完璧な護衛の失敗
ある日。
レイラは廊下で足を滑らせた。
原因は単純だった。
雨の日だったのだ。
廊下へ吹き込んだ湿気で床が少し滑りやすくなっていた。
そして。
レイラは裸足だった。
いつものことである。
室内履きはある。
ちゃんとある。
だが。
気付けば脱いでいる。
理由は本人にも分からない。
その日もそうだった。
ぺたぺたと廊下を歩いていた。
そして。
つるり。
「あ」
気付いた時には遅い。
足が滑る。
身体が傾く。
テュエルの目が見開かれた。
反射だった。
手を伸ばす。
だが。
間に合わない。
尻もち。
ぺたん。
「……」
沈黙。
「レイラ様!」
「怪我は!?」
「ない」
レイラは立ち上がる。
「大丈夫だ」
少し考えて。
ふっ。
小さく笑う。
「……ダサかったな」
ぽつり。
「すまない」
それだけだった。
本人の中では完全に終わった話だった。
だが。
終わっていない男がいた。
テュエルである。
転ぶ瞬間は見えていた。
気付いていた。
反応もした。
だが。
間に合わなかった。
支えられなかった。
それだけが残った。
レイラは笑っている。
だが。
テュエルは笑えなかった。
「申し訳ありません」
「?」
「確認不足でした」
「何のだ」
「廊下です」
レイラは首を傾げた。
「雨で濡れていました」
「そうだな」
「通る前に拭いておくべきでした」
「……?」
「俺の怠慢です」
「……?」
レイラにはわからない。
怪我はない。
分かっている。
レイラ様も気にしていない。
それも分かっている。
だが。
(支えられなかった)
その事実だけが頭から離れなかった。
⸻
(雨は予想できた)
(床も濡れていた)
(分かっていたはずだ)
(なぜ確認しなかった)
(なぜ拭かなかった)
(なぜ先に歩かなかった)
(なぜ間に合わなかった)
(俺は何をしていた)
(怠けるな)
⸻
その日からだった。
午後。
いつも通りレイラの茶請けを用意していた時のことだ。
テュエルは時折、こうして菓子を作る。
爺との茶会用だったり。
レイラが本を読みながら摘まむためだったり。
今日もそのつもりだった。
だが。
どら焼きを焦がした。
ほんの少しだ。
食べられる。
問題ない。
レイラも一口食べて、
「美味い」
と言った。
だが。
テュエルは焦げた部分を見つめる。
(集中できていない)
(ダメだな)
⸻
さらに別の日。
レイラの新しい着物へ刺繍を足していた。
針が指へ刺さる。
ぷす。
血が滲む。
「……」
(何をしているんだ)
小さく息を吐く。
⸻
また別の日。
皇務中。
レイラへ渡す書類を一枚間違えた。
「ん……?こっちだ」
レイラが指摘する。
「……失礼しました」
終わり。
本来なら。
だが。
終わらない。
⸻
(多いぞ)
(何をやっている)
(俺は本当に……)
悪循環だった。
レイラは気付いていた。
どら焼き。
刺繍。
書類。
全部些細なことだ。
だが。
テュエル自身が気にしている。
少し落ち込んでいる。
それだけは分かった。
ただ。
理由が分からない。
⸻
ある日の夕方。
レイラはふと昔を思い出した。
護衛になる前。
まだ東部族兵の少年だった頃。
別に探していたわけではない。
だが。
何度か見かけたことがあった。
兵舎の近くを通ると、
時折良い匂いがした。
気になった。
だから少し覗いた。
そこにいたのはテュエルだった。
大鍋をかき混ぜている。
兵達が周囲で騒いでいた。
食事当番なのだろう。
誰かが味見をして。
騒いで。
笑って。
テュエルだけが真面目な顔をしていた。
(……あいつは)
(………)
(……変な奴だな)
そう思った記憶がある。
⸻
別の日。
血の匂いがした。
