危険だから来るなと言う夫と、黙って隣に立つ夫
ここ最近、雨が降り続いていた。
双国は山国だ。
豊かな森と水に恵まれる反面、一度天候が崩れれば牙を剥く。
朝。
城へ急報が届いた。
北部の山間集落で土砂崩れが発生。
複数の家屋が被害を受け、道も寸断されたという。
城内は慌ただしく動き始めた。
兵士達が駆ける。
伝令が飛ぶ。
救援物資の準備が始まる。
レイラも立ち上がった。
「行くぞ」
当然のように言う。
だが。
「駄目です」
即座に返ってきた。
テュエルだった。
「危険です」
「だからだ」
「だから駄目です」
「現地を見なければ分からない」
「俺が見てきます」
レイラは眉を寄せた。
「だが」
「私も行く」
「いいえ」
「今必要なのは、現場をまとめる者です」
「兵達は俺の声に慣れています」
「それに」
「王も動くべきです」
「……」
「こういう時のためにいるんですから」
その言葉にレイラは一瞬だけ口を閉ざした。
そうだった。
今のテュエルはただの護衛ではない。
王配。
双国の王だ。
テュエルは続ける。
「現地確認」
「被害把握」
「救援指揮」
「全部俺がやります」
「だから待っていてください」
珍しく譲らない。
完全に仕事の顔だった。
レイラは不満そうな顔をした。
だが。
理屈は正しい。
テュエル以上に現場をまとめられる者も思い浮かばない。
信頼していないわけではない。
むしろ逆だ。
誰より信頼している。
だからこそ。
心配だった。
「……分かった」
そう答えるしかなかった。
テュエルは小さく頷く。
そして兵士達を率いて出発した。
雨音だけが残る。
午前。
レイラは執務を片付ける。
昼。
資料を読む。
午後。
報告書へ目を通す。
普段と変わらない。
変わらないはずだった。
だが。
何度も窓を見る。
何度も。
本当に何度も。
爺は気付いていた。
「心配ですかな?」
「……別に」
即答だった。
「そうですか^^」
「そうだ」
「大丈夫ですよ、テュエル殿なら」
「……知ってる」
全然説得力が無かった。
レイラは再び窓を見る。
雨は止まない。
灰色の雲が山々を覆い、
窓を叩く雨音だけが続いていた。
山道はぬかるんでいるだろう。
救助も難航しているかもしれない。
頭では理解している。
だが。
落ち着かない。
非常に。
その時だった。
伝令が飛び込んでくる。
「ご報告します!」
空気が張り詰めた。
「被害は想定以上」
「さらに雨の影響で二次崩落の危険あり」
「救助活動は難航しております」
嫌な予感がする。
「……」
小さく息を吐く。
そして立ち上がった。
「……馬を出せ」
耐えられなかった。
その言葉に周囲が固まった。
「姫様!?」
「行く」
「危険です!」
「だからだ」
それ以上の理由は無かった。
困っている民がいる。
状況も把握したい。
そして。
テュエルも現地にいる。
だから行く。
ただそれだけだった。
問題は護衛だった。
主力は全て出払っている。
残っている兵士も少ない。
レイラは考える。
そして。
振り返る。
視線の先。
長椅子。
シャガル。
寝ていた。
非常に。
レイラ
「……」
シャガル
「……」
片目が開く。
「なんだ」
「行く」
「そうか」
起き上がる。
それだけだった。
レイラは少し驚く。
「止めないのか」
「なぜ止める」
「危険だぞ」
「知っている」
「だから止めないのか」
「だから余も行く」
当然のように言う。
レイラは少し呆れた。
「お前で大丈夫か」
「余は妖王だぞ」
「……」
「なんだ」
「少し不安だ」
「……」
(少し……)
(不安……?)
