【過去編】落ち着く匂い ― それが始まりだった
朝。
しばらくして――ゆっくりと扉が開いた。
そこには、少しだけ眠たげな目をしたレイラが立っていた。
「……ん……」
テュエルはすぐに微笑む。
「レイラ様、おはようございます^^」
いつもと変わらない穏やかな声だった。
「今日もいい天気でお出かけ日和ですよ。そんな陽の光を浴びたレイラ様は、きっとさぞ麗しいんでしょうね」
さらりと告げられる言葉。
それは特別なことではない。
昨日も聞いた。
一昨日も聞いた。
おそらく明日も聞くだろう。
内容や表現こそ少しずつ変わるが、毎朝のように向けられる言葉だった。
レイラも今さら反応はしない。
「……ん……おはよ……」
眠たげな返事だけを残し、レイラは部屋の中へ戻っていく。
テュエルは小さく目を細め、その後に続いた。
部屋の中では、いつものように支度が始まる。
帯を整え、髪を整え、衣の皺を伸ばす。
無駄のない手つきで、すべてが静かに進んでいく。
レイラは時折、目を細めながら鏡越しにテュエルを見ているが、特に何かを言うわけでもない。
テュエルもまた、淡々と手を動かし続ける。
そこには慣れがあった。
そして、安心があった。
支度が終わると、二人はそのまま部屋を出る。
向かう先は、いつもの朝餉の場。
本来であれば、護衛が主と同じ卓につくことはない。
だが、テュエルは例外だった。
護衛についた当初こそ後ろに控えていたが、レイラが半ば強引に同じ卓へ座らせた。
それから五年。
今ではそれが当たり前の日常になっている。
食堂を後にした二人は、廊下を並んで歩く。
「今日は稽古も何もなかったな」
「はい、特に予定はありませんね」
レイラは少しだけ間を置き、当然のように言った。
「なら、あそこへ行こう」
「……あそこ?」
「西の草原だ」
そう言うや否や、レイラは迷いなくテュエルの袖を掴む。
引く。
躊躇もなく、当然のように。
テュエルは一瞬だけ目を細め、口元がわずかに緩んだ。
(……あぁ…♡)
その仕草だけで、思考が一度止まり。
心臓の奥が、嫌なほど正直に跳ねる。
テュエルは表情を崩さず、軽く息を吐いたあと微笑んだ。
「いいですね^^」
その声はいつも通り整っている。
だが内側では、
(はい喜んで!どころじゃないんですが???)
(かわいい……)
(毎日かわいい……)
(……困りますね、本当に)
という感情が暴れていた。
小さく咳払いしながら、
レイラに引かれるままその後を追う。
――――――
西の草原は、相変わらず風が気持ちよかった。
レイラはふと、空気の中に混ざる微かな甘い匂いに気づく。
すんっ、と鼻を鳴らす。
「……?」
「どうされました?」
「なんか……甘い匂いがする」
テュエルは一瞬、周囲を見渡す。
(……匂い?)
(特に何もしないが……)
視線を巡らせたレイラが、ふと上を見上げた。
「あれだ……あれは……?」
少し間を置いて、テュエルが気づく。
「あぁ、あれは山桃ですね」
「よく取って食べてましたよ^^」
「食べられるのか?」
「はい。甘酸っぱくて、美味しいんです」
レイラはしばらく木を見上げていたが、すぐに結論を出す。
「……取ってくる」
「ダメです」
即答だった。
「レイラ様、あなた着物なんですからおやめください」
「ボクが取ってきますから」
「嫌だ」
一拍。
「少しくらい、いいだろ?」
「ボクが陛下に怒られてしまいます」
レイラはあからさまに口を尖らせ、
拗ねた。
「むぅ……」
その顔を見た瞬間、テュエルは一瞬だけ言葉を失う。
「……まったく」
(かわいいかよ……)
小さく息を吐き、諦めたように笑う。
「ちょっと待ってください」
そう言うと、テュエルは迷いなく木へ飛び乗った。
軽い動きだった。
慣れた手つきで枝を渡り、あっという間に山桃の近くまで登っていく。
そして、少し身を乗り出しながら下を見た。
「捕まってください」
レイラは一瞬だけ間を置き――
「ん……」
素直にその手を取る。
テュエルはそのまま軽く力を込め、レイラを木の枝へと引き上げた。
「落ちないでくださいね?」
「全く、私をなんだと思ってる」
そう言いながらも、特に気にした様子はない。
むしろ当然のように、枝の上で体勢を整える。
視線がふと、実へ向く。
レイラは山桃に手を伸ばし、ひとつ摘んだ。
少しだけ間を置いてから、口へ運ぶ。
その横で、テュエルも何の気なしに一口かじり――
「っ」
小さく顔をしかめ、種を吐き出した。
「山桃には種があるので、
周りだけ食べて吐き出すんです^^」
言い終わったその瞬間、冷や汗が背中を伝った。
(……まずい)
(レイラ様に今のを見せてしまった)
(気が緩んでた…)
(しかも、皇族だぞ…?!)