怪我人でも出たのかと思った。
だから見た。
そこにはテュエルがいた。
怪我をした兵が座っている。
腕から血が滲んでいた。
テュエルは慣れた手付きで傷を洗う。
薬を塗る。
布を巻く。
やたら手際が良い。
兵が言った。
「悪いな」
テュエルは答える。
「いえ」
それだけだった。
兵が苦笑する。
「お前、最近やたら手当したがるな」
テュエルは淡々と言う。
「経験になりますから」
「お前なぁ……」
兵は呆れていた。
レイラも思った。
(……本当、変な奴だな)
善意の匂いではなかった。
優しさでもない。
ただ。
努力の匂いだった。
当時は意味が分からなかった。
だが。
今なら分かる。
あいつはずっと、出来ることを増やしていたのだ。
料理も。
裁縫も。
医療も。
全部。
必要だから覚えた。
出来るようになりたかったから覚えた。
その積み重ねが今のテュエルだった。
完璧に見える男。
何でも出来る男。
だが。
最初からそうだったわけではない。
血が滲むほど努力した。
失敗した。
転んだ。
それでもやめなかった。
そういう男だった。
だからこそ。
私はあいつを選んだのだろう。
そこで。
レイラは気付く。
どら焼き。
刺繍。
書類。
全部。
自分が転んだ後だった。
「……あ」
思わず声が漏れた。
まさか。
⸻
夕方。
テュエルは一人だった。
少しだけ元気がない。
本人は隠しているつもりらしい。
だが。
レイラには隠せていなかった。
レイラは近付いた。
しばらく見る。
そして。
何の前触れもなく。
後ろから腕を回した。
ぎゅっ。
抱き締める。
テュエル停止。
完全に停止。
「……レイラ様?」
意味が分からない。
本当に分からない。
レイラはぽつりと聞いた。
「もしやとは思うが」
「私が転んだことを気にしているのか」
沈黙。
図星だった。
テュエルは視線を伏せる。
「……俺が」
小さく呟く。
「支えられませんでした」
レイラは目を瞬いた。
やはり。
そうだった。
「あんなもの」
レイラは言う。
「私が勝手に転んだだけだ」
「違います」
珍しく即答だった。
「俺が支えられませんでした」
譲らない。
本当に。
昔から変わらない。
レイラは思わず笑った。
腕に少しだけ力を込める。
ぎゅっ。
もう一度抱き締め直した。
「……たまには失敗しろ」
「……はい?」
「お前は昔から頑張りすぎだ」
ぽつり。
「失敗したからといって」
「お前の価値が下がるわけではないだろう」
テュエルは固まった。
なぜそんなことを言われるのか。
分からない。
なぜ抱き締められているのか。
分からない。
だが。
レイラの腕は優しかった。
レイラは目を閉じる。
思い出す。
料理をしていた少年。
怪我人の手当をしていた少年。
傷だらけで鍛錬していた少年。
失敗して。
転んで。
それでも立ち上がっていた少年。
(あぁ……)
胸の奥が少しだけ温かくなる。
(そうだったな)
こいつは元から完璧だったわけじゃない。
努力の人間だ。
そして。
ふと気付く。
(別に)
(完璧だから好き)
(そう思ったことなど)
(一度もないのに)
レイラは少しだけ目を細めた。
腕の中の男は、
まだ少し困った顔をしている。
昔と変わらない。
本当に。
変わらない。
だから。
レイラは小さく笑った。
そして心の中で呟く。
(やっぱり)
(……好きだな)
それは完璧な護衛への想いではない。
ずっと昔。
何度転んでも立ち上がっていた。
あの少年への想いだった。
「……レイラ様?」
レイラは返事をしない。
その代わりに。
腕を緩めた。
テュエルの胸元を掴む。
ぐいっ。
そして。
ちゅ。
触れるだけの口付け。
テュエル
「……?!」
レイラ
「……へへっ」




