甘えようとしたら夫を一本背負いしてしまった件
ある日のことだった。
レイラは一人、資料室にいた。
窓から差し込む陽光。
静かな室内。
机の上には一通の文が置かれている。
差出人はリアだった。
煌龍国へ赴いたあの日以降も、時折こうして文を交わしている。
レイラは封を開いた。
そして読み始める。
⸻
レイラ、元気にしているかしら。
あれから体調はどう?
薬が合わなくて具合を悪くしたりしていない?
あなた、自分のことは後回しにするでしょう。
少し心配しています。
その後。
シャガルとテュエルとは上手くやれているかしら。
あなた達のことだから大丈夫だとは思うのだけれど。
レイラ。
あなた、何でも一人で抱え込む癖があるでしょう?
頼るのも苦手。
甘えるのも苦手。
でも。
夫婦になったのなら、少しくらい甘えてもいいと思うの。
きっと二人とも喜ぶわ。
むしろ。
喜ばない姿が想像できないもの。
ふふ。
また今度ゆっくりお茶でもしましょうね。
リア
⸻
読み終える。
静寂。
レイラは文を見つめた。
そして。
もう一度読む。
『甘えてもいいと思うの』
そこだけ妙に目へ入った。
「……」
甘える。
考えたこともなかった。
昔から苦手だった。
頼ることも。
弱音を吐くことも。
誰かへ寄り掛かることも。
必要ないと思っていた。
いや。
正確には。
やり方が分からなかった。
レイラは腕を組む。
考える。
リアはそういうことが上手い。
人との距離の取り方も。
感情の伝え方も。
自分よりずっと。
だから。
そのリアが言うのなら。
何か意味があるのだろう。
「……なるほど」
レイラは頷いた。
少しぐらい。
努力してみるべきかもしれない。
夫婦なのだから。
⸻
中庭。
柔らかな風が吹いていた。
長椅子。
茶器。
そして。
レイラの膝。
そこへ当然のように頭を乗せている妖王。
シャガルだった。
昼寝中である。
いつもの光景だった。
最初の頃なら考えられなかった。
だが。
今では特に誰も気にしない。
侍女達も見慣れ始めている。
レイラも慣れてきた。
膝の上の重みにも。
遠慮のない距離感にも。
シャガルは目を閉じたまま口を開く。
「……何か考え事か」
レイラは手元の文へ視線を落とした。
リアから届いた文。
何度か読み返している。
「別に」
そう答える。
シャガルは片目だけ開いた。
じろり。
レイラを見る。
「別に、の顔ではないな」
「そうか」
「ああ」
即答だった。
レイラは少し考える。
そして。
もう一度文を見る。
⸻
『たまにはあなたも夫二人に甘えてみたほうがいいわ』
⸻
「……」
甘える。
レイラは考え込む。
難しい。
非常に難しい。
そもそも甘えるとは何だ。
何をすれば良い。
分からない。
だが。
リアが言うのだから。
きっと意味はあるのだろう。
レイラは真剣な顔で考えた。
その様子を。
シャガルは膝の上から眺めていた。
「何を悩んでおる」
「……」
レイラは答えない。
考える。
非常に真面目に考える。
そして。
結論を出した。
(よし)
少し努力してみよう。
夫婦円満のために。
レイラは静かに決意した。
問題ないはずだ。
夫婦なのだから。
レイラはそっと手を伸ばした。
シャガルの手。
そこへ。
ぎゅっ。
握った。
「……」
そして気付く。
強い。
思ったよりも。
かなり強く握っていた。
「……」
違う。
そうではない。
甘えるとは。
たぶんこういうことではない。
だが。
今さら離すのも不自然だった。
シャガルが片目を開く。
レイラを見る。
そして。
もう一度手を見る。
「……」
沈黙。
「痛い」
「……」
「なんのつもりだ」
「……」
レイラは考えた。
まずい。
説明を求められた。
何か言わなければならない。
だが。
思い付かない。
甘えようとした。
とは言えない。
絶対に言えない。
どうする。
どうする。
どうする。
必死に考える。
そして。
思い付いた。
「腕相撲で勝負だ」
「なんでだ」
その後。
本当に腕相撲をした。
なかなか白熱した。
結果。
長椅子が一つ犠牲になった。
リアの助言は間違っていたのかもしれない。
⸻
中庭を後にしたレイラは、一人で廊下を歩いていた。
目的はない。
