一人が好きだったはずなのに
ある日。
レイラは珍しく暇をしていた。
皇務は昨日のうちに片付けていた。
今日も山のように書類が届くだろうと思っていたのだが、拍子抜けするほど何もない。
静かだった。
ふと視線を向ける。
いつもなら。
そこにはテュエルがいる。
護衛として。
何気ない顔で。
当然のように。
だが今日は違った。
東部族長イブキに呼ばれ、兵の配置や今後の方針について話し合いへ出ている。
戻りは夕方頃だったはずだ。
レイラは小さく息を吐いた。
ならば爺でも誘って茶でも飲もうか。
そう思った。
だが。
探しても見当たらない。
どうやら外出しているらしい。
「……」
静かだった。
仕方なく廊下へ出る。
特に目的はない。
ただ何となく歩く。
気付けば足は庭へ向いていた。
皇族の庭。
その奥。
大きな岩の上。
シャガルがいつも寝転がっている場所。
特等席。
レイラは視線を向ける。
居ない。
「……外出か?」
返事はない。
当然だった。
そこには誰もいないのだから。
レイラはしばらく岩を見つめた。
そして。
なぜだか胸の奥が少しだけ痛んだ。
「……」
理由は分からない。
ただ。
ぎゅっと何かが締め付けられるような感覚だけが残った。
暇だからだろうか。
退屈だからだろうか。
レイラは首を傾げた。
分からない。
ただ。
静かだった。
昔なら好きだったはずの静けさ。
誰もいない空間。
一人の時間。
テュエルが護衛になる前は。
それが当たり前だった。
ずっと。
一人だった。
だから慣れているはずなのだ。
それなのに。
今は違った。
テュエル。
シャガル。
二人は自分の夫だ。
気付けば。
常にどちらかが側にいる。
いや。
大抵は二人ともいる。
騒がしくて。
鬱陶しくて。
時々うるさくて。
それなのに。
今日は誰もいなかった。
静かだった。
静かすぎた。
胸の奥が少しだけ冷える。
レイラは目を伏せる。
昔は好きだったはずなのに。
なぜだろう。
今は。
この静けさが少しだけ寂しく感じた。
「……」
首を振る。
考えても仕方がない。
暇なのだ。
ならば少し歩こう。
レイラは庭を出た。
特に目的はない。
ただ宮内をぶらつく。
廊下を歩き。
庭を抜け。
書庫の前を通る。
静かだった。
だが。
先程よりは気が紛れた。
そんな時だった。
「姫様」
声を掛けられる。
振り向けば若い家臣達がいた。
数人。
皆どこか浮き足立っている。
「お暇をされているのですか?」
「でしたら、我々の仕事場など見学されませんか?」
「最近新しい設備も入りまして――」
次々と言葉が飛んでくる。
レイラは少し困った。
断る理由もない。
だが。
特に興味もない。
どうしたものかと考えた時だった。
「おい」
低い声。
一瞬で空気が変わった。
家臣達の背筋が伸びる。
振り向く。
そこにいたのはシャガルだった。
「余の妻をどこへ連れて行くつもりだ」
静かな声だった。
だが。
妙な圧がある。
家臣達の顔色が変わった。
「し、失礼しました!」
「では我々はこれで!」
あっという間に逃げていく。
シャガルは鼻を鳴らした。
「全く」
そしてレイラを見る。
「お前は本当に無防備が過ぎる」
「?」
「寄ってくる男は全員獣だと思え」
レイラは少し考えた。
そして。
「……ごめん」
素直に謝った。
シャガルは目を瞬く。
珍しい。
いつもなら反論が返ってくる。
それなのに今日は妙に大人しい。
「……?」
何かがおかしい。
だが。
何がおかしいのか分からない。
シャガルはそのままレイラの隣へ並んだ。
「どこへ行く」
「別に」
「散歩だ」
「なら余も行く」
当然のように言う。
レイラは小さく頷いた。
不思議だった。
先程まで感じていた胸の冷たさが少しだけ和らぐ。
理由は分からない。
ただ。
少しだけ安心した気がした。
二人は並んで歩く。
いつもと変わらない。
はずだった。
だが。
レイラは妙に静かだった。
会話が続かない。
返事も短い。
上の空。
シャガルは横目で見る。
レイラは庭を見ている。
だが。
見ているだけだ。
何か考えている。
そんな顔だった。
(……何だ)
妙だった。
体調は悪くない。
怒っている訳でもない。
悲しそうでもない。
だが。
どこか元気がない。
その後。
⸻
中庭。
長椅子。
レイラは腰を下ろした。
侍女が茶を置く。
湯気が立つ。
レイラは湯呑みを持つ。
そして。
止まった。
「……」
湯呑みを見つめる。
飲まない。
シャガルは首を傾げた。
「どうした」
「……熱い」
「ああ」