「行くぞ」
「待て」
二人はそのまま城を出た。
———
山道は酷かった。
馬でも進みにくい。
ぬかるみ。
折れた枝。
流れてきた石。
改めて被害の大きさが分かる。
そして。
ようやく現地へ到着する。
そこに広がっていたのは想像以上の光景だった。
崩れた斜面。
押し潰された家屋。
泥だらけの村人達。
必死に働く兵士達。
その中心に。
赤い髪が見えた。
テュエルだった。
泥だらけになりながら指示を飛ばしている。
レイラは小さく息を吐いた。
無意識だった。
だが。
明らかに安堵していた。
テュエルも気付く。
そして固まる。
「……レイラ様?」
レイラも固まった。
「……」
少しだけ目が泳ぐ。
あ。
怒られる。
次の瞬間。
「何故来たんですか」
始まった。
レイラは少し視線を逸らした。
「必要だった」
「必要でもです」
「状況確認は必要だ」
「だから俺が来ています」
「確認したかった」
「報告します」
「自分の目で見たかった」
「だから危険なんです」
全く引かない。
兵士達は見ている。
シャガルは横で鼻を鳴らした。
「ほら見ろ」
「何がだ」
「怒られている」
腑に落ちなかった。
その後。
レイラも現場へ加わる。
負傷者確認。
避難場所の整理。
不足物資の確認。
休まない。
本当に。
全く休まない。
「休め」
「まだだ」
「休め」
「まだだ」
「……猿の気持ちが少し分かった」
「本人に言え」
そんなやり取りを繰り返していた。
だが。
シャガルは一度もレイラから離れなかった。
それに気付いている者は少なかった。
夕方。
雨は弱まっていた。
だが。
山はまだ鳴いていた。
地面の奥から響くような低い音。
ぬかるむ斜面。
不安定な地盤。
誰もが気を張っている。
レイラもまた、避難所となった集会所を出て村を見回っていた。
怪我人は。
不足している物資は。
まだ取り残された者はいないか。
確認することは多い。
「レイラ様」
背後から声。
テュエルだった。
泥だらけである。
手には布。
布を広げレイラの髪を包む。
ふきふき。
「……」
「なんだ」
「少し休んでください」
「まだ大丈夫だ」
「大丈夫ではありません」
即答だった。
レイラは少し呆れる。
「お前はどうなんだ」
「俺は大丈夫です」
「泥だらけだぞ」
「俺は良いんです」
「良くないだろう」
「良いんです」
頑固だった。
昔から。
レイラは小さく息を吐く。
その時だった。
足元で小石が転がった。
からり。
小さな音。
だが。
レイラの耳は拾う。
ぴたりと動きを止めた。
視線が山の斜面へ向く。
土が落ちる。
また一つ。
また一つ。
嫌な感覚が背筋を走った。
「全員下がれ!!」
突然の声に周囲が固まる。
レイラは構わない。
さらに叫ぶ。
「斜面から離れろ!!」
兵士達が動く。
村人達も慌てて避難を始める。
テュエルも異変に気付いた。
「急げ!」
声が飛ぶ。
老人がいる。
子供がいる。
怪我人もいる。
全員を逃がさなければならない。
レイラも走った。
肩を貸す。
子供を抱き上げる。
避難を誘導する。
そして。
最後。
ようやく全員が離れた。
そう思った瞬間だった。
ズズ……
地面が沈む。
「っ」
足元が崩れた。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だった。
「レイラ様!!!」
テュエルの声が響く。
走る。
だが間に合わない。
崩れた地面は既にレイラの足元を飲み込み始めていた。
次の瞬間。
視界が揺れる。
強い力。
身体ごと引き寄せられた。
「馬鹿者」
低い声。
シャガルだった。
一瞬。
本当に一瞬だった。
ふわり。
身体が軽くなった気がした。
轟音。
山が崩れる。
大量の土砂が斜面を飲み込んだ。
少しでも遅れていたら。
間違いなく巻き込まれていた。
次の瞬間には地面を転がっていた。
レイラはシャガルに抱き寄せられたまま転がる。
泥。
土。
雨。
全身が汚れる。
しばらくして。
静寂。
レイラは目を開いた。
シャガルがいた。
泥まみれだった。
