【未来編】甘やかしたい妖王と、怒られたかった護衛の末路
朝。
珍しく、執務室の空気が静かだった。
いつもなら、机に積まれた書類と睨み合いながら、淡々と筆を走らせているレイラだが――
今日は、机の上に既に茶が用意されていた。
テュエルはその日、剣術指南で不在。
では、一体誰が――?
レイラ
「……?」
湯気は立っている。
だが香りも、温度も、
熱かった時用の冷たい水まで完璧だった。
猫舌の自分への配慮が、
妙に行き届いている。
さらに、乱雑だったはずの書類まで綺麗に整理されていた。
レイラ
「…………」
(……おかしい)
嫌な予感がした。
その時。
「ふっ」
背後から、低い笑い声。
振り返ると、
そこには腕を組んだシャガルが立っていた。
どこか満足げで、
妙に誇らしげである。
シャガル
「どうだ」
「今日は、
余が世話してやろう」
レイラ
「…………」
はっきり言って。
怖い。
直感がそう告げていた。
シャガルはそんなこと気にも留めず、
当然のように椅子へ腰掛ける。
「安心しろ」
「今日は騒がぬ」
レイラ
(……怖い)
むしろ怖さが増した。
普段なら、
勝手に抱き寄せたり、
レイラの茶を奪って飲みたがったり、
(主に間接接吻目的である)
「退屈だ」と絡んできたりする男が、
今日は妙に大人しい。
それが逆に不気味だった。
レイラは警戒したまま、
そっと茶へ口をつける。
……少し苦い。
だが、美味い。
悔しいほどに。
シャガルはどこか得意げだった。
(ふ……今日こそは)
(余が、“落ち着く男”というものを見せてやろう)
そんな顔である。
だが。
レイラ
(……一体、何を企んでいる)
疑念は深まる一方だった。
⸻
移動中も異様だった。
いつもなら、
隣へ当然のように寄ってきて、
肩を抱いたり、
髪を弄ったりするくせに――
今日は距離がある。
一定以上、近づいてこない。
シャガル
(猿の代わりなど余裕だ)
シャガルは満足げだった。
レイラ
(……嵐の前触れか?)
逆効果である。
ついにはレイラ、
何度か後ろを振り返った。
本当にシャガル本人なのか、
確認するように。
シャガル
「なんだ」
レイラ
「……いや」
「静かだなと思って」
シャガル
「ふん」
「余をなんだと思っている」
レイラ
「…………」
(うるさい生き物)
とは、流石に口には出さなかった。
⸻
夜。
風呂を終え、
自室へ戻ったレイラは――
ぴたり、と足を止めた。
部屋の中に、
シャガルがいた。
当然のように。
レイラ
「…………」
一瞬で警戒が跳ね上がる。
レイラ
「……何をしてる」
シャガル
「待っていた」
当然のように答える。
嫌な予感しかしない。
というか。
レイラ
(……夜這いか?)
真っ先にそれが浮かんだ。
だがシャガルは妙に落ち着いていた。
にやつきもせず、
距離も詰めてこない。
むしろ堂々と椅子を引きながら、
さらりと言った。
「今日は余が髪を乾かしてやろう」
レイラ
「……え?」
予想外すぎて、
逆に困惑する。
シャガル
「安心しろ」
「何もしない」
レイラ
「…………」
(……怖い)
なぜだろう。
“何もしない”と言われるほど怖い。
だがシャガルは至って真面目だった。
丁寧に髪を梳かし、
優しく水気を取っていく。
力加減も完璧。
引っかかりすらない。
だからこそ怖い。
レイラは終始、
じっとシャガルを警戒していた。
シャガル
「……なんだその顔は」
レイラ
「いや……」
「今日は……妙に静かだなと」
シャガル
「…………」
そこで初めて、
シャガルは気づいた。
(……まさか)
(……警戒されている?)
