綺麗にならないでくれ――護衛が、少女を“女”として見てしまった日
俺の日課は、変わらない。
朝、レイラ様が目覚めるよりも前に、
自室の扉の前で待機することから始まる。
気配を整え、衣を整え、匂いを確認し、
鏡で笑みを作る。
――完璧だ。
そうして、扉の向こうに意識を向ける。
(……そろそろだ)
静かに息を整えた、その時。
「……テュエル」
内側から声がかかる。
僅かな物音すら逃さず、
即座に反応する。
「はい、おはようございます^^」
「開けますね」
扉を開ける。
そこには――
寝起きのまま、ぼんやりとしたレイラ様がいた。
銀の髪がわずかに乱れ、
視線はまだ定まっていない。
(……今日も、変わらず美しい)
そう思うことに、何の疑問もなかった。
それはずっと前からだ。
六の頃から、変わらない。
この方は特別で、
守るべき存在で――
それだけだった。
「本日は舞のご予定なので」
「髪を結いますね」
「……頼む」
いつも通り、後ろに回る。
指先で髪を梳く。
柔らかい。
冷たいのに、どこか温度を感じる。
(……?)
その時、ほんの僅かに、
違和感が走った。
(……なんだ?)
だが、掴めない。
結い終える。
「……よし」
そのまま、前へ回ろうとした瞬間――
「テュエル」
くるりと、振り向かれる。
「はい」
いつも通り、即座に返す――はずだった。
だが。
「…………っ」
一瞬、遅れた。
視線が、合う。
あの瞳。
遊色の、すべてを見透かすような目。
(……なんだ、今の)
胸の奥が、わずかに跳ねる。
理由が、わからない。
「……どうした」
「……いえ。問題ございません」
すぐに整える。
それで終わるはずだった。
――その時までは。
⸻
廊下は、昼下がりの静けさに包まれていた。
差し込む光が白く床を照らし、
障子越しの風が、わずかに空気を揺らす。
その中を、レイラ様が歩いていた。
舞の稽古へ向かう途中。
普段よりも裾の長い、女物の着物。
動きを制限するように、足元にまとわりつく。
それでも構わず、いつも通りの歩幅で進む。
――そして。
テュエル
「レイラ様、段差が――」
言い切る前だった。
裾が、わずかに絡む。
踏み出した足が、引っかかる。
体勢が、崩れた。
「――っ」
反射だった。
一歩踏み込み、腕を回す。
腰を支え、そのまま抱き留める。
――軽い。
それは、知っている。
いつも通りだ。
だが。
(……違う)
一瞬、思考が止まる。
腕の中に収まった体が、
――やけに、近い。
(……何だ、今の)
触れている。
それも、今までと同じように。
護衛として、当たり前に。
だというのに。
(……柔らかい)
(違う)
(これは――知っているものじゃない)
(……なんで、今まで気づかなかった)
遅れて、認識が追いつく。
布越しに伝わる感触が、
これまで知っているそれと、わずかに違う。
(……いや)
視線を落としかけて、止める。
(見るな)
瞬時に思考を切り替える。
テュエル
「……失礼いたしました。お怪我は?」
すぐに距離を取る。
何事もなかったかのように。
レイラ
「……ああ、大丈夫だ」
何も気づいていない声。
いつも通りの、無防備な返答。
それが――
(……余計に、悪い)
胸の奥が、ざわつく。
何が違うのか。
何が引っかかっているのか。
わからないまま、
(……忘れろ)
無理やり思考を切り捨てる。
だが――
腕に残った感触だけが、
消えなかった。
――――
舞の稽古。
いつもと同じ光景。
だが――
(……違う)
扇が舞う。
衣が揺れる。
その中で、
(……目が、離せない)
動きは変わっていない。
精度も、完成度も、いつも通り。
(美しい……)
しかし。
(……なぜだ)
視線が、吸い寄せられる。
袖が翻る。
一瞬、輪郭が浮かぶ。
(――――)
思考が、止まる。
(……今)
胸の奥が、ざわつく。
今まで“なかったもの”が、
そこに“ある”。
(……違う)
いや、違わない。
ずっと、あった。
ただ――
(……見ていなかっただけだ)
呼吸が、浅くなる。
舞が終わる。
「……はぁ……」
わずかに息を整えるレイラ様。
その姿に、
(……目を逸らせ)
命じる。
だが――逸らせない。
「テュエル」
「はい」
呼ばれる。
「……少し、動きづらい」
あまりにも自然に、そう言った。
(……そうか)
理解する。
そして同時に――
確信してしまう。
(……これが、原因か)
喉が、わずかに熱を持つ。
だが、表情は崩さない。
「お任せください^^」
いつもの調子で、微笑む。
「レイラ様に合うものを、お作りいたします」
「……そうか。頼む」
疑いも、羞恥もない。
ただ、信頼だけがある。
(……あぁ)
その無防備さに、
胸の奥が、静かに軋む。
⸻
数日後。