そこで気付く。
湯気。
湯呑み。
レイラ。
そして。
猫舌。
「おい」
侍女がびくりと肩を震わせた。
「は、はい」
「冷まし用の水はどうした」
「え?」
「熱い時に飲む水だ」
「用意しておらんのか」
侍女は目を丸くした。
完全に忘れていた。
シャガルは呆れたように息を吐く。
「全く」
「次からは用意しておけ」
「も、申し訳ございません!すぐお持ちします!」
侍女が慌てて走っていく。
レイラは湯呑みを見る。
少しだけ冷め始めていた。
いつもなら。
こんなことはない。
テュエルは知っている。
レイラが猫舌だということを。
茶も。
汁物も。
菓子も。
口に出来る温度になってから出される。
何も言わなくても。
それが当たり前だった。
別に。
大したことではない。
冷めるまで待てばいいだけだ。
それだけの話だ。
それなのに。
なぜだか少しだけ寂しかった。
しばらくして。
冷まし用の水が運ばれてきた。
レイラは少しだけ茶へ水を足す。
湯気が落ち着く。
一口。
飲む。
「……美味い」
ちゃんと美味しかった。
レイラはぼうっと庭を見た。
シャガルは湯呑みを置いた。
立ち上がる。
何も言わない。
そのまま向かいの席から移動し。
レイラの隣へ腰を下ろした。
「……?」
「美味いか」
「……美味い」
返事が遅い。
やはり妙だ。
(誰かに何か言われたか)
違う気がする。
(体調か)
違う。
(皇務か)
昨日終わっておる。
(では何だ)
その後。
茶を飲み終えて。
再び歩く。
そして。
やがてレイラの宮へ辿り着く。
そこで。
レイラはふと口を開いた。
「……シャガル」
「なんだ」
「別に……」
少し迷う。
そして続けた。
「無理にずっと一緒にいなくてもいいからな」
シャガルは黙った。
レイラは視線を逸らす。
「護衛だからといって」
「お前を縛るつもりはない」
沈黙。
シャガルは答えない。
ただレイラを見ている。
レイラは気付かない。
その言葉が。
妙な寂しさを含んでいたことに。
シャガルもまた気付いていなかった。
ただ一つだけ分かった。
今日のレイラは少しおかしい。
そして。
その理由が分からない。
(こやつは何を考えておる)
珍しく。
妖王は本気で悩んでいた。
静かだ。
返事も遅い。
茶も進まない。
時折ぼうっとどこかを見ている。
明らかに様子がおかしい。
体調ではない。
怒っているわけでもない。
悲しんでいるわけでもない。
だが。
何かある。
それだけは分かった。
だから。
余にしてはかなり慎重に観察していた。
そう思う。
非常に。
悩んでいた。
悩んでいたが。
だんだん腹が立ってきた。
なぜ言わぬ。
何かあるのだろう。
ならば言え。
余は待っておる。
ずっと待っておる。
それなのに。
こやつは一向に口を開かない。
意味が分からない。
全く分からない。
そして。
少し腹が立つ。
いや。
かなり腹が立つ。
⸻
そして。
レイラは扉へ手を掛けた。
「……少し昼寝でもする」
シャガルは黙って見ていた。
レイラは扉を開こうとする。
「お前も――」
その時だった。
ぐいっ。
「!」
手首を掴まれる。
次の瞬間。
どん。
強引に引き寄せられた。
気付けば。
目の前にシャガルの胸板があった。
近い。
近すぎる。
レイラは目を見開く。
「なっ……」
思わず一歩下がろうとする。
だが。
逃げられない。
手首を掴まれている。
「なにを……」
シャガルは答えない。
ただ。
じっと見ている。
紅い瞳。
射抜くような視線。
怖い。
なんだか怒っている気がする。
レイラは少しだけ身をすくめた。
「……シャガル?」
沈黙。
そして。
低い声が落ちた。
「言いたいことがあるなら言え」
レイラは視線を逸らす。
「……ない」
即答だった。
だが。
シャガルは眉一つ動かさない。
「嘘だ」
レイラは顔を背けた。
「なんでもない」
「ではなぜそんな顔をしておる」
「……」
「浮かない顔をしておる」
答えない。
いや。
答えられない。
シャガルは手を離さない。
レイラは手首を引いた。
「離せ」
「離さぬ」
びくともしない。
もう一度引く。
無駄だった。
むしろ。
再びぐいっと引き寄せられる。
「……っ!」
近い。
本当に近い。
目の前に紅い瞳がある。
(この……馬鹿力……)
レイラは顔をしかめた。
だが。
シャガルは動じない。
「何かあるのだろう」
静かな声だった。
それでも逃がす気はないらしい。
レイラは黙る。
言えない。
———
昔からそうだった。
我慢する。
耐える。
