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狐を助けただけなのに過保護が悪化した

山から吹き下ろす風が、

障子を静かに揺らしていた。


昼下がり。


執務室では、

紙をめくる乾いた音だけが続いている。


レイラは机へ向かったまま、

淡々と筆を走らせていた。


その隣では、

テュエルが整理済みの書簡を並べている。


少し離れた長椅子には、

シャガル。


退屈そうに頬杖をつきながら、

時折こちらへ視線を向けていた。


平穏だった。


少なくとも――

廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえるまでは。


「し、失礼いたします!」


勢いよく戸が開く。


飛び込んできた若い役人は、

息を切らしたまま深く頭を下げた。


「三合目付近の畑にて……

 狐が、害獣避けの網へ絡まったとの報せが……!」


ぴたり。


(……狐?)


テュエルの手が止まる。


(……狐、だと?)


長椅子で頬杖をついていたシャガルが、

ゆっくり目を細めた。


同時だった。


室内の空気が、

わずかに変わる。


役人は焦った様子のまま続ける。


「村人達も助けようとはしたようなのですが、

 酷く暴れており……

 近づけないようで……」


「網が足へ食い込み、

 血も出ているとか……」


レイラは、静かに顔を上げた。


「……狐?」


「は、はい……」


役人は頷く。


双国では、

狐は古くから“山の守り手”として扱われていた。


神の使い――とまでは言わずとも、

むやみに傷つけることは忌避されている。


子供へ語る昔話にも、

必ずと言っていいほど狐が出てくる。


だからこそ。


ただの害獣避けの網であっても、

“狐を傷つけてしまった”という事実に、

村人達は酷く動揺していた。


「どう対処すべきか、

 村でも判断がつかぬようで……」


「兵を向かわせるべきか、

 それとも猟師を――」


「……いや」


小さく、

レイラが遮った。


静かな声だった。


だが、

その場の全員が口を閉ざすには十分だった。


レイラは筆を置き、

ゆっくり立ち上がる。


その横で、

テュエルの視線がわずかに細まった。


シャガルも、

頬杖をついたままこちらを見る。


レイラは短く息を吐く。


そして。


「……私が行く」


静かに、

そう告げた。


室内が、一瞬静まり返る。


役人は目を見開いた。


「し、しかし……

 危険かと……!」


「暴れているのだろう」


レイラは淡々と言う。


「なら、余計に怖がっている」


その言葉に、

誰もすぐ返せなかった。


レイラは羽織を取り、

そのまま歩き出す。


当然のように、

後ろで椅子の軋む音がした。


「同行します」


テュエルが静かに立ち上がる。


そして。


「余を置いて行く気ではあるまいな?」


どこか不満げな声。


シャガルだった。


レイラは振り返りもせず、

小さく息を吐く。


「…好きにしろ」


だがその声は、

どこか少しだけ柔らかかった。


そのまま三人は、

山の畑へ向かうため城を後にした。


――――


遠く、

山風が木々を揺らしていた。


三合目へ降りた頃には、

空気の匂いが少し変わっていた。


 土と草の青い香り。

 畑を耕したばかりの湿った匂い。

 遠くでは家畜の鳴き声も聞こえる。


 だが、その場だけは――異様に騒がしかった。


「うわっ、暴れるな!」

「網がさらに締まるぞ!」

「誰か棒を――!」


 人垣の中心で、

ばたばたと激しく網が跳ねる。


 きゃあああっ、と鋭い鳴き声。


 興奮しきった狐が、

必死にもがいていた。


 後ろ脚に絡んだ害獣避けの網が、

逃げようとするほど深く食い込んでいる。


 白茶の毛並みは泥で汚れ、

ところどころ赤く滲んでいた。