少しだけ傷ついた。
だが妖王は、
ここまで来て方向転換できる男ではない。
(なるほど)
(もっと安心感を出せばよいのだな)
盛大に間違えた。
⸻
翌日。
執務中。
書類へ視線を落としていたレイラは、
ふと気配を感じて顔を上げた。
そこには。
当然のように、
巨大な妖王が立っていた。
嫌な予感しかしない。
少し離れた位置では、
テュエルがいつものように補佐をしている。
だが。
妖王を視界に入れた瞬間、
嫌な予感しかしない顔になっていた。
シャガルは腕を組み、
どこか満足げに言い放つ。
「レイラ」
「今日は」
「抱いて寝てやる」
レイラ
「…………」
ぴたり。
空気が止まる。
同時に。
――かた。
後方で、
テュエルの筆も止まった。
テュエル
(何を言ってるんですかこの獣は)
数秒。
沈黙。
そして。
レイラ
(……やっぱりか)
昨日の違和感。
妙に静かな態度。
甲斐甲斐しい世話。
距離を取っていたこと。
“何もしない”などと言っていたこと。
全部繋がった。
レイラ
(最初から、そのつもりだったな……?)
警戒が一気に跳ね上がる。
シャガルはそんなこととは露知らず、
真顔で続けた。
「安心するだろう?」
レイラ
(……何がだ)
全然安心できない。
むしろ、
変に意識してしまって落ち着かない。
というか。
昨日から妙に優しかった理由が、
急に腑に落ちてしまった。
レイラ
(……なるほど)
(機嫌を取っていたのか……)
そう思うと、
全部が怪しく見えてくる。
茶。
髪。
距離感。
静けさ。
全部。
レイラ
(……怖い)
シャガル
「何故そんな顔をする」
本当に分かっていない顔だった。
余計怖い。
レイラは数秒迷い――
小さくため息を吐く。
「……静かなお前は、
逆に怖い」
「何か企んでそうだ」
シャガル
「…………」
軽く傷ついた。
その後ろで。
テュエルの肩が、
小さく震えていた。
⸻
だが。
レイラの感情を引き出そうとしているのは、
何も妖王だけではなかった。
むしろ――
もっと拗らせた男が、
別方向から暴走を始めていた。
⸻
執務室。
外は快晴。
障子の隙間から吹き込む風が、
白い薄布を静かに揺らしていた。
そして。
テュエル
「レイラ様」
レイラ
「……どうした」
テュエルは、
妙に真剣な顔をしていた。
脳裏に浮かんでいるのは、
以前シャガルに叩きつけられた言葉だ。
『“新鮮さ”を与えられるのは、
余ということだ』
『照れた顔も』
『困惑する顔も』
『貴様には、
もう見れまい?』
ぴくり。
テュエルの拳が握られる。
さらに追い打ちのように、
あの男の声が脳裏に蘇った。
『余が少し触れるだけで、
あやつはすぐ顔を赤くする』
そして。
『レイラに、
本気で平手打ちされたことはあるか?』
テュエル
「…………」
こめかみが引き攣る。
『怒りも、
苛立ちも、
羞恥も』
『すべて隠さず、
余へ向けた』
『……実に愛らしかったぞ』
テュエル
(くそ……)
(俺だって……)
レイラ
「……? テュエル、どうした」
その瞬間だった。
ぐい。
レイラ
「――っ!」
突然、腕を掴まれる。
そして。
ひょい。
レイラ
「…………え?」
そのまま抱え上げられた。
周囲の侍女達が一斉に固まる。
(えっ!?)
(テュエル様!?!?)
普段のテュエルなら、
絶対にこんな強引な真似はしない。
レイラの体調不良や緊急時でもない限り、
まずあり得ない行動だった。
だが当の本人は、
妙に覚悟を決めた顔をしている。
テュエル
「今日は、休みましょう」
レイラ
「……なぜだ?」
テュエル
「仕事は禁止です」
有無を言わせぬ口調。
だが、
声がほんの少し震えていた。
内心では。
(……や、やってしまった……!!)
(強引すぎる……!!)
(流石に怒られる……!!)
完全に覚悟していた。
――いや。
違う。
テュエル
(怒られたい……!!)