仕上がったものを巻く。
布を重ね、
形を整え、
締める。
触れている。
触れているのに――
(……違う)
以前とは、違う。
知っているはずの身体が、
知らないものに変わっていく。
「……どうだ」
――はっと、息が止まる。
思考が、引き戻される。
「……あ」
間の抜けた声が、喉から零れかけて――
飲み込む。
すぐに、表情を整える。
「……はい。問題ございません^^」
「……動きやすいな」
レイラ様は、わずかに動く。
その動作に、
(……抑えられている)
安堵と同時に、
(……まだ、足りない)
そんな感情が混ざる。
⸻ 廊下を歩く。
レイラ様の隣を、いつも通り半歩後ろで。
――だが。
(……増えた)
視線。
ひとつやふたつじゃない。
通り過ぎる兵。
立ち止まる下働き。
すれ違う文官。
誰もが、一瞬だけ足を止める。
そして――見る。
(……やめろ)
視界の端で捉える。
逸らした“ふり”をした視線。
だが確かに、もう一度戻ってくる。
(見るな)
レイラ様は気づいていない。
いつも通り歩いている。
いつも通り、何も気にしていない。
だからこそ――
(気づくな)
奥歯が、わずかに軋む。
(その価値に)
一人の兵が、足を止めた。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
レイラ様の背を、目で追った。
――プツン。
何かが、切れた。
(……ああ)
理解する。
(こうやって、増えていくのか)
一人。
また一人。
(気づいていく)
あの方が、どれほど“価値のあるもの”か。
(……滑稽だな)
足が、止まりかける。
(今なら――)
斬れる。
一瞬で。
音もなく。
(問題ない)
事故でも、不運でも、どうとでも処理できる。
(……そうだ、それがいい)
(……消してしまえばいい)
一人ずつ。
気づいたやつから。
(全部)
胸の奥で、静かに何かが笑う。
(俺だけが知っていればいい)
(俺だけが、見ていればいい)
(この方は――)
「……テュエル?」
その声で
――ぴたり、と。
思考が止まる。
「……どうした」
振り向いたレイラが、こちらを見ていた。
ほんの少しだけ、首を傾げて。
その瞳が、まっすぐに向けられる。
(……なぜだ)
呼吸が、引っかかる。
(……なぜ今、この瞬間で呼ぶ)
ありえない。
殺気……漏れていたか?
いや……完璧に押し殺していたはずだ。
それなのに。
(なんで、この人は)
見抜いたような顔をする。
「……いえ」
一拍、遅れて。
いつもの声を作る。
「少し、考え事をしていただけです^^」
レイラは、じっと見ていた。
数秒。
そのまま、視線を外さない。
やがて――
「……そうか」
それだけ言って、前を向いた。
(……戻った)
ゆっくりと、息を吐く。
気づけば、指先に力が入っていた。
ほんの少しでも遅れていれば。
(……斬ってたな)
視線を伏せる。
(危ない)
けれど。
胸の奥に残るものは、消えない。
(……見せたくない)
(知られたくない)
(触れさせたくない)
視線を、そっとレイラ様へ向ける。
何も知らずに歩く、その背中。
(……ああ)
静かに、思う。
(やっぱり)
(この方は――)
俺が、全部奪ってでも守るしかない。
その結論だけが、
より深く、静かに根を張っていった。
(……これ以上)
(美しくなるな)
(誰にも、見られるな)
(……俺だけが知っていればいい)
その”感情”に、自分で気づく。
(……違う)
否定する。
(俺は、守っているだけだ)
それだけだ。
――そう、思っていた。
⸻
「……女の衣は、不便だな」
ぽつりと、レイラ様が言う。
「淡い色ばかりで、小さいし、動きづらい」
(……そうだ)
その言葉を聞いた瞬間、
思考が、繋がる。
(隠せる)
より自然に。
より確実に。
「レイラ様」
「なんだ」
「男物の着物を、お試しになりますか?」
一瞬の沈黙。
「……男物?」
「はい。動きやすく、レイラ様好みのお色も多いかと」
嘘は言っていない。
ただ、
(……それだけじゃない)
心の奥にある本音を、
丁寧に押し込める。
「……そうか。」
レイラ様は、少し考え――
「……いいな。それにする」
あっさりと、頷いた。
(……あぁ)
胸の奥で、何かが静かに満たされる。
(これでいい)
これは、正しい。
(守るためだ)
そう、言い聞かせる。
だが。
その奥で、
確かに芽生えてしまった感情は、
(……もう)
消えなかった。
(戻れない)
(信仰は、終わった)
(崇めるだけでは、足りない)
目の前にいるのは、
(“女”だ)
そして――
(俺は、それを知ってしまった)
静かに目を伏せる。
誰にも気づかれないように。
その狂気を、
丁寧に、隠しながら。




