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妖王の独白


退屈だった。


何もかも。


挑んでくる妖も、媚びを売る女も、王という座すらも。


女に困ったことはない。欲したわけではない。


勝手に寄ってきて、勝手に熱を上げ、

勝手に跨り、勝手に消えていく。


顔も名も覚える必要すらなかった。どれも同じだったからだ。


心が動くことなど、一度もなかった。


……あの日までは。


久しく感じた気配に、ただ興が乗っただけだった。


だから行った。


それだけのはずだった。


そこにいたのは、

男物の着物を纏いながらも隠し切れぬ気配を持つ女。


余の妖気に当てられながらも、

逃げもせず、ただ真っ直ぐに余を見返してきた。


『酒臭いヤツは嫌いだ』


……ふ。


あの瞬間、思ったのだ。


面白い、と。


欲しい、と。


だがその時の余はまだ知らなかった。


それがただの所有欲で終わるものではないことを。


また会おうと、確かに言った。


故に行った。


人間どもは妙な顔をしていたが、知ったことではない。


最初は本当に暇潰しだった。


レイラという名の女に、ただ興味が湧いただけ。


怯えぬ目。妖を前にしても逸らさぬ視線。


脆い人間のくせに、妙に折れない。


面白い女だと思った。


だから、欲しくなった。


ただそれだけのはずだった。


だが翌日、余は奇妙なものを見る。


人間どもだ。


城の中を忙しなく動き、意味もなく騒ぎ、笑い、怒る。


脆く、短命な生き物のくせに、なぜあれほど騒がしい。


理解できなかった。


だが同時に、妙に目が離せなかった。


レイラは言った。


「監視下に置く」と。


ならば都合が良い。


余も、あの女の側に居たかった。


専属護衛になると言った時の、あの猿――テュエルとかいう男の顔は見ものだったな。


今にも噛み付かんばかりの目で、余を見ていた。


……殺そうと思えば、できた。

何度でも。


だが、やめておいた。


――あの男は、危険だ。


……だから、やめた。



人間の服は窮屈だった。


余には黒と紅が似合うというのに、紺を着せられる。


だが、それがレイラの好みだという。


……ならば悪くない。


馬にも乗った。


いや、正確には振り落とされた。


理不尽極まりない。


何故あんな獣が余の言うことを聞かぬ。


地に叩きつけられ、泥に塗れた余を見て、レイラは笑った。


あの女は滅多に笑わぬ。


だからこそ、その一瞬が妙に目に焼き付いた。


気づけば思っていた。


もっと笑わせたい、と。


名も与えられた。


シャガル。


酒呑童子でも妖王でもない、ただの名。


あの女が余に与えた呼び名。


たかが音だ。意味などないはずだった。


それでも、レイラの口から紡がれるその響きだけは、妙に心地よかった。


そして――触れられた。


頭を撫でられた。


あれは、何だったのだろうな。


千年以上、恐れられ、伏せられ、崇められ、憎まれてきた。


そのどれとも違う触れ方だった。


温かく、柔らかく、妙に静かで。


……悪くなかった。


あの時、余はまだ気づいていなかった。


それが“始まり”であったことに。



朝、レイラはふらつきながら部屋を出てきた。


顔は赤く、足取りも覚束ない。



それでも皇務へ向かおうとするのだから、呆れる。


猿は青ざめていた。


どうやら昨夜、理性を失ったらしい。


全く、忌々しい。


レイラが崩れた瞬間、余は迷わず抱き上げた。


猿が何か喚いていたが、知ったことではない。


余が看病をすると決めたのだ。


……もっとも、人間の看病など知らぬ。


氷は垂れる、布団は過剰、粥はただの肉の煮物になった。


だがレイラは怒らなかった。


ただ一言、「ありがとう」と言って笑った。


妙だった。


熱に浮かされたまま、レイラは猿の名を呼んだ。


胸が僅かにざわつく。


だが――構わぬ。


欲しいなら、奪えばよいだけだ。


