとに主張し、ウォルク付きのメイドをまるで自分の下働きのように扱うことも珍しくなかったらしい。
「それに休みの日、ハウザー通りの方に行っているって聞いてました。おおかた、お金にも困ってコソ泥の真似事をしたのを大奥さまに見つかったのでございましょう?」
「そんなようなものね。それにしてもハウザー通りとはねえ……」
飲み屋や賭場、娼館、金貸しなどが軒を連ねている、あまり治安が良いとは言えない地区だ。
若い女性が遊びや息抜きにいくにしても、危険である。
「動きから見て戦いなれている人間ではないと思ったけれど、かといって、脅されてやむなしという可哀そうなお嬢さんって感じもしなかったわね」
メアリーに見つかったとわかった時、とっさにナイフをつかみ、その手を隠しながら振り返ったりとか、かなり余裕があった。
「なんにしても警察が来るのであれば、少し身なりを整えたいわ。残業をさせて申し訳ないけれど、手伝ってくださる?」
「ええ、もちろん」
治療を終えたメアリーは、その場をセバスに任せ、一度客室に戻ることにした。