珍しく。
本当に酷い有様だった。
「……汚いな」
ぽつり。
シャガルが鼻を鳴らす。
「お前もだ」
レイラは自分を見る。
確かに汚かった。
髪にも泥が付いている。
着物も悲惨だ。
数秒。
見つめ合う。
そして。
どちらともなく吹き出した。
そこへ。
全力で駆けてくる足音。
テュエルだった。
「レイラ様!!」
血相を変えている。
本当に。
レイラは思わず目を瞬いた。
「……」
あ。
怒られる。
「……テュエル」
テュエルはしゃがみ込む。
怪我はないか。
腕は。
足は。
頭は。
確認する。
確認して。
確認して。
確認して。
ようやく息を吐いた。
「……ご無事で」
そこで止まる。
安心。
怒り。
安堵。
怒り。
色々混ざった顔だった。
ほぼ怒りだった。
「何故そんな場所にいたんです」
始まった。
レイラは少し視線を逸らす。
「確認を」
「終わっていたでしょう」
「まだ残っている人が」
「いませんでした」
「確認しなければ」
「俺がします」
「だからお前だけでは」
「だから俺が」
堂々巡りだった。
シャガルが横で鼻を鳴らす。
「うるさいぞ、猿」
テュエルが振り返る。
「あなたもです」
即答だった。
「そもそも、何故止めなかったんです」
シャガルは片眉を上げた。
「何故止める」
「護衛だからです」
「余も護衛だ」
「なら」
「だから護った」
静かな声だった。
テュエルが言葉を止める。
シャガルは続ける。
「行くなと言って止まるなら来ておらぬ」
「だが来た」
「なら余が護る」
当然のように言う。
それが当たり前だという顔で。
テュエルは眉を寄せた。
「危険だったんです」
「あぁ」
「分かっていたんでしょう」
「あぁ」
「なら何故」
その時だった。
シャガルがレイラを見る。
そして。
静かに言った。
「こやつは人形ではない」
「自分で考え」
「自分で決め」
「自分で動く」
「そういう女だ」
「……」
テュエルは何も言わなかった。
レイラが目を見開く。
シャガルは続けた。
「余は護る」
「だが縛らん」
静かな声だった。
大きくもない。
強くもない。
だが。
不思議と重かった。
テュエルは黙る。
レイラも黙る。
誰も言葉を続けない。
しばらくして。
シャガルが立ち上がった。
「猿」
「……はい」
「後は任せたぞ」
レイラを抱き上げる。
「……は?」
「なっ」
レイラが抗議する。
シャガルは無視した。
「帰るぞ」
「待て」
「待たん」
「報告が」
「猿がやる」
「勝手に決めるな」
「任せたぞ」
「シャガル、お前――」
シャガルは一度だけ振り返った。
「レイラが濡れている」
「……」
「帰る理由はそれだけで十分だ」
テュエルは口を閉ざした。
(それはそうだが)
レイラはさらに暴れる。
「離せ」
「嫌だ」
即答だった。
だが。
シャガルは全く気にしない。
そのまま歩き出した。
レイラは諦めて肩の力を抜く。
そして。
ふとシャガルを見上げた。
強引だ。
勝手だ。
本当に。
相変わらず。
だが。
思い返す。
行くなとは言わなかった。
危険だからやめろとも言わなかった。
代わりに。
隣にいた。
ずっと。
そして。
危険になった瞬間。
迷いなく助けた。
(……そうか)
レイラは静かに目を伏せる。
(お前は)
(そうやって護るんだな)
———
帰路。
雨はもう止んでいた。
ふと。
抱き上げられたまま視線を上げる。
シャガル。
いつもの気怠げな顔。
いつもの無愛想な顔。
だが。
あの瞬間。
迷いは無かった。
崩落。
轟音。
腕を掴まれた感覚。
今でも覚えている。
レイラは小さく息を吐いた。
「……」
シャガルは気付いている。
だが何も言わない。
しばらくして。
ぽつりと呟いた。
「無茶をしたな」
レイラは目を瞬く。
説教ではなかった。
責めるでもない。
ただ事実を言っただけ。
「……そうか?」
「そうだ」
「だが必要だった」
「知っている」
それだけだった。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ受け入れる。