余は、そう決めた。


その後、「犬になれ」と言われた時は耳を疑ったが。


撫でられるのは、悪くなかった。


「一緒に寝よ」と言われれば、断れるはずもない。


腕に頭を預けて眠る夜は、妙に静かだった。


……人間界も、案外悪くない。


だが、平穏は長くは続かぬ。


夜明け前、部屋へ忍び込んだ刺客を叩き伏せたところへ、猿が飛び込んできた。


凱の暗殺者だという。


レイラを攫う気だったらしい。


――気に食わん。


朝には、戦の話になっていた。


人間どもは忙しない。


それでもレイラは迷わず進む。


ならば余も行くだけだ。


猿は荷物を抱えて騒いでいたが、レイラに捨てられて半分死んでいた。


いい気味だ。


こうして、余たちは戦へ向かう。


戦とは、つまらぬものだと思っていた。


欲と怨みで喰らい合うだけの遊戯。


だが――


戦場で舞うレイラを見た瞬間、その考えは変わった。


剣を振るうたび、雪のように静かで。


血飛沫すら、無駄がない。


迷いも、躊躇もない。


ただ必要なものだけを断つ、その冷たさ。


……美しい。


あぁ、なるほど。


兵どもが見惚れるのも当然だ。


余ですら、目を奪われたのだからな。


しかもあやつは、余に「暴れるな」と言いながら、自分はあの有様だ。


実に、ずるい女だ。


……だが余も、きちんと守ったぞ。


“王と女童を守る時のみ戦う”


“妖力は使わぬ”


“煌龍の者と揉めぬ”


全部だ。


ふっ…、どうだレイラ。


余は偉いだろう。


……まあ、少し斬りすぎた気はするが。


敵が弱すぎたのだ。仕方ない。


レイラと猿――あの二人は、並の戦力ではない。


風と炎。


互いの呼吸を読み、思考すら重ねて戦う姿は、まるで一つの生き物だった。


凱の兵が恐れるのも無理はない。


運が悪かったな。


だが――


あれほど圧倒していたレイラが、突然崩れ落ちた時だけは、さすがの余も息が止まった。


巫女の目。


あやつは戦場の“命”を、視すぎたのだ。


悲鳴も、血も、殺気も。


すべてを真正面から受け続けた結果、限界を超えていた。


猿が即座に抱き上げ、余と共に退路を切り開く。


あの時の猿は、冷静で――それでいて、誰より焦っていた。


余も人のことは言えぬがな。


双国へ戻っても、レイラの呼吸は乱れたままだった。


あれほど強い女が、眠りの中で小さく呻く。


それが、妙に胸に残った。


だからだろうか。


安心した途端、今度は余の身体がおかしくなった。


熱い。

頭が回らぬ。

立っていられぬまま――倒れた。


意味が分からぬ。


余は妖王だぞ?

病など寄せ付けぬはずだ。


……どうやら、あの看病で移されたらしい。


情けない話だ。


だが熱に浮かされる中で見たのは、決まって同じ夢だった。


血と戦場の果てに、レイラが遠ざかっていく。


あれは、嫌な夢だった。


余は欲しいものは奪えばよかった。

力で縛ればよかった。


だが――


あの女が離れていく夢だけは、どうしようもなく怖かった。


そして目を覚ました時。


静かすぎる部屋の中で、余は初めて知った。


弱るというのは、こんなにも心細いのか、と。


そこへ、レイラが来た。


襖が開いた瞬間、胸の重みが消えた。


額に触れられるだけで、安心してしまう。

そばにいると言われるだけで、嬉しくなる。


笑ってしまうだろう?


妖王の余が、たかが一人の女でこうなる。


粥を食べさせられ、汗を拭かれ、眠るまで傍にいられて――

気づけば余は、その時間が終わってほしくないと思っていた。


そして、朝。


目を覚ますと、すぐ隣でレイラが眠っていた。

無防備に。


その瞬間――胸が跳ねた。


あぁ。


そこで、ようやく分かった。


余はもう、気に入っているなどという段階ではない。


守りたい。

傍にいたい。

離れたくない。


――惚れたのだ。


この、不器用で、危うくて、美しい女に。


(……今思えば、分かりやすいほどだったな)


