護衛が外された日、彼女は初めて自分の意思で引き止めた
離れるべきだった手を、彼女は離さなかった
その日、城内はいつも通り静かだった。
ただ、ほんの少しだけ――いつもより風の通りが遅い気がした。
レイラは廊下を歩いていた。
いつも通り、テュエルを率いて。
特に目的はない。
強いて言えば、資料室へ向かう途中だった。
その途中で。
角を曲がった先。
視界の端に、誰かがいた。
家臣と、女官。
書類の受け渡しの途中だったのか。
それともただの通り道だったのかは分からない。
ただ一つだけ、明確だったのは――
距離が、近い。
廊下の空気が、そこだけ少しだけ狭くなったような距離。
そして。
指先が、ほんの一瞬だけ触れていた。
それだけのはずなのに。
すぐに離れる気配は、なかった。
むしろ、最初からそこにあったように、自然に収まっている。
レイラは足を止めた。
(……?)
何かを理解したわけではない。
ただ、“知らない形”を見たという感覚だけが、静かに残る。
胸の奥が、わずかにざわついた。
目を逸らしたほうがいい、と一瞬だけ思ったのに。
なぜか、視線が外れない。
理由が分からないまま、そこだけを見ていた。
テュエル
「…レイラ様?どうかされましたか?」
レイラ
「……なんでもない」
その声で、ようやく視線がほどける。
ほんの一拍遅れて、レイラは歩き出した。
やがてその二人は、何事もなかったように別々の方向へ歩き出す。
まるで、最初から何もなかったかのように。
そのまま、角の向こうへ消えていく。
残されたのは、理由の分からない静けさだけだった。
⸻
資料室は、ひんやりとしていた。
紙とインクの匂いが濃く、静けさがやけに深い。
テュエルを扉の外へ待機させ、レイラは棚を眺めていた。
目的は曖昧だった。
ただ、さっきの光景が、頭のどこかに残っていた。
(……あれは、なんだったんだ)
言葉にすれば薄れてしまうような違和感。
けれど、確かに“引っかかり”として残っている。
手を、繋ぐ。
肩を、寄せる。
それだけのこと。
なのに――なぜか、そこに“何か”があった気がした。
(……愛の匂いがした)
そう思った瞬間。
レイラは、迷わなかった。
レイラは一冊の本を引き抜いた。
恋愛譚、とだけ書かれた薄い冊子。
ぱら、とめくる。
そこに描かれていたのは――
さっき見た光景と、よく似ていた。
曲がり角ではない。
廊下でもない。
けれど。
手を繋いでいた。
肩を寄せていた。
その絵の中の人物たちは、
当然のようにそこにいて、
当然のように触れていた。
(……同じだ)
小さく、息が止まる。
そういえば昔――
転びそうになった時に、爺に手を引かれたことはある。
それと同じようなものだろうか、とぼんやり思う。
ただそれは、守るための手だった。
今見たものは、それとは少し違う気がした。
理由は分からない。
けれど、胸の奥がまた少しだけ、落ち着かない。
レイラは本を閉じた。
⸻
資料室から出ると、扉の外にテュエルが立っていた。
いつも通りの位置。
いつも通りの距離。
それを見て、なぜか少しだけ安心する。
レイラは、ぽつりと呟いた。
「……テュエル」
すぐに声が返る。
「はい、レイラ様^^」
いつも通りの声。
いつも通りの温度。
なのに、さっきより少しだけ――近く感じた。
レイラは一拍置いてから、視線を上げる。
「……なんで、人は手を繋ぐんだ?」
一瞬、空気が止まる。
テュエルは、すぐには答えなかった。
答えられなかった、が正しい。
(……何を見た?)
