霊安室
遺体を見るまで、メアリーは心のどこかで、エリックは生きているのではないかと期待していたのかもしれない。頭では理解していたはずだ。が、兄のトーマスの話を聞いても、自分が思っている以上に気持ちは追いついてなかったのだろう。
「大丈夫かい? メアリー」
トーマスはメアリーの背中をさすり、妹の気持ちが落ち着くのを待った。
「ええ。ありがとう、兄上」
涙をぬぐい、メアリーは立ち上がった。
「エリックは軍を辞めたから、危険なことはもうないと思っていたわ。こんなことがあるなんて、これが運命だというのであれば残酷です」
メアリー自身も軍にいた。だから、軍の任務が生死が隣り合わせなのは誰よりも理解していた。だから、エリックが家庭を持って間もなく軍を辞め、法務省の仕事を始めたときは、どこかほっとしていたのだ。死はいつだって、どこからともなくやってくることを突きつけられる。
「アルコル文書を狙っての動きは、ここ半年ほど落ち着いていた。それに今まで、エリック自身を狙うようなことはなかったんだ。だって、そうだろう? エリック自身を害したとしても、アルコルの連中が取り戻したいのは文書だ。内容は既に機密とは言えないのだから、知っている人間を消したところで意味はない」
トーマスの声が震える。
「だからこそ、遺産争いの可能性もあると思っている」
「ロクスタン男爵ですか?」
メアリーは兄の顔を見る。
「ああ。動機は十分だ。ただ、証拠はない」
ダリとロクスタン男爵の接点がみつからないらしい。
「ロクスタン男爵だとしたら、私も狙われますかね?」
現状、後見人の座は、メアリーとロクスタン男爵で争っている形で確定ではない。ロクスタン男爵から見れば、メアリーは邪魔でしかたないだろう。
「用心はしておいた方がいい。ただ、奴が黒幕というのは、あまりしっくりきていない」
トーマスは首を振る。
しんと静まり返った霊安室の中で、生者の影だけが僅かに動く。
「そうですね。あまり頭の良い方ではなさそうですから」
後見人の座を得ていないうちに、侯爵家を自分のもののようにふるまう行為は、あまりにも子供じみていた。
「念のため護衛を──」
「必要ありません」
メアリーはきっぱりと断る。
「相手をいぶりだすために捜査結果の発表を遅らせていたのではありませんか? 少なくとも後見人の決定が行われるまで、隙を作ってみせるべきです」
「しかし、メアリー」
「兄上がすべきなのは、ダリという男を使ってエリックを殺した相手を捜し出すことですわ。遺産めあてなのか、アルコル文書がめあてなのか、それとも第三の理由があるのかはわかりませんけれど。それに私には、既にジムがいるので大丈夫ですわ」
「大奥さま……」
メアリーにニコリと微笑まれ、ジムは恐縮したようだった。
「兄上が知らないだけでアルコル文書の捜査で何か動きがあったのかもしれません。少しかき回してみて動きがあるかどうか見てみましょう。ちなみに男爵はホテル『プラチナ』のスウィートを満喫中のはずです。そちらは警察に任せますわ」
「メアリー、無茶はするな。お前が強いのはわかっているが、さすがにもう若くはないのだから」
トーマスの表情が険しくなる。
「ええ、そうですわね」
素人相手ならともかく、相手がプロであったなら、体力的に敵わないだろう。そうでなくても、メアリーは女性で、男性には『力』と『体格』で劣ってしまう。
「ああ、そういえば、このようなものが我が家に来ておりましたの」
メアリーは持っていたダランドあての手紙をトーマスに手渡す。
「勝手に開封しても問題ないかなとも思ったのですが」
「ふむ。この消印は、首都のものだが……」
通常、消印は手紙を受け付けた段階で押される。本来なら差出人の住所の支局の消印が押されているはずだ。
「つまり、彼女の実家からというわけではないと?」
「その可能性が高いな」
トーマスはそっと手紙を開封する。
「……父親が危篤だそうだ。実家に帰るように書かれている」
「そうですか」
真偽はわからない。
ただ、ダランドがエリックの部屋に侵入したことに気づかず、朝を迎えていたならば、その手紙を読んだ彼女が慌てて屋敷を出ても誰も不審に思わなかっただろう。彼女が旅支度を既にしていたことも、おそらく誰も知らなかっただろうから。
「全部計画をされたことだと考えると、随分と周到ですわね」
「ああ」
まるで、ラスカルゴ家の様子を監視していたかのようでもある。
「情報が洩れているということかしら?」
「俺ではありません」
ジムが慌てて首を振る。
「そうね。あなたを疑ったりはしていないわ」
メアリーは微笑む。
「というよりは、どこかになんらかの魔術陣が仕掛けられているか、魔道具があるのかもしれない」
「魔道具?」
「製品化していない、一般に公開されていない魔道具や魔術なんて、軍や魔術省にはいくらでもあります。法務省や警察にスパイを送り込むほど体力のある結社なら、それくらいの反則をしても不思議じゃないと思いませんこと?」
メアリーはもう一度、遺体の顔に手をふれ、白布でその顔を覆う。
「無理はするなメアリー。お前は、大事な孫のウォルクを守らないといけないのだから」
「ええ、わかっています。兄上。でも、ただ待っているだけというのは、性に合いませんの」
メアリーの目に、涙はもうなかった。