(こんな野生の果実など食べさせられるわけが…)
「……あ」
「すみません。つい昔の癖で……」
(何やってるんだ俺は)
思考が一瞬で
“護衛の反省会”に沈みかけた、その瞬間。
ぱくり、と。
隣でレイラが普通に山桃を口に入れた。
もぐもぐと噛んで――
ぷっ
同じように、種を吐き出す。
「うん、うまい」
「もう一個」
テュエルは目を瞬かせた。
(……)
(この人は)
(本当に……)
喉の奥が、静かにほどける。
(なんて……)
(……愛しい)
小さく息を吐き、肩の力を抜く。
そして何事もなかったように、もう一つ実をもぎ取った。
その後しばらく、二人は黙ったまま山桃を食べ続けた。
風だけが、静かに揺れていた。
やがて、手近な実を食べ尽くしたレイラは、当然のように次の枝へと視線を移す。
少しだけ体をずらし、枝を渡ろうとした、その時だった。
着物の裾が、枝に絡まる。
レイラ
「っ」
身体が傾く。
落ちる。
だが地面に叩きつけられる前に、テュエルが飛び出していた。
反射だった。
考えるより先に身体が動いていた。
気付けばレイラを抱え込むようにして地面を転がっていた。
草が擦れる音。
土の匂い。
そして――
近い。
近すぎる。
テュエル
「……っ」
息が止まる。
目の前にレイラの顔があった。
驚いているが怪我はない。
それを確認してようやく安堵する。
「……すまない」
「い、いえ」
「ありがとう」
「当然です」
そう答えながらも、心臓はまるで言うことを聞かなかった。
そしてようやく気付く。
今の体勢。
完全に覆いかぶさっている。
「……っ!?」
「も、申し訳――!!」
慌てて離れようとした。
その瞬間。
胸元を掴まれた。
「待て」
「……はい?」
レイラはしばらく彼を見ていた。
そして。
「このままでいい」
テュエル
「…………へ?」
フリーズ。
理解が追いつかない。
レイラはそのまま彼の腕を引き寄せる。
そして。
当然のように頭を乗せた。
「レ、レイラ様……?!」
「驚いた」
「…眠い、腕を貸せ」
「は、はい……」
「……落ち着く」
テュエルの思考が止まった。
レイラは既に目を閉じていた。
風が吹く。
草が揺れる。
穏やかな時間だった。
テュエル以外にとっては。
(はい、もちろんお貸しします)
(腕の一本や二本くらい…)
(ですが……)
(ですが……!!)
(落ち着くとは……)
(なんですか……)
(いや、分かっています)
(分かっていますけど)
(……本当に…)
(勘弁してください……)
そして、レイラは本当に寝た。
テュエルはしばらく動けなかった。
起こした方がいい。
分かっている。
だが。
「…………」
もう少しだけ。
本当に、もう少しだけ。
結局その願いは何度も更新されることになる。
―――――――
帰路につく頃には、太陽は高く昇っていた。
城へ戻ると、待ち構えていたように爺が現れる。
「おぉ、テュエル殿。ちょうどよかった」
「爺殿?どうされました?」
「定期会議です^^」
嫌な予感がした。
「ボク抜きで――」
「行きますぞ^^」
「まだ何も――」
「行きますぞ^^」
「…………」
即答だった。
反論する隙すらない。
爺はすでに歩き始めている。
完全に連行する気だった。
レイラが少し首を傾げる。
「……?」
テュエルは諦めたように小さく息を吐いた。
「申し訳ございません。……少し行ってきます^^」
「あぁ」
「城から出ないでくださいね」
「わかっている」
返事を確認してから、テュエルは渋々爺の後を追った。
――――
そして一刻ほど後。
会議を終えたテュエルは急ぎ足で廊下を歩く。
居間。
いない。
私室。
いない。
資料室。
いない。
庭。
いない。
テュエル
「……?」
珍しい。
(まさか)
嫌な予感がした。
(いやいや)
(まさかそんなわけが)
(俺の部屋なんて)
(そんなこと、あるわけ――)
ガラリ。
いる。
「…………」
いた。
自分の寝台の上に。
毛布を抱きしめ。
枕を使い。
完全に安心しきった顔で。
眠っている。
テュエルは静かに襖を閉めた。
「…………」
再び開けた。
いる。
幻ではなかった。
(この状況を……)
(俺にどうしろと……?)
