氷の姫の弱点
庭を歩いていた。
穏やかな昼下がりだった。
空は高く、風も心地良い。
レイラは特に目的もなく庭園を散策していた。
その少し後ろをテュエルとシャガルが歩く。
平和な時間だった。
――その時。
影が差した。
レイラがふと顔を上げる。
空。
高く。
大きな翼が旋回していた。
鷹だ。
「…………」
レイラの足が止まる。
ほんの一瞬。
だが。
テュエルは気付いた。
(来た)
自然な動作で一歩前へ出る。
位置を変える。
ちょうどレイラの視界を遮るように。
「?」
シャガルが眉をひそめた。
何かあったか。
猿が動いた。
周囲へ意識を向ける。
敵意。
殺気。
奇襲。
気配を探る。
木々の間。
建物の影。
池。
遠方。
――何もない。
「……?」
僅かに目を細める。
おかしい。
猿が意味もなく動くはずがない。
ならば何かある。
だが。
何もない。
本当に何もない。
それでもテュエルは元の位置へ戻らない。
「何をしておる」
「いえ、別に」
即答だった。
怪しい。
だが理由が分からない。
シャガルは首を傾げた。
⸻
日が落ち始めていた。
食堂へ向かう途中。
回廊を歩いていると――
不意にレイラの視線が止まる。
「…………」
少し先。
中庭へ続く柱の上。
一羽の梟が止まっていた。
こちらを見ている。
レイラは固まった。
(…………)
梟だ。
(危険だ)
真顔。
(……死ぬ)
真顔である。
梟は首を傾げた。
レイラも動かない。
完全に睨み合いだった。
⸻
テュエルは数歩遅れて異変に気付いた。
(あ)
視線を辿る。
梟。
理解した。
慌てない。
いつものことだ。
自然に歩調を速める。
そのまま何事もなかったかのように位置を変えた。
ちょうど。
レイラと梟の間へ。
視界を遮る。
レイラは少しだけ肩の力を抜いた。
(助かった)
テュエルは内心で苦笑する。
昔。
レイラ様が陛下へ尋ねたことがあったらしい。
「あれは何ですか?」
空を飛ぶ鷹を見ながら。
陛下は一瞬で顔をしかめた。
「……見るな」
「?」
「……目を合わせるな」
「……なぜですか?」
一拍。
陛下は低く告げた。
「”あいつら”だけは危険だ」
「……危険?」
「……死ぬぞ」
「……死ぬ?」
「……死ぬ」
「……死ぬ」
「……」
真顔だったらしい。
⸻
(……流石に大袈裟だと思うのですが)
レイラ様は今でもその教えを律儀に守っている。
(本当に、素直な方だ)
(怖がっている姿は可愛らしいですが)
(陛下の教育だけは理解できません)
だが当の本人は大真面目だ。
今も完全に警戒している。
ただ一人、シャガルだけが理解できない。
さっきから何が起きている。
敵か。
違う。
罠か。
違う。
では何だ。
「…………」
謎だけが深まった。
⸻
翌日。
庭園。
卓を挟むように長椅子が置かれている。
シャガル。
レイラ。
テュエル。
三人とも同じ側へ腰掛けていた。
向かい側の長椅子は空席である。
卓の上には茶器と菓子。
穏やかな時間だった。
その時。
使用人が近付いてくる。
「テュエル様、少々よろしいでしょうか」
「分かりました」
テュエルが立ち上がる。
「すぐ戻ります」
そして離席した。
残されたのは二人。
静かな時間。
――カァ。
声がした。
レイラがゆっくり顔を上げる。
近くの木。
そこに一羽のカラスがいた。
「…………」
無言。
(猛禽類ではない)
冷静に考える。
(……だが)
カラスがこちらを見る。
(……無理だ)
カラスが首を傾げる。
(……死ぬ)
真顔だった。
カァ。
一鳴き。
そして。
ばさり。
卓の上へ降り立った。
近い。
とても近い。
レイラの思考が停止する。
(近い)
(近い)
(近い)
(……逃げるか?)
顔には出さない。
だが内心は大騒ぎだった。
シャガルはそれを見た。
じっと。
観察する。
レイラ。
カラス。
レイラ。
カラス。
「…………」
一つの仮説が浮かぶ。
まさか。
「鳥が苦手なのか?」
レイラは即答した。
「違う」
カァ。
「…………」
レイラの肩が僅かに揺れる。
シャガルは確信した。
(なるほど)
(……鳥か)
少しだけ口元が緩む。
その瞬間だった。
「戻りました」
テュエルが戻ってきた。
そして状況を見る。
レイラ。
カラス。
シャガル。
一瞬だった。
理解にすら時間はかからない。
(なるほど)
レイラ様の前にいる。
ただそれだけだった。
「…………」
テュエルはカラスを見る。
無言。
表情も変わらない。
だが。
空気が変わった。
ぴりっ――
まるで刃を突き付けられたような圧力。
カラスが固まる。
「?」
シャガルが眉をひそめた。
テュエルは視線を逸らさない。
逃がさない。
許さない。
近付くな。
それ以上。
一歩たりとも。
レイラ様へ近付くな。
そんな意思だけが静かに滲む。
カラスは完全に固まっていた。
数秒。
沈黙。
やがて。
ばさばさばさっ!!
ほとんど逃げるように全力で飛び去った。
まるで天敵から逃げるように。
テュエルは見送った。
勝った。
レイラは小さく息を吐く。
(……助かった)
沈黙。
シャガルの視線がゆっくりとテュエルへ向く。
「今何をした」
「何も?^^」
爽やかな笑顔だった。
シャガルは納得できない。
だがレイラはどこか安心している。
ますます分からない。
⸻
数日後。
庭園を歩いていた。
シャガルはふと木の上を見る。
カラスがいる。
その先にはレイラ。
「…………」
レイラも気付いているらしい。
ちらりと視線を向けた。
そして何事もないように歩く。
シャガルの口元が少しだけ緩んだ。
「……ふっ」
「何だ」
レイラが振り返る。
「いや?」
「今笑ったな」
「気のせいだ」
レイラは疑わしそうな顔をした。
だが追及はしない。
そのまま歩いていく。
シャガルは後ろ姿を見ながら小さく笑った。
(弱点というものは)
(案外可愛らしいな)
そして。
その後しばらく。
シャガルは「鳥が苦手なのだな」と本気で思っていた。




