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【過去編】誰も知らない優しさ

幼い頃の記憶だ。


忘れたことはない。


忘れられなかった、と言うべきかもしれない。


今でも時折、夢に見る。


友達が欲しかった頃の話だ。


誰かと仲良くなりたくて。


誰かの役に立ちたくて。


そして。


少しだけ疲れてしまった頃の記憶。


―――


「姫様、ご機嫌麗しゅう」


廊下で声をかけられる。


レイラは小さく頷いた。


相手は笑っている。


けれど、その笑顔はどこかぎこちない。


レイラは何も言わなかった。


慣れていたからだ。


その笑顔の裏にある感情を見ることにも。


―――


庭園では女官たちが楽しそうに話していた。


「実はね、門兵の方に想いを寄せているの……」


「えぇっ!?そうだったの?」


頬を染める姿を見て、レイラは不思議に思った。


好きな人がいる。


それは良いことなのだろうと思った。


だから。


数日後。


偶然その門兵を見かけた時、声をかけた。


「お前のことが好きらしいぞ」


門兵は目を丸くした。


女官は真っ赤になった。


その後。


二人は少しずつ言葉を交わすようになった。


やがて。


門兵はその女官へ想いを告げた。


女官は泣きそうな顔で喜んでいた。


だから。


良かったのだと思った。


―――


だが。


その隣にいたもう一人の女官は違った。


「…………」


笑っていた。


笑っていたはずだった。


だが。


胸の奥から向けられる感情は鋭かった。


痛いほどに。


何かは分からない。


けれど。


喜びではなかった。


そんな感情が渦を巻いている。



(……?)



レイラは首を傾げた。


分からなかった。


あの二人は仲が良かったはずだ。


喜ばしいことなのではないのか。



だが。


向けられた感情だけは。


ひどく痛かった。


――


別の日。


高価な花瓶が割れた。


周囲は騒然としていた。


壊した女官は青ざめている。


震えていた。


泣きそうだった。


だからレイラは静かに前へ出る。


「私がやった」


その一言で終わった。


誰も疑わない。


誰も追及しない。


ただ、それだけだった。


助かった女官は安堵していた。


それで良かった。


レイラはそう思った。


その後に続く言葉は、聞かなかったことにした。


最近は少しだけ学んだ。


相手の目を見ると、

相手が嫌そうな顔をすることがある。


だから最近は、

あまり目を見ないようにしていた。



―――


そんなことが何度もあった。


誰かを助けた。


誰かを庇った。


誰かのために動いた。


だが。


友達は増えなかった。


むしろ少しずつ遠ざかっていった。


「氷の姫」


いつからかそう呼ばれるようになった。


冷たい。


近寄りがたい。


何を考えているか分からない。


不気味だ。


見つめられると石になる。


そんな噂も耳に入った。


レイラには理解できなかった。


ただ仲良くしたかっただけなのに。


ただ助けただけなのに。


―――


夕暮れ。


一人で廊下を歩く。


誰もいない。


静かだった。


レイラは小さく息を吐く。


(……疲れたな)


悲しいわけではない。


泣きたいわけでもない。


ただ少し疲れた。


それだけだった。


―――


城の大掃除の日だった。


廊下では家臣や女官たちが慌ただしく動いている。


上階から荷物が運ばれていた。


レイラは遠くからその様子を眺めていた。


(危ないな)


なんとなく。


嫌な予感がした。


その時だった。


荷物が傾く。


誰も気付いていない。


真下には女官がいた。


落ちる。


レイラは考えるより先に動いていた。


ぐいっ――


女官の腕を引く。


荷物が落下する。


助かった。


だが。


他の荷も反動で落ちてきていた。


今度はレイラ自身が避けきれない。


落下する木箱。


間に合わない。


そう判断した瞬間だった。


誰かが飛び込んできた。


ドンッ!!


鈍い衝撃音。


木箱の軌道が逸れる。


床を転がり、壁へ激突した。


周囲から悲鳴が上がる。


ざわめきが広がった。


勢いのまま床へ倒れ込んだレイラは咄嗟に手をつく。


ざりっ――


掌と膝が擦れる。


小さな痛み。


だが、それどころではなかった。


レイラは顔を上げた。


そして目を瞬かせる。


そこにいたのは見覚えのある少年だった。


以前、庭で手合わせをした西の部族の少年。


肩口から血が滲んでいる。


ぽたり、と赤い雫が床へ落ちた。



胸がざわつく。


嫌な感覚だった。


その怪我は、自分を庇ったせいだ。


何か言わなければと思う。


そう思って顔を上げた瞬間。


視線が合った。



(レイラ様……!)


(怪我は!?)


(どこか打ってないか!?)