内側だけが一瞬だけ跳ねる。
だが表には出さない。
「……そうですね」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「安心、したいから……でしょうか」
「もしくは、離れたくないと……思うときとか」
「つながりを感じたい時」
「気持ちを、伝えたい時……でしょうか」
言葉を重ねながら、少しだけ自分の声が遠く感じる。
レイラは、わずかに目を細めた。
「……そうなのか」
その声には、まだ理解はない。
ただ、“知識”として受け取っているだけの響き。
けれど――
興味だけは、確かにあった。
それが、テュエルの胸をわずかに締める。
「……繋いでみたいですか?」
気づけば、言葉が先に出ていた。
レイラは一瞬だけ止まる。
「……いいのか?」
何の迷いもない、ただの確認。
「……はい」
それだけは、迷わなかった。
レイラはゆっくりと手を差し出す。
テュエルは、その手を取る。
触れた瞬間。
――心臓が、ひとつだけ強く跳ねた。
(……っ)
呼吸が、一瞬だけ乱れる。
けれど、表情は崩さない。
レイラは、そのまま手を見つめている。
「……こういう感じか」
小さく確かめるように言う。
ぎゅ、と少しだけ力が入る。
テュエルの喉が、かすかに鳴った。
(……まずい)
(これは……)
(想像より、ずっと……)
(危険だ……)
レイラは無自覚のまま、もう一度握り直す。
「……あったかいな」
その一言で。
テュエルの中で、何かが静かに“確定”する。
(離せるわけがない)
(戻れない、ではない)
(……もう戻る必要がない)
「……っ……」
「レイラ様のお手は少し冷たくて……落ち着きますね^^」
なんとか形にした返事だった。
⸻
その光景を見ていた影があった。
ダイン。
(……変わったな)
ダインの目が、細くなる。
崇拝でもない。
信仰でもない。
あの“まっすぐ過ぎる忠誠の匂い”は、もうそこにはなかった。
代わりにあるのは――
距離を詰めることを、迷っていない呼吸。
触れたことを当然として扱う手つき。
それを隠す気もないまま整えられた表情。
(……女として、か)
理解は一瞬だった。
だからこそ、余計に腹立たしい。
何も言わない。
何も止めない。
ただ、目だけがわずかに細くなる。
(……終わりだな)
何に対してかは、もう言うまでもなかった。
その一言は、声にならないまま沈む。
静かなはずの廊下に、妙な圧だけが残った。
⸻
夜
テュエルがレイラと離れ、夜警へ移ろうとした頃だった。
爺
「テュエル殿」
テュエル
「……爺殿?」
「どうされました?」
爺はわずかに言い淀んでから、視線を落とす。
爺
「……陛下が、執務室でお待ちです」
その言葉に、空気がひとつだけ重くなる。
テュエル
「…………」
(最悪だ)
(今度は何の用だ、あの岩は)
夜の呼び出し。
それだけで十分すぎるほど嫌な予感がした。
爺
「……何か、やらかしたか?」
テュエル
「……いえ」
「……いや」
曖昧に濁す声に、爺はそれ以上追及しなかった。
爺
「……気をつけなさい」
その一言だけ残して、爺は去っていく。
⸻
重い足取りで、執務室へ向かう。
何かをした覚えはない。
だが、何も感じなかったわけでもない。
(……あの手の温度)
(あの距離)
(あれは――)
思考を途中で切る。
自分が一番、理解している。
それでも胸の奥に残っているものからは、逃げられなかった。
⸻
執務室の扉を叩く。
テュエル
「……陛下、俺です」
ダイン
「……入れ」
短い返答。
入室する。
テュエル
「レイラ様の夜警の時間です。手短にお願いします」
「単刀直入に聞きます」
「……何の用ですか」
その声には、あからさまな棘があった。
ダインはそれを気にも留めない。
ダイン
「もう、お前はレイラの側に置けない」
「明日から来なくていい」
一拍。
世界が、そこで止まった。
ドクン――
心臓が、強く鳴る。
テュエル
「……なぜですか」
そう言おうとして、
ダインが先に言葉を重ねる。
ダイン
「理由は……わかるな?」
「お前が一番よくわかっているはずだ」
その瞬間。
喉の奥が、詰まる。
手が、わずかに震えた。
否定しようとする思考だけが浮かび、言葉にはならない。
呼吸が浅くなる。
心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
(……違う)
(いや、違わない)
理解してしまう自分がいる。
退くなら、今しかない。
このまま引けば、すべては“終わる”。
それでも――
引き返せないものが、すでにあった。
⸻
しばらくの沈黙のあと。
テュエルは、ようやく口を開く。
テュエル
「……はい」
それは、肯定でも服従でもない。
ただ、自分が“知ってしまったもの”を認める音だった。
⸻
静かな朝だった。
城の空気はいつも通り整っていて、
何も変わらないはずなのに――
どこか、ひどく息苦しい。
扉を開ける。
「……」
いつもなら、そこにいるはずの影がない。
ほんの一瞬だけ、足が止まる。
代わりに立っていたのは、見慣れない女官だった。
「おはようございます、姫様。本日のお支度を――」
差し出された手。
その指先が、わずかに震えている。
レイラは、何も言わずにそれを見る。
視線が合った瞬間、女官の肩が小さく揺れた。
「……っ」
空気が、合わない。
(……違う)
⸻
気づけば、支度は終わっていた。
髪も、衣も、整っている。
だが――
「……」
何も、残らない。
触れられた感覚も、温度も。
すべてが、薄い。
(……違う)
(……あいつは、どうした)
レイラはそのまま立ち上がる。
――居間へと向かった。
⸻
そこで声をかけられる
「レイラ」
呼ばれて、顔を上げる。
父――ダインが、こちらを見ていた。
「護衛を新しくする」
唐突な言葉だった。
「また試験をする。好きに選べ」
一瞬、意味がわからなかった。
「……どういうことですか」
静かに問い返す。
ダインは、わずかに視線を逸らし――
「昨夜、ヤツを解雇した」
空気が、止まる。
一瞬。
意味は、理解できる。
けれど、それが“何を指しているのか”だけが、遅れてずれていく。
(……解雇?)