 周囲には村人や役人達が集まり、

遠巻きにざわついている。


 そこへ。


「……姫様!?」


 一人が声を上げた。


 ざわ、と空気が揺れる。


「姫様自ら……!」

「本当に来られたのか……!」

「お下がりください、危険です!」


 次々に頭が下がる。


 だが、その騒めきに反応するように、

狐はさらに激しく暴れた。


 ぎゃあっ、と悲鳴のような鳴き声。


 網が軋み、

血の匂いが濃くなる。


 レイラは静かに眉を寄せた。


「……皆の者」


 よく通る声。


 ざわつきが、

ぴたりと止まる。


「気になるのは分かる。

 だが、すまない」


 レイラは、

怯えきった狐を見つめたまま続けた。


「狐が、大勢の気配に興奮している」


「これ以上囲めば、

 さらに傷つくだけだ」


 一拍。


「少し、離れてくれ」


 村人達は顔を見合わせる。


 だが、

すぐには動けない。


「しかし姫様、

危険では――」


「早くせよ」


 低く落ちた声に、

空気が震えた。


 シャガルだった。


 紅の瞳が、

鋭く人垣を見渡す。


「聞こえなかったか。

 レイラが離れろと言っておる」


 さらに。


「皆様、

 レイラ様の指示に従ってくださいますよう」


 穏やかな声で、

だが有無を言わせぬ圧を含みながら、

テュエルも一歩前へ出る。


「ここから先は、

 こちらで対応します」


 村人達は、

はっとしたように頭を下げた。


「も、申し訳ありません!」

「すぐ離れます!」


 慌てて人が引いていく。


 役人達も下がり、

ざわめきは徐々に遠ざかっていった。


 やがて。


 その場に残ったのは、

レイラと、

シャガルと、

テュエルだけ。


 風が吹く。


 狐は荒い呼吸を繰り返しながら、

なおも低く唸っていた。


 近づく気配に反応し、

再び網を暴れさせる。


 ぎゃっ、と悲鳴のような鳴き声。


 テュエルが眉を寄せた。


「レイラ様……

 危険です」


 あまりにも怯えきっている。


 興奮状態の獣は、

何をするかわからない。


 シャガルも、

細めた目で狐を見下ろした。


「レイラ。

 余が網ごと引きちぎってやろうか」


 だが。


  そう口にしながらも、

 二人の胸の奥には別の感情が渦巻いていた。


 ――必死だ。


 逃げたいのに逃げられない。


 痛みに怯え、

 捕らえられ、

 それでもなお暴れるしかない。


 ぎゃあっ、と狐が鳴く。


 その瞬間。


(……レイラ)


 シャガルの脳裏に、

 最悪の光景が浮かんだ。


 妖力の宿った網。


 冷たく光る呪縛。


 そこへ絡め取られた、

 レイラ。


 白い肌へ、

 容赦なく食い込む網。


 じわり、と滲む血。


 逃げようともがくたび、

 傷が深くなる。


『っ……ぁ……』


 苦しげな呼吸。


 震える指が、

 こちらへ伸ばされる。


『シャガル……っ』


『助けて……』


 ぶち。


 漏れた妖気が、

怒りと殺意と悲痛をぐちゃぐちゃに混ぜたように、

空気をびり、と震わせた。



 隣では。


(レイラ様……)


 テュエルの脳内でも、

 勝手に地獄が始まっていた。


 ――冷たい牢。


 薄暗い石壁。


 鎖の擦れる音。


 凱帝国。


 本来なら、

 あり得たかもしれない未来。


 足枷を嵌められたレイラが、

 冷たい床へ座り込んでいる。


 白い足首には、

必死に逃げようとしたのか、

鎖擦れで滲んだ赤い傷。


 銀髪は乱れ、

 瞳には涙が滲んでいる。


『テュエル……っ』


『怖い……』


『助けて……っ』


 ――ぽた。


 地面へ、

 雫が落ちる。


 レイラ

「…………?」


 視線を向ければ。


 テュエルが、

 真顔のまま泣いていた。


 しかも肩まで震えている。


 レイラ

(……何を想像しているんだ?)