……いや。
ある。
あるのだが。
認めたくないだけだった。
(テュエルは……何をしているだろうか)
ふと思った。
今日は兵達へ剣術の指南をしているはずだ。
ちゃんとやっているだろうか。
怠けてはいないだろうか。
護衛を離れているからといって、手を抜いてはいないだろうな。
そう。
確認だ。
別に会いたいわけではない。
決して。
断じて。
会いたいわけではない。
レイラは頷いた。
(うん)
(確認だ)
そう自分へ言い聞かせながら歩く。
気付けば足は訓練場へ向いていた。
⸻
訓練場。
兵達の掛け声が響く。
木剣がぶつかる音。
砂埃。
汗。
活気があった。
その中央。
赤い髪が見える。
テュエルだった。
兵達の前で木剣を振っている。
無駄のない動き。
鋭い踏み込み。
迷いのない剣筋。
兵達へ指示を飛ばす声もよく通る。
自然と視線が向く。
立ち姿も。
力強い。
鍛え上げられた身体。
真っ直ぐ伸びた背筋。
頼もしい背中。
思わず見入る。
(……)
胸の奥が妙に落ち着かない。
不思議だった。
こうして剣を振る姿を見るのは初めてではない。
何度も見ている。
見慣れているはずなのに。
今日は何故か目が離せなかった。
(……格好い――)
そこまで考えて。
止まる。
違う。
格好良いではない。
何を考えている。
ただ。
護衛として頼もしいだけだ。
そう。
それだけだ。
レイラは自分へ言い聞かせるように頷いた。
その時だった。
ぴたり。
テュエルの動きが止まる。
そして。
振り向いた。
真っ直ぐ。
迷いなく。
レイラを見る。
距離はかなりあった。
だが。
気付いた。
一瞬で。
「レイラ様!!」
ぱあっと顔が輝く。
兵達が振り返る。
レイラは思わず肩を震わせた。
(……そんな顔で見るな)
胸の奥が妙に騒ぐ。
テュエルは木剣を置くと、駆け寄ってきた。
「レイラ様!」
嬉しそうだった。
本当に嬉しそうだった。
「覗きに来てくださったんですか?^^」
「今は何を?」
「さ、散歩だ」
レイラは視線を逸らす。
「たまたま通りかかっただけだ」
「そうですか^^」
テュエルは笑った。
嬉しそうに。
本当に嬉しそうに。
「お前達」
振り返る。
兵達へ声を掛ける。
「素振りでもしていてください」
「「はっ!!」」
兵達が一斉に返事をする。
レイラは少し気まずくなった。
「……すまない」
「邪魔をしてしまったな」
テュエルは目を丸くした。
「何を仰るんです?」
即答だった。
「レイラ様が足を運んでくださったんですよ?」
「すごく、嬉しいです^^」
にこり。
いつもの笑顔。
だが。
今日は何故だか違って見えた。
眩しい。
妙に眩しい。
レイラは思わず目を逸らした。
「……そ、そうか」
(なんだ)
(これは)
胸が騒ぐ。
本当に、落ち着かない。
前からこうだっただろうか。
こんな顔だっただろうか。
こんな声だっただろうか。
分からない。
何も分からない。
ただ。
妙に落ち着かなかった。
⸻
そこで思い出す。
リアからの文を。
そうだ。
少しずつでも。
努力すると決めたではないか。
甘える。
頼る。
好意を伝える。
そういうことを。
少しだけ。
少しずつでも。
やってみると。
レイラは深呼吸した。
(……やるぞ)
決意する。
(甘えるんだ)
テュエルが首を傾げた。
「レイラ様?」
「どうされました?」
少し身を屈める。
顔を覗き込む。
近い。
レイラはびくりと肩を震わせた。
「い、いや……」
テュエルは不思議そうな顔をする。
「?」
分かっていない。
当然だ。
レイラ自身も分かっていない。
(落ち着け)
一歩前へ出る。
(少しだけだ)
(少しだけ寄りかかる)
夫婦なのだから。
おかしくない。
問題ない。
全く問題ない。
レイラはそっと身体を寄せた。
そして。
ほんの少し顔を上げる。
ばちり。
目が合った。
「――っ!」
駄目だ。
近い。
顔が良い。
笑うな。
見るな。
近い。
無理だ。
次の瞬間。
レイラの身体が勝手に動いた。
右手が胸ぐらを掴む。
腕を引く。
身体を捻る。
ふわり。
テュエルの身体が宙へ浮いた。
「え」
一瞬。
世界が止まった気がした。
レイラも。
テュエルも。
たぶん兵達も。
「え?」
どさっ!!