看病されただけだ。


ただそれだけで――


奪いたいわけではない。

壊したいわけでもない。


ただ――笑っていてほしい。


あの女が、何も気にせず息をしていられる場所を守りたい。


そう思った。


だが


そんな浮かれていたところを


余の知らぬ場所で、二人が余の知らぬ話をしていた。


妙に胸がざわついた。

あの猿の名を聞くたび、気配が濁った。


だから城を飛び出した。


大人気ない嫉妬だとわかっていても。


覚えのある妖の気配

辿ってきた先で見たのは――

レイラが殺される寸前の光景だった。


間に割って入る。反射だ。


ただ腹が立った。

“使う”などと言ったあの言葉に。


雪女。確かに希少だ。

だからどうした。


あの女が何者であろうと関係はない。


レイラは、雪女だから守るのではない。

レイラだから守るのだ。


それだけの話だ。


ただ一つだけ確かなのは――

あの女を、誰にも弄ばせぬということだけだった。


恋を自覚してからというもの、レイラの隣に立つ機会は増えていった。

逢瀬と呼ぶには些細な時間。それでも確かに、余らの距離は近づいていた。


その変化に――気づいた。


あの猿が、変わった。


レイラを見る目。余への敵意、“余に奪われることへの焦り”。


(嫉妬、か)


容易に理解できた。だが、譲る気などない。

たとえレイラの中心に、今もあの男がいるのだとしても。


――それでも良かったはずだった。


だが。


あの猿は、その嫉妬を誤った。


距離を詰め、縛り、レイラを壊しかけた。


レイラの腕に残る痕。

色を失った目。

雪のように崩れた心。


――許せなかった。


怒りのまま、あの猿の元へ向かっていた。


殴るためか。

怒鳴るためか。

それとも――


「泣かせるな」と言いたかったのか。


その時の余には、もう分からなかった。



それと――その後の宴だ。


今でも思う。


(……耳は、ないだろう……)


あれは弱点ではない。

妖王たる余に、弱点などない。


……ない、はずだった。


なのに。


(噛むな……なぜ噛む……!)


かぷ、ではない。あれはただの甘えではない。


酒に酔い、無防備に寄ってきて、

無自覚に耳へ触れ、そのまま噛むなど――


心臓がもつわけがない。


(しかも……「好きぃ」などと……)


思い出すだけで頭が焼ける。


余は妖王ぞ。

千年を生きた怪異ぞ。


それが今では、


耳を触られただけで動揺し、

噛まれただけで息が乱れ、

「好き」の一言で眠れぬ。


……重症ではないか、これは。


翌日も、その次も、余は気づけばあの女の側にいた。


いつの間にか、それが当然になっていた。


あの猿は相変わらず鬱陶しく、余が近づけば牙を剥いた。

だが、それすら妙に面白く見えていた。


(……いつからだ)


気づけば、レイラが笑うだけで胸の奥が緩むようになっていた。

他へ向ける視線が気に入らぬようになっていた。

隣に誰かが立つだけで、妙に苛立つようになっていた。


実にくだらぬ。

だが、どうしようもなかった。


そして――天墓使の襲来。


理解できなかった。


なぜ刃を振るわぬ。

なぜ拒まぬ。


お前ならば、あれほどの隙――斬れるはずだ。


力も、速さも、覚悟もあった。


それなのに――お前は止まった。


人だからか。

妖だからか。


違う。


お前は最初から、そういうものでは測らぬ女だった。


だからこそ止まり、

だからこそ傷ついた。


……愚かだ。


だが――


余は目を逸らせなかった。


傷つくたびに、胸の奥が軋む。


なぜ戦わぬ、と苛立ち、

なぜ泣きそうな顔をする、と苦しくなった。


そして――あの時。


お前は、折れかけていた。


「どこにも属せぬ」


その言葉に、心ごと呑まれかけていた。


……だから、叫んだ。


立て、と。


お前は誰でもない存在ではない、と。


――アインの娘だ。

余が認める女だ。

誇り高き、レイラだと。


 


あの瞬間だったのだろう。


お前が“ただの興味”ではなくなったのは。


 