目的がズレている。
だが。
レイラ
「…………」
きょとん。
怒るどころか、
呆気に取られていた。
そして。
ふっ。
小さく笑う。
レイラ
「なんだ」
「……そういう気分なのか?」
穏やかな声音。
さらに。
レイラ
「いいぞ」
「何をしたいんだ?」
テュエル
「………………」
想定外だった。
完全に。
――――――
庭へ連れて行かれ、
茶が用意される。
陽射しは穏やかで、
風は心地いい。
レイラは未だに、
どこか面白そうだった。
対して。
テュエルの内心は大混乱である。
(なぜだ……)
(なぜ怒らない)
(おかしい)
(もっとこう……)
(“何をしている!”みたいな反応では……!?)
真顔のまま思考だけが暴走していく。
そして。
(……まだ、足りないのか)
ぐっ。
テュエルの拳が握られた。
テュエル
「……レイラ様」
レイラ
「ん?」
テュエルは、
一瞬だけレイラを見つめ――
そして。
何を思ったのか。
無言で。
ごろん。
膝へ頭を乗せた。
レイラ
「――っ!」
空気が止まる。
テュエル本人も、
乗せた瞬間に固まっていた。
(……ど、どうだ!?)
――だが。
頭の中では、
警鐘が盛大に鳴り響いている。
(……や、やってしまった!!)
(流石に距離が近すぎる!!)
(これは怒られる!!)
(絶対怒られる!!)
だがもう遅い。
柔らかな感触が、
後頭部へ伝わってくる。
(膝枕されたまま……)
(平手打ち……?!)
(さ、されたすぎる!!!)
脳内が終わっていた。
逃げ場はない。
レイラは数秒、
ぽかんと瞬きを繰り返し――
やがて。
レイラ
「……ど、どうした」
困惑した声を落とした。
近い。
距離が近い。
心臓に悪い。
そしてここで、
テュエルは別方向の危機に気づく。
(……待て)
(そもそも)
(失望されるのでは……?)
冷や汗が伝う。
(レイラ様の中の)
(“完璧なテュエル”像が……)
(崩れるのでは……!?)
テュエル
(それはダメだ!!!)
一気に我に返った。
起き上がろうと、
慌てて身を起こしかける。
――その瞬間。
す、と。
レイラの指が、
髪へ触れた。
レイラ
「……ふふ」
優しく撫でられる。
まるで、
子供をあやすように。
レイラ
「どうした」
「今日は……
随分わがままだな」
テュエル
「…………」
違う。
そうじゃない。
テュエルの想定では、
迷惑をかける
↓
怒られる
↓
感情をぶつけてもらえる
――はずだった。
だが現実は。
夫が甘えてくる
↓
かわいい
↓
よしよし
だった。
完全に想定外である。
だが――
テュエル
(……幸せすぎる……♡)
(……死ぬ……♡)
(もうここから離れたくない……♡)
(離れるものか……♡)
理性が秒で溶けた。
膝枕されたまま、
うっすら頬まで緩んでいる。
さっきまで
“怒られたい”だの
“平手打ちされたい”だの考えていた男とは思えない。
一方。
レイラはというと、
どこか嬉しそうですらあった。
普段のテュエルは、
隙がない。
護衛としても、
夫としても、
あまりに完璧すぎる。
弱音も吐かず、
甘えることも少ない。
だからこそ。
こうして珍しく距離を詰め、
甘えるような真似をしてくる姿が、
少しだけ新鮮だった。
レイラ
(……たまには、
こういう日もあるのだな)
ふっと目を細める。
そして。
さらり。
また髪を撫でた。
テュエル
(レイラ様……♡)
(なぜあなたはそんなにも……)
(優しいのですか……♡)
脳内がお花畑な夫をよそに。
レイラは静かに、
髪を撫で続けていた。
――なお。
その光景を、
少し離れた場所から見ていた男が一人。
シャガル
「…………」
腕を組み、
じっと庭を見つめている。
そして。
シャガル
「……なぜ猿は許される」
心底納得いかない顔だった。
その夜。
自室へ戻ったレイラは、
どこか穏やかな気分だった。
静かなシャガル。
珍しく甘えてきたテュエル。
どちらも妙に新鮮で、
少しだけ面白かったからだ。
レイラ
(……たまには、