綺麗な一本背負いだった。
見事だった。
完璧だった。
訓練場が静まり返る。
誰も動かない。
風だけが吹いていた。
「……」
「……」
砂が舞う。
テュエルは地面へ転がったまま瞬きをした。
ぱち。
ぱち。
レイラも固まっていた。
やってしまった。
そんな顔だった。
「……」
「……」
誰も何も言わない。
言えない。
あまりにも綺麗に決まったからだ。
「……」
「……」
沈黙。
そして。
兵士の一人が呟く。
「おお……」
別の兵士。
「綺麗に入ったな……」
さらに別の兵士。
「テュエル様が飛んだぞ……」
次の瞬間。
パチパチパチパチ!!
何故か拍手が起きた。
訓練場中から。
盛大に。
レイラは固まった。
テュエルも固まった。
地面へ転がったまま。
テュエルは瞬きをした。
ぱちり。
そして。
「……レイラ様」
レイラは固まる。
「今のは」
一度言葉を切る。
そして。
少し嬉しそうに笑った。
「かなり綺麗に入りましたね」
「そ、そういうつもりだったわけじゃ……」
「ふふ」
テュエルは起き上がる。
そして。
本当に嬉しそうに言った。
「嬉しいです」
「――――っ」
レイラは逃げた。
———
その日の夕方。
シャガルとテュエルは珍しく並んで座っていた。
「なんか今日のレイラ様、おかしくありませんか?」
テュエルが言う。
「ああ」
シャガルも頷く。
「あやつらしくない」
二人は考える。
心当たりがない。
全くない。
しばらくして。
テュエルがぽつりと言った。
「俺は一本背負いされました」
シャガルが振り向く。
「……は?」
内心。
少し羨ましかった。
テュエルは遠い目をした。
「素晴らしい姿勢でした」
「レイラ様から物理攻撃を受ける日が来るとは……」
「嬉しすぎて……」
「心臓がもちません」
「致命傷です」
シャガルは黙った。
少し悔しかった。
だから言った。
「余は本気の腕相撲をした」
「……は?」
「王羅まで使って余を倒そうとしておった」
「実に愛らしかった」
テュエルの額に青筋が浮いた。
ぶちり。
何かが切れた音がした。
沈黙。
「……」
「……」
そして。
テュエルが咳払いをする。
「いや」
「こんな話をしている場合ではありません」
「ああ」
シャガルも頷いた。
「問題はそこではない」
再び沈黙。
二人は考える。
なぜ。
レイラは突然。
腕相撲を始めたのか。
なぜ。
一本背負いをしたのか。
分からない。
全く分からない。
「……」
「……」
そして。
二人は同時に結論を出した。
「分からん」
「分かりません」
完全に行き詰まった。
⸻
夜。
居間。
静かな時間だった。
レイラは本を開いている。
読んでいる。
ように見える。
だが。
頁はほとんど進んでいなかった。
視線だけが文字を追っている。
そんな状態だ。
シャガルは向かいの席からしばらく眺めていた。
昼からずっとこんな調子だった。
妙だ。
非常に妙だ。
「レイラ」
声を掛ける。
レイラが顔を上げた。
「なんだ」
返事は早い。
だが。
どこか上の空だ。
「本は面白いか」
レイラは本へ視線を落とす。
一拍。
そして頷いた。
「ああ」
「なかなか面白い」
シャガルは黙った。
そして。
本を見る。
表紙を見る。
もう一度見る。
『北方薬草図鑑 第三巻』
「……」
沈黙。
「……」
レイラは気付いていない。
シャガルはゆっくり目を細めた。
(面白い……?)