(良かった……)


(助かった……)



レイラは息を呑んだ。


そこには怒りもなければ責める気配もない。


ただ。


自分の無事を喜ぶ感情だけがあった。


胸の奥が落ち着かない。


血の匂い。


それとは別の何か。


居心地の悪さにも似た感覚。


その怪我は、自分を庇ったせいだ。


「……っ」


何か言わなければと思った。


だが言葉が出てこない。


感謝も。


謝罪も。


心配も。


うまく形にならない。


ただ。


「……怪我……」


それだけが零れた。


少年は少しだけ目を見開く。


だがすぐに首を振った。


「平気です」


短い返事だった。


周囲では大人たちが駆け寄ってくる。


「怪我人だ!」


「医師を呼べ!」


「おい、坊主!」


騒がしい声。


レイラは一歩下がる。


もう一歩。


気付けば。


その場を離れていた。


逃げるように。


―――


――最初は偶然だった。


庭で見かけた。


廊下で見かけた。


宮内で見かけた。


ただそれだけだった。


―――


(……あ)


レイラ様だ。


また見つけた。


少年テュエルは何度もそう思った。


見かけるだけで少し嬉しかった。


だから自然と目で追っていた。


最初は、それだけだった。


―――


だが。


気付いた。


また誰かを助けている。


まただ。


次の日も。


その次の日も。


また。


また。


また。


―――


(なんでだ?)


分からなかった。


褒められたいわけでもない。


感謝されたいわけでもない。


見られてすらいない。


それなのに。


また助ける。


また損をする。


また傷付く。


意味が分からなかった。


―――


そして。


そのたびに。


周囲は離れていく。


氷の姫。


不気味な姫。


そんな噂だけが増えていく。


――


(違う)


テュエルは思う。


違う。


そんな人じゃない。


―――


大掃除の日。


肩の傷はまだ少し痛んでいた。


だが。


テュエルの頭に残っていたのは怪我ではなかった。


―――


「……怪我……」


―――


かすれた声。


困ったような顔。


苦しそうな顔。


泣きそうな顔。


あの方らしくない顔だった。


―――


そして。


あの方は逃げた。


―――


いや。


違う。


―――


逃げたのではない。


きっと。


どうしていいか分からなかったのだ。


―――


血が苦手なのかもしれない。


自分のせいだと思ったのかもしれない。


―――


分からない。


だが。


一つだけ確かなことがある。


―――


あの方は。


自分が傷付くことには慣れている。


―――


だが。


誰かが傷付くことには慣れていない。


―――


花瓶も。


女官も。


あの日も。


全部同じだった。


―――


あの方は。


自分のことを後回しにする。


―――


それが正しいとか。


間違っているとか。


そんな話ではない。


―――


ただ。


あの方はそういう人なのだ。


―――


夕暮れ。


一人歩いていく小さな背中を見つめる。


誰もいない廊下。


長く伸びた影。


―――


皆は氷の姫と呼ぶ。


冷たいと言う。


不気味だと言う。


近寄りがたいと言う。


―――


だが。


俺は知っている。


―――


あの方は不器用だ。


人付き合いも上手くない。


誤解される。


傷付く。


それでも。


―――


それでも手を伸ばす。


―――


誰かが泣いていれば立ち止まる。


誰かが困っていれば助ける。


報われなくても。


理解されなくても。


変わらない。


―――


だから。


護らなければならない。


―――


あの方はきっと。


これからも無茶をする。


誤解される。


傷付く。


それでも。


また誰かへ手を伸ばすのだろう。


―――


あの方が。


笑っていられるように。


―――


もう二度と。


あんな顔をしなくていいように。


―――


夕暮れの廊下。


少年は静かに拳を握った。


―――


――いつか。


必ず。


あの方の隣に立つ。


―――



――現在。


夜。


レイラは机に向かい、本を読んでいた。


静かな時間だった。


不意に背後から腕が回る。


「……珍しいな」


レイラが振り返る。


「……いきなりどうした?」


テュエルは微笑んだ。


「いえ^^」


「……変なやつだな」


そう言いながらも、


レイラはどこか照れくさそうに微笑んだ。


「そうかもしれません」


テュエルがくすりと笑う。


そして少しだけ。


抱きしめる腕に力を込めた。


「……?」


「少し、このままで」


レイラは小さく肩を竦める。


「……ん」


拒むこともなく、


そのまま体重を預けた。


テュエルは静かに目を閉じた。


あの日、手を伸ばした時よりもずっと近かった。


レイラは知らない。


少年だった頃。


ずっと見ていたことを。


そして。


誰にも話すつもりはなかった。


それはテュエルだけが知る。


誰にも話さない。


大切な記憶だった。

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