思わず天を仰ぐ。
(試されているのか)
(いや、違う)
(レイラ様は何も考えていない)
(知っています)
(知っていますけど)
ゆっくりと寝台へ近づく。
寝顔が見える。
穏やかだった。
心の底から安心しきった顔。
その顔を見た瞬間。
(…………)
(かわいい)
テュエルは額を押さえた。
(本当に……)
(本当に、勘弁してください)
(あなた、自分がどれだけ無防備かわかっていないでしょう……)
窓の外では風が吹いていた。
レイラは知らない。
この日もまた、護衛の理性が瀕死だったことを。
しばらくして。
「……ん」
小さな声と共に、レイラが身じろぎした。
長い睫毛が揺れ、ゆっくりと目が開く。
数度瞬きを繰り返し――
目の前にいる人物を認識する。
「……テュエル」
「……目覚めましたか?」
「もう夕方ですよ」
レイラはぼんやりした顔のまま天井を見上げた。
「……ん……そうか……」
ゆっくりと身体を起こす。
そこで周囲を見回し、
「あぁ」
小さく呟いた。
「そうだった」
「?」
「途中で眠くなった」
「――っ」
テュエルは思わず目を閉じる。
(そうだった、ではありません)
(何故ここで寝ていたんですか)
問い質したい。
だが理由はだいたい予想できてしまう。
「ふぁあ……」
レイラは欠伸を一つ漏らした。
「お前を待っていたんだ」
「……ボクを、ですか?」
「あぁ」
当然のように頷く。
(……待ってた?)
(レイラ様が?)
(俺を……?)
レイラは少しだけ考え、
当たり前のように続けた。
「待っていたら」
「匂いがして」
「お前の匂いで、また眠くなった」
「気づいたら寝てた」
テュエルの思考が停止した。
「……匂い?」
「……うん」
レイラは頷く。
「落ち着く」
あまりにも自然だった。
何の含みもない。
だからこそ破壊力が高い。
テュエルは静かに視線を逸らした。
内心では両手で顔を覆っていた。
(……はぁ)
(もう……本当に)
(やめてください)
(本当に)
(……勘弁してください)
レイラは何も気づかない。
「?」
「どうした」
「いえ」
「何でもありません」
それ以上話すと理性が危険だった。
レイラは気にした様子もなく立ち上がる。
「…夕餉の時間か」
「そうですね」
「行くぞ」
「はい」
そのまま二人は部屋を出た。
夕餉を食べ、
他愛のない話をして、
いつも通り一日が終わる。
レイラにとっては。
夜。
自室へ戻ったテュエルは、襖を閉めると小さく息を吐いた。
静かだ。
誰もいない。
いつも通りの自室。
――のはずだった。
視線が自然と寝台へ向く。
レイラが寝ていた場所。
少しだけ乱れた寝具。
抱きしめていた毛布。
使われた枕。
普段はほとんど使わない寝台だった。
夜警の日々では、ここで眠ること自体が稀だ。
それなのに今日に限って、どうしても目が離せない。
テュエルは無言で近づいた。
座る。
手を置く。
それだけ。
そのつもりだった。
だが。
ふわり、と。
微かな香りが残っていた。
「……」
テュエルは動きを止める。
ほんの僅か。
本当に僅かだ。
それでも分かった。
レイラの香りだった。
今日一日、ずっと隣にいたはずなのに。
なぜだろう。
こうして残った香りは、また違って感じる。
「……」
気づけば、小さく息を吸っていた。
肩の力が抜ける。
無意識だった。
そして。
もう一度だけ香りを吸い込む。
「…………」
心地よかった。
あまりにも。
テュエルは両手で顔を覆った。
「……何をしているんだ、俺は」
そう呟きながらも、寝台から離れる気はまるでない。
「……落ち着く」
ぽつりと零れた言葉に、自分で固まった。
沈黙。
数秒。
さらに数秒。
そして。
ふっと小さく笑う。
「……反則でしょう、それは」
「ずるいな……」
苦笑が漏れる。
レイラが言っていた意味が、嫌というほど分かってしまった。
窓の外では夜風が木々を揺らしていた。
そしてその夜。
テュエルは人生で初めて、
誰もいない寝台に向かって、
「おやすみなさい、レイラ様」
と呟いた。
だが次の瞬間には立ち上がる。
今夜も夜警だ。
何があっても変わらない。
それが護衛であり、
それがテュエルだった。
けれどその夜だけは、
胸の奥に残る香りが、少しだけ足取りを軽くしていた。