薬草だった。
ひたすら薬草だった。
薬草の特徴。
薬効。
育成環境。
採取時期。
ただの薬草である。
(何があった)
本気で分からなかった。
明らかにおかしい。
その時だった。
扉が開いた。
「すみません。戻りました」
テュエルだった。
風呂上がり。
赤い髪が少し濡れている。
レイラは顔を上げた。
そして。
固まった。
「……」
胸が苦しい。
何故か分からない。
視線が離せない。
意味が分からない。
テュエルはいつものテュエルだ。
なのに。
なぜかいつもと違って見える。
「レイラ様?」
「……っ」
レイラは勢いよく本を閉じた。
ぱたん。
「きょ、今日は一人で寝る!」
「おやすみ!!」
立ち上がる。
逃げる。
だが。
そこで止まった。
寝室へ行こうとして。
何故か外へ向かっていた。
「……」
「……」
「……」
シャガルとテュエルが黙って見ていた。
レイラも黙る。
気まずかった。
非常に気まずかった。
なぜ寝室へ向かおうとして外へ出ようとしたのか。
自分でも分からない。
沈黙。
そして。
シャガルが小さく息を吐いた。
「今日はもう休め」
「……」
「どう見ても様子がおかしい」
レイラは何も言わない。
言い返せない。
事実だった。
シャガルは立ち上がる。
「余も寝る」
そして。
レイラへ歩み寄る。
自然な動作だった。
頬へ軽く口付ける。
「おやすみだ」
「……う、うん」
レイラは小さく手を振った。
シャガルは満足そうに頷く。
そして。
そのまま部屋を出て行った。
⸻
静かになった。
残ったのは。
レイラとテュエルだけだった。
⸻
テュエルが一礼する。
「ではレイラ様」
柔らかな笑顔。
いつもの笑顔。
「今夜は夜警に入りますので」
「安心してお休みください」
「おやすみなさいませ」
「また明日」
レイラは返事をしない。
いや。
出来なかった。
ただ。
じっと見ていた。
テュエルを。
テュエルは少し首を傾げる。
「……レイラ様?」
「……っ」
レイラは慌てて視線を逸らした。
「な、なんでもない」
「そうですか^^」
テュエルは笑う。
優しく。
いつものように。
「では、また明日」
そう言って。
踵を返そうとした。
⸻
その瞬間。
胸の奥が妙に騒いだ。
行ってしまう。
そう思った。
なぜだか分からない。
だが。
引き留めたかった。
レイラは思わず口を開く。
「……テュ、テュエル」
テュエルが振り返る。
「はい?」
レイラは言葉に詰まった。
何を言えばいいのか分からない。
ただ。
行ってしまうのが嫌だった。
だから。
気付けば距離を詰めていた。
そして。
とてとて。
近付く。
テュエルは少し困惑していた。
レイラも困惑していた。
何をしているのか。
自分でも分からない。
ただ。
気付けば身体が動いていた。
ほんの少し背伸びをする。
そして。
ちゅっ。
頬へ口付けた。
⸻
沈黙。
⸻
レイラが固まる。
テュエルも固まる。
数秒。
誰も動かなかった。
そして。
レイラの顔がみるみる赤くなる。
「お、おやすみだ!!」
ばたばたばたっ。
レイラは逃げた。
そして。
ばたん!!
戸が閉まる。
静かになった。
⸻
残されたテュエルは。
しばらくその場に立ち尽くしていた。
「……」
沈黙。
「……」
さらに沈黙。
やがて。
ゆっくり頬へ触れる。
そして。
小さく呟いた。
「……は?」
⸻
その夜。
レイラは布団の中で悶絶した。