 その隣では、

 シャガルの妖気が若干漏れていた。


 狐はまだ暴れている。


 なのに男二人だけ、

 既に精神が大惨事だった。

 シャガルの肩も、

 小さく震えている。



 レイラもまた、

血の匂いに胸を痛めていた。


 九尾の感覚は、

生き物の痛みを敏感に拾う。


 苦しい。

 怖い。

 痛い。


 狐の悲鳴が、

胸の奥へ直接響いてくるようだった。


「…………」


 レイラは、

静かに息を吐く。


 そして。


 一歩、

前へ進んだ。


 その瞬間だった。


 ふわり――と。


 風が、

レイラの周囲へ絡みつく。


 長い銀髪が、

柔らかく揺れた。


 テュエルとシャガルから見えるのは、

背中だけ。


 だが。


 空気が、

変わった。


 冷たく、

静かで、

どこか懐かしい気配。


 まるで雪山の奥深く、

誰も踏み入れぬ冬の森のような――



その時



 狐の動きが、

ぴたりと止まった。


「…………」


 荒かった呼吸が、

わずかに緩む。


 レイラは、

 ゆっくりと膝を折った。


「……怖いか」


 静かな声。


「……外してやる」


 狐は、

 もう暴れなかった。


 レイラが触れても、

 逃げようとしない。


 網へ手をかけても、

 ただじっと見つめ返してくる。


 テュエルも、

 刺激しないよう静かにしゃがみ込む。


「こちらを……

 少し持ち上げます」


「あぁ」


 指先だけで、

 慎重に網を解いていく。


 絡まりは深い。


 だが、

 焦らない。


「……もう少しの辛抱だ」


 少しずつ。

 少しずつ。


 そして――


 するり。


 狐の脚が、

 網から抜けた。


 一瞬、

 空気が静まる。


 狐は数歩よろめきながらも、

 自分の脚で立った。


 その姿を見た瞬間。


 テュエル

「……はぁ……っ」


 張り詰めていたものが、

 一気に抜け落ちたような声だった。


 肩が小さく震えている。


 隣では、

 シャガルも深く息を吐いていた。


 まるで。


 本当に、

 大切なものを助け出した直後みたいな顔で。


 レイラ

「…………」


 狐は、

 無事だった。


 それなのに。


 何故か男二人の方が、

 今にも泣きそうになっている。


 テュエル

「……よかった……」


 ぽつりと零れた声は、

 本気の安堵そのものだった。


 シャガルも、

 狐を見つめたまま低く呟く。


「……二度と捕まるな」


 妙に実感のこもった声だった。


 レイラは数秒、

 二人を見比べ――


 やがて。


「……まったく」


 小さく息を吐いた。


 困ったように。


 けれど、

 どこか優しく笑いながら。


「お前達は……」


 感情豊かな夫達だった。



 ――だが、狐はその後も逃げない。


 絶妙な距離で座り込み、

じっと三人を見つめていた。


  レイラは、

 小さく笑った。


「ふふっ……

 来い」


「傷を見てやるぞ」


 狐の耳が、

 ぴくりと動く。


 数秒迷うようにして――


 と、と。


 小さく歩み寄ってきた。


 レイラはそっと前脚を持ち上げ、

 傷口を確認する。


「……浅いな」


「よかった」


 安堵したように息を吐く。


 だが。


 網が食い込んでいた部分は、

 まだ赤く裂けていた。


 レイラはほんの少しだけ視線を落とし――


 そして、

 そっと指先へ唇を寄せる。


 軽く湿らせたあと、

 傷口へ優しく塗り広げた。


 淡い冷気が、

 ふわりと滲む。


 狐の耳が、

 ぴくりと震えた。


 次の瞬間。


「…………」


 傷口の赤みが、

 ゆっくり薄れていく。


 テュエルは静かに目を細めた。


 シャガルも、

 何も言わない。


 二人とも、

 それがレイラの力だと知っている。


 レイラはそのまま、

 何事もなかったように頭を撫でた。


「もう、

 網にかかるようなことはするな」


「危険だからな」


 狐は、

目を細める。


 その横で、

シャガルが腕を組んだまま鼻を鳴らした。


「そうだ」


「獣ならば、

 そんな情けない姿を見せるな」


 一応、

 本人なりの心配である。


 だが。


「シャアッ!!」


 狐は即座に威嚇した。


 シャガル

「…………」


(……なんだと)


 ぴくり、と眉が動く。


 狐は毛を逆立てたまま、

 露骨に警戒していた。


(……狐)


 一瞬、

 黒い九尾の姿が脳裏を過る。


(……あの男も、

 こんな目をしていたな)


 途端に眉間が寄った。


(気に食わぬ)


 テュエルの肩が、

ぴくりと震える。


 狐はそのまま、

今度はテュエルの足元へ寄った。


 ふわり、と尻尾を擦りつける。


 テュエルは目を瞬いた。


「……はは」


「嫌われたのは、

 お前だけみたいだな?」


「……ほぉ?」


 びり、と空気が軋む。


 だが狐は気にせず、

最後にもう一度だけ、

レイラの顔をじっと見上げた。


 その金色の瞳が、

どこか名残惜しそうに細められる。


 そして。


 ふっと踵を返し、

畑の向こうへ駆け去っていった。


 風だけが、

静かに残った。


 



 その夜。


 城へ戻ったレイラは、

 自室へ入った瞬間――


「今日は余と休め」


「ボクと寝ましょう」


「添い寝でいい」

「……網が危険だ」


「……はい、危ないです」


 レイラ

「…………」


 真顔だった。


 しかも二人とも、

 本気で言っている顔である。


「……お前達」


 小さくため息を吐き――


「私を狐扱いするな」


 即答だった。

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