こういう日も悪くないな)
小さく息を吐き、
布団へ潜った。
その時。
廊下の奥。
男二人が、
何やら険しい顔で立っていた。
シャガル
「……納得いかぬ」
テュエル
「それはボクの台詞ですが?」
空気が重い。
シャガル
「……何故だ」
真顔だった。
テュエル
「知りませんよ」
「というか、
ボクが聞きたい」
シャガルは眉を寄せる。
「余がやると、
あやつは警戒する」
「なのに貴様は」
庭で膝枕され、
撫でられ、
完全に骨抜きになっていた猿を思い出す。
ぴき。
額に青筋が浮いた。
シャガル
「……何故許される」
テュエル
「いや、
そもそもの問題では?」
即答だった。
「“抱いて寝てやる”などと言えば、
誰だって警戒します」
シャガル
「安心させようとしただけだ」
テュエル
「言い方というものがあります」
「お前の場合、
常日頃の行いもありますし」
シャガル
「ほぉ?」
空気が軋む。
だがテュエルも退かない。
「そもそも、
レイラ様は優しいんです」
「多少のことでは怒りません」
シャガル
「……多少?」
テュエル
「えぇ」
一拍。
そして、
静かに目を逸らした。
「……本当は、
平手打ちくらいは覚悟していたんですが」
シャガル
「…………」
妖王の動きが止まる。
数秒後。
シャガル
「貴様」
「やはり変態ではないか?」
テュエル
「お前にだけは言われたくありません」
即答だった。
びり。
空気が震える。
――――
その翌日。
庭。
穏やかな陽射しの下、
レイラは静かに茶を飲んでいた。
その隣には、
当然のように妖王がいる。
そして。
ごろ。
シャガル
「…………」
当然のように、
膝へ顔を埋めてきた。
レイラ
「……おい」
シャガル
「落ち着く」
即答だった。
昨日の“安心感を与えようとする妖王”はどこへ行ったのか。
距離感は完全に元通りである。
だが。
レイラ
(……やれやれ)
不思議と、
こちらの方が落ち着いた。
レイラは呆れたように息を吐き――
それでも、
当たり前のように髪を撫でた。
シャガルは満足そうに目を細める。
その顔を見て、
レイラも少しだけ笑う。
レイラ
(……なんだ)
(結局、
こっちの方がらしいな)
⸻
執務室。
テュエル
「こちら、確認済みです」
「次の謁見ですが、
西側使節の到着が少し早まるかと」
完璧だった。
茶の温度。
書類整理。
護衛位置。
補佐。
全部。
いつも通り、
隙がない。
昨日の“無理に甘えようとしていた男”とは別人である。
そして。
レイラ
「…………」
気づけば。
とん。
自然に、
その肩へ寄りかかっていた。
テュエル
「……っ」
一瞬だけ、
呼吸が止まる。
レイラは特に気にした様子もなく、
そのまま書類へ視線を落とした。
そして。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
それから、
ぽつりと。
「……落ち着くなぁ……」
テュエル
「…………」
声が小さすぎて、
本人すら無意識だったのかもしれない。
だが。
テュエルには、
しっかり聞こえていた。
耳まで赤く染まり、
数秒ほど完全に動きが止まる。
レイラ
「?」
「……どうした」
テュエル
「……いえ」
平静を装っている――
つもりだった。
だが。
駄目だった。
耳は赤いし、
口元も完全に緩んでいた。
レイラはふと目を細める。
昨日は、
二人とも妙だった。
静かすぎる妖王。
甘えたがる護衛。
あれはあれで新鮮だったが――
レイラ
(……うん)
そっと息を吐く。
庭では、
距離の近い妖王がいて。
隣には、
完璧すぎる護衛がいる。
騒がしくて。
落ち着かなくて。
けれど。
レイラ
(……満たされてるな)
ふと、
胸の奥が温かくなる。
結局。
レイラ
(やはり、
これが一番しっくりくる)
自然と、
口元が緩んだ。
――なお。
後日。
シャガル
「何故貴様は、
寄りかかられる」
テュエル
「何故お前は、
撫でられているんです?」
結局また揉めた。