誰を。
なぜ。
思考が形になる前に――
「……なぜですか」
その問いは、ほとんど反射だった。
間はなかった。
ダインは、真っ直ぐにレイラを見る。
「お前へ向ける“匂い”が変わった」
「……お前も、気づいているだろう」
沈黙。
レイラは、わずかに視線を落とす。
確かに、わかっていた。
けれど――
「……今さらです」
小さく、そう言った。
「好意は、人の自由です」
「……あいつの選択を、奪わないでください」
顔を上げる。
「――私の、選択も」
その声は揺れていない。
迷いも、怯えもない。
ただ真っ直ぐに、そこに立っていた。
ダインは、一瞬だけ言葉を失う。
(……)
初めてだった。
娘が、自分の意志で、真正面から“線”を引いたのは。
しばらく、沈黙が落ちる。
叱るべきか。
退けるべきか。
いつもなら選べるはずの答えが、どこにも見当たらない。
目の前のレイラは、もう“子ども”ではなかった。
ただ静かに、ひとつの意思としてそこにいる。
ダインは小さく息を吐き――
「……好きにしろ」
それだけを落とした。
短く、それだけ告げる。
「はい」
レイラは、迷わなかった。
⸻
城の外。
風が、流れている。
(……いる)
匂いを、辿る。
まだ遠くない。
(……なんで、私は)
(匂いを、追っている?)
理由が、うまく言葉にならない。
(……別に)
(……困るだけだ)
(あいつがいないと、不便だし)
(それだけ――)
足が速くなる。
視界の先。
見慣れた背中。
――テュエル。
その背は、迷いなく城から離れていく。
呼ばない。
ただ――
そのまま、駆けた。
背中に、抱きつく。
「……っ」
布越しに伝わる体温。
一瞬、強くこわばる気配。
レイラは、自分の行動に遅れて気づく。
(……なにを……)
(……私は……!?)
一気に顔が熱くなる。
けれど。
離さない。
離せない。
「……っ……レイラ様……?」
低い声。
「……なぜ、ここに」
言葉に詰まる。
(なんて言えばいい……?)
(引き止めたい?)
(違う……そんな――)
視線が泳ぐ。
それでも、腕だけは動かない。
「……せ、世話役がいなくなるのは、不便だからな」
やっと出た言葉は、
ひどく不器用だった。
沈黙。
テュエルは、何も言わない。
ただ、わずかに息が乱れる。
(……不便、か)
その言葉だけを、静かに受け取る。
「……本当によろしいのですか」
低く、確認する声。
「ボクは――」
一瞬、言葉が止まる。
「……相応しくないかもしれません」
それ以上は言わない。
レイラは、少しだけ眉を寄せる。
「……それは、お前が決めることではない」
ぽつりと。
「選ぶのは、私だ」
一拍。
「……選んだのも、私だ」
短く、言い切る。
沈黙が落ちる。
風の音だけが通り過ぎる。
テュエルは、ゆっくりと目を閉じた。
(……離れるべきだ)
(これ以上は、許されない)
それでも。
背中に残る体温だけが、現実だった。
ゆっくりと、レイラの腕に触れる。
振りほどくことは、できる。
けれど――
それでも、そのままにした。
「……承知しました」
それだけを、落とす。
それ以上は、何も言わない。
⸻
「……帰るぞ」
そう言って、レイラは自然にテュエルの袖を掴む。
そして、そのまま引いた。
その手に視線を落とし、
テュエルは、ほんのわずかに目を細める。
「……はい。レイラ様^^」
(もう戻らない)
その確信だけが、
静かに胸の奥へ沈んだ。
――その瞬間。
ふと、頭の奥に声がよぎる。
(安心、したいから……でしょうか)
(もしくは、離れたくないと……思うとき、とか)
(つながりを感じたい時)
あの時、ただ言葉として並べたはずの説明が、
今は妙に輪郭を持って浮かんでいた。
手を繋ぐ、という行為。
それはただ触れることではなくて、
“離れない理由を確かめること”だったのかもしれない。
レイラの手は、迷いなくそこにある。
まるで最初から、そうすることが決まっていたかのように。
テュエルは小さく息を吐き、
そのまま一歩だけ、距離を合わせた。
この日から。
二人の距離は、
静かに――確実に、変わり始めた。