レイラは再び黙り込んだ。
(……そうか)
(護るとは)
(閉じ込めることではないのだな)
城へ戻る頃にはすっかり日も落ちていた。
馬が止まる。
門が開く。
シャガルはレイラを抱えたまま降りる。
「よし」
「なんだ」
「風呂だ」
「分かっている」
「一緒に入るぞ」
「は?」
即答だった。
「泥だらけだからな」
「二人で入る理由にはならないだろう」
「なる」
「なぜだ」
「洗えない」
「洗える」
「届かん」
「届くだろう」
「届かん」
「届く」
結局押し切られた。
———
今日のことを思い返す。
テュエル。
シャガル。
二人とも私を護ろうとしていた。
だが。
やり方が違った。
テュエルは危険だから来るなと言った。
シャガルは何も言わなかった。
ただ隣にいた。
そして。
危険になった瞬間だけ動いた。
どちらが正しいのか。
そんな話ではない。
きっと。
どちらも正しい。
ただ。
やり方が違う。
それだけだ。
———
風呂から上がる。
髪を拭く。
だが。
「動くな」
「なぜだ」
「まだ濡れている」
シャガルが後ろから銀髪を掴む。
ぽんぽん。
ぽんぽん。
「……」
「……」
「もういいだろう」
「まだだ」
「乾いている」
「乾いておらん」
レイラは机へ向かう。
報告書。
山積み。
「……」
よし。
そう思った瞬間。
ひょい。
書類が消えた。
振り返る。
長椅子。
シャガル。
いる。
そして。
書類。
抱えていた。
「……駄目だ」
「駄目なのはお前だ」
珍しく。
少しだけ低い声だった。
レイラは言葉を止める。
シャガルは続ける。
「疲れている」
「疲れてない」
「疲れている」
「……そうだろうか」
「そうだ」
即答だった。
レイラは少しだけ黙る。
今日。
何度歩いただろう。
何人と話しただろう。
どれだけ気を張っていただろう。
今さらになって。
身体が重い。
「……」
図星だった。
呆れるほど。
シャガルは鼻を鳴らした。
「だから休め」
「……そうする」
珍しく素直だった。
長椅子へ腰掛ける。
隣にはシャガル。
静かな時間。
窓の外には夜。
しばらくして。
シャガルがふと口を開いた。
「やはり」
レイラが顔を上げる。
「なんだ」
シャガルは少しだけ目を細めた。
風呂上がりの銀髪。
まだ少し湿っている。
柔らかく光を受けていた。
「お前は艶やかだな」
レイラ停止。
完全に。
「……へ?」
「何度見てもそう思う」
平然としている。
本当に。
レイラの耳が熱くなる。
「急になんだ」
「事実だ」
「そういう話をしていたか?」
「していない」
「なら何故だ」
「思ったからだ」
理不尽だった。
非常に。
レイラは顔を逸らす。
シャガルは気にしない。
しばらく沈黙。
やがて。
レイラは小さく息を吐いた。
今日一日を思い返す。
テュエル。
シャガル。
二人の護り方。
二人の愛し方。
全然違う。
本当に。
正反対だ。
だが。
どちらも優しい。
どちらも自分を想っている。
それが分かる。
だから。
レイラは少しだけ笑った。
「……なんだ」
シャガルが聞く。
レイラは首を横に振った。
「いや」
本当に。
ただそれだけだった。
今日。
何度も止められた。
何度も心配された。
だが。
一人だけ違う男がいた。
止めることはしなかった。
代わりに。
隣に立った。
そして。
危険になった瞬間だけ。
迷わず手を伸ばした。
「……まったく」
小さく呟く。
「なんだ」
「なんでもない」
シャガルは首を傾げる。
レイラは答えない。
ただ。
少しだけ肩の力を抜いた。
今日くらいは。
休んでもいいだろう。
そう思えた。
そして長椅子に身体を預ける。
(護る)
(だが縛らない)
今日ようやく。
あの言葉の意味が分かった。
「……」
レイラは小さく笑う。
(そういうところが)
(好きだな……)
「よし」
「……なんだ?」
「今日は一緒に寝るぞ」
「……」
レイラは返事をしなかった。
全然格好良く終わらなかった。
ちなみに。
もう一人の夫は、まだ働いていた。