迷惑を掛けない。
掛けてはいけない。
一人で抱える。
それが当たり前だった。
だから。
誰かへ頼ることも。
弱音を吐くことも。
今でも少し苦手だった。
———
レイラは視線を伏せる。
そして。
観念したように小さく息を吐いた。
「……どこへ行っていた」
シャガルが瞬きをする。
「なんだと?」
「……だから」
レイラは視線を逸らした。
少しだけ耳が赤い。
「ずっと居なかっただろう」
「……どこへ行っていたんだ」
シャガルはしばらく黙った。
そして。
「それが気になっておったのか」
「……別に」
「嘘だな」
「違う」
「違わぬ」
即答だった。
レイラはむっとする。
だが。
否定しきれない。
シャガルはふっと笑った。
「後で渡そうとしていたのだがな」
そう言って。
シャガルは懐へ手を入れた。
ごそごそと何かを探る。
そして。
取り出した。
「これだ」
レイラは目を瞬く。
花だった。
「……花?」
「うむ」
シャガルは頷く。
「村の子供達と約束していた」
「約束?」
「今度遊ぶとな」
「だから遊んでやった代わりに」
シャガルは花の指輪を持ち上げた。
「これの作り方を教えてもらった」
「……」
レイラは指輪を見る。
そして。
シャガルを見る。
「お前が?」
「うむ」
「作った」
どこか得意げだった。
だが。
レイラはじっとそれを見つめた。
そして。
「……」
沈黙。
「……?」
シャガルが首を傾げる。
レイラの肩が小さく震えた。
「……ふっ」
思わず笑いが漏れる。
「何だ」
「いや」
レイラは口元を押さえる。
「少し潰れている」
シャガルは固まった。
指輪を見る。
確かに少し潰れている。
ほんの少しだけ。
「…………」
原因は明白だった。
つい先程。
胸へ引き寄せた。
その時だろう。
レイラはとうとう吹き出した。
「ふふっ」
シャガルは眉を寄せる。
「笑うな」
レイラが少しだけ目を細める。
「折角作ったのにな?」
シャガルは難しい顔をした。
そして。
小さく咳払いをする。
「……まあよい」
「気持ちは潰れておらん」
レイラはまた笑った。
今度は少しだけ優しく。
胸の奥にあった冷たさが。
少しずつ溶けていく。
レイラは指輪を見つめる。
そして。
少しだけ目を細めた。
胸の奥が温かい。
「そうか」
小さく呟く。
「だから居なかったのか」
「ああ」
先程までの曇った表情は消えていた。
シャガルはそんなレイラを見て。
ようやく気付いた。
なるほど。
そういうことか。
こやつは。
寂しかったのだな。
シャガルはふっと笑った。
ようやく腑に落ちた。
今日、妙だった理由が。
全く。
余がおらんだけでそんな顔をするな。
シャガルは満足そうに目を細める。
そして。
レイラの手を取った。
「……?」
レイラが目を瞬く。
シャガルは答えない。
そのまま。
花の指輪を薬指へ通した。
少し潰れている。
だが。
ちゃんと指へ収まった。
レイラは思わず笑う。
「潰れているぞ」
「仕方あるまい」
シャガルは平然と言った。
「お前が暴れた」
「なぜ私のせいになる」
「事実だ」
シャガルはレイラの手を握ったまま言う。
「苦しい時は苦しいと言え」
レイラは顔を上げる。
「怖い時は怖いと言え」
紅い瞳が真っ直ぐ見つめる。
「会いたい時は、会いたいと言え」
静かな声。
だが。
逃げ場はない。
「余を呼べ」
静かな声だった。
だが。
不思議と胸へ響いた。
レイラはしばらく黙っていた。
シャガルの言葉が胸へ残る。
苦しい時は苦しい。
怖い時は怖い。
会いたい時は会いたい。
呼べ。
ただそれだけの言葉だった。
レイラはふと思う。
シャガル。
前は苦手だった。
距離が近い。
しつこい。
強引。
落ち着きがない。
だが。
気付けば。
その全部に救われていた。
愛されることを諦めていた自分を。
幸せになることを諦めていた自分を。
何度も。
何度も。
引っ張り上げてくれた。
だから。
惚れてしまったのだ。
どうしようもないほどに。
「……」
レイラは目を細める。
今さらだった。
そんなことは。
ずっと前から知っている。
だが。
改めて思う。
(やっぱり)
(好きだな)
レイラは小さく息を吐いた。
そして。
「……シャガル」
小さく笑う。
「……ありがとう」
そう言って。
ぽすっ。
シャガルの胸へ額を預けた。
抱き締めるわけではない。
寄り掛かるだけ。
シャガルは停止した。
完全停止。
だが。
別の何かが再起動した。
(よし)
別の意味でも、何かが元気になった。
余は健全な妖である。