余はずっと、恐れられる側だった。


妖の王。

酒呑童子。


畏怖され、憎まれ、討たれる側の存在。


それが当然だった。


 


だから知らなかったのだ。


――失うことへの恐怖を。


 


レイラが腕の中で崩れ落ちた瞬間、何かが壊れた。


呼吸が浅い。

指先が冷たい。

返事がない。


それだけで、胸の奥が裂けるようだった。


 


……怖かった。


天墓使に封じられた時よりも。

神木に喰われかけた時よりも。

鬼へ堕ちたあの瞬間よりも。


 


何より怖かったのは――


余自身だった。


 


もしあの時、ほんの僅かでも遅れていれば。


この腕で。

この牙で。


余はお前を壊していたかもしれぬ。


 


その想像だけが、内側を抉った。


 


守りたかった。


誰よりも。

絶対に。


 


なのに余は、

守るべきものを自らの手で失いかけた。


 


……笑える話よ。


千年生きた妖王が、

たった一人の呼吸に怯えている。


 


だが――理解してしまった。


 


余はもう、お前のいない世界には戻れぬ。


 


怒る顔も。

困る声も。

叱る瞳も。

触れる手も。

名を呼ぶ声も。


 


全部、失いたくない。


 


だから怖い。

壊したくない。

離れたくない。


 


……あぁ。


これが、“愛”か。


その瞬間、余はもう――無敵ではなくなっていた。


だが、それでよかった。


弱くなろうと、恐怖に縛られようと、この先どれだけ傷つこうと。


余は、レイラと共に在りたい。


その想いを自覚したのは、あの夜からだ。


天墓使の神木から逆流した妖力は、余の内で暴れ続けていた。


夜ごと、少しでも気を抜けば鬼へ堕ちるほどに。


だから余は距離を取った。


近づけば離れ難くなる。

触れれば戻れなくなる。


何より――余が壊したくなかった。


だが、あの女は来た。


止めても止まらなかった。


「放っておけるわけがない」


そう言って、余の内側へ触れた。


その瞬間、暴れていた力が静まった。


二人の力が重なった場所に翡翠の結晶が生まれた。


あれは道具ではない。


余とレイラ、そのものだった。


だから隠した。


背負わせたくなかっただけだ。


だがそれでも、運命は勝手に形を変える。


――――


夕暮れ。


二人きりの帰路で、あの女は余を見上げた。


そして――言った。


「端正な顔立ちをしていたんだな」と。


その一言で、理性が崩れた。


抱き寄せるしかなかった。


壊さぬように、逃がさぬように。


「余を狂わせるな」


それだけで精一杯だった。


それでもあの女は逃げなかった。


嫌ではない、拒まぬ、と言った。


その瞬間、千年の孤独は崩れた。


そして決定的だったのは、腕輪の意味を知った時だ。


妖にとって結晶は、魂を結ぶ証。


――すでに、結ばれていた。


それを知ったあの女は、迷わず余の元へ飛び込んできた。


涙を浮かべながら。


その瞬間、終わった。


王も、妖も、千年の理性も。


すべて、あの温もりに壊された。


レイラは余を選んだ。


鬼ではなく。

王ではなく。


ただ、“シャガル”を。


その時ようやく理解した。


恐れていた愛が、なぜ尊いのか。


守りたいと願うことが、なぜ生きる理由になるのか。


余は――妖王、酒呑童子。


退屈だった。


すべてが同じで、すべてが無価値だった世界。


女に困ることなどなかった。

だが、欲しいと思ったこともなかった。


勝手に寄ってきて、勝手に消えていく存在。

名を覚える意味すらなかった。


心が動くことなど――一度もなかった。


……はずだった。


だが今は違う。


退屈ではない。

騒がしい。

厄介で、面倒で、目が離せない。


女は勝手に寄ってこない。

それでも、他などいらぬ。

ただ一人だけ、掴みたくなる。


それだけで、世界が狭くなる。


手放せぬものがある。

失いたくないものがある。


心は、もう止まらない。


戻ることはできぬ。

――戻るものか。


――愛している。



それだけの、ただの男だ。


レイラと共に在るために生きる。

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