【過去編】姫を守るために、すべてを排除した護衛の話
兵として巡回中の宮内の回廊は、いつも通り静かだった。
――少なくとも、何も“異常”はなかった。
しかし――
「……気味が悪いんだよな、あの姫」
その言葉を聞いた瞬間、足が止まった。
「目が合うと、全部見透かされてる気がする」
「氷の姫、だろ?笑わないし」
――何を言っている。
理解するより先に、
胸の奥が焼けた。
気づけば、踏み出していた。
「……今の、誰の話だ」
声が低い。
抑えたつもりだった。
だが、抑えきれていなかった。
「あ?なんだ――」
言い終わる前に、掴む。
壁に叩きつける。
鈍い音。
「もう一度言ってみろ」
指に力が入る。
逃がさない。
「だ、だから……あの姫が――」
最後まで言わせなかった。
殴る。
一発。
二発。
止められるまで、
何度も。
⸻
「やめろ、テュエル!!」
肩を引かれる。
腕を掴まれる。
ようやく、動きが止まる。
荒い呼吸の中で、
視界だけがやけに冷静だった。
床に転がる男。
怯えた目。
――違う。
こんなことをしても、
意味はない。
分かっている。
だが。
(許せない)
それだけは、どうしても消えなかった。
⸻
その日から、
耳を澄ますようになった。
どこで、
誰が、
何を言っているか。
巡回のついで。
雑談の端。
すべて拾う。
「氷の姫がさ――」
「またあの目で見られて――」
そのたびに、
同じことを繰り返した。
だが――
(足りない)
殴っても、
止まらない。
一人潰しても、
別の場所でまた湧く。
(こんなやり方では……)
拳を握る。
血が滲む。
(守れない)
⸻
やがて気づく。
殴るのではなく、
近づけなければいい。
⸻
立場を得た。
護衛。
レイラの、傍に立つ権利。
それは同時に――
“排除する理由”を得たということだった。
⸻
「その件はこちらで処理します」
先に動く。
「レイラ様には不要です」
関わらせない。
「それ以上近づく必要はありません」
線を引く。
穏やかに。
丁寧に。
だが、確実に。
⸻
気づけば、
人は離れていった。
女官も、
家臣も。
必要以上に、
近寄らなくなる。
噂も、
減った。
完全ではない。
だが――
(届かない距離には、なった)
⸻
「レイラ様」
声をかける。
振り返るその顔は、
いつも通りだった。
変わらない。
何も。
(……足りない)
胸の奥で、
小さく何かが軋む。
⸻
茶を出す。
温度を合わせる。
予定を整える。
衣を整える。
触れる前に、
すべて終わらせる。
隙をなくす。
他の誰も、
必要としない形に。
⸻
それでも。
(まだ、足りない)
⸻
廊下の向こうで、
小さな声がした。
「……最近、近づくなって言われるんだよ」
「護衛のあいつに」
足を止める。
気配を殺す。
「……関わらない方がいい」
――正しい判断だ。
そう思う。
同時に。
(遅い)
もっと早く、
徹底するべきだった。
⸻
視線を上げる。
レイラが歩いている。
いつも通りの歩幅。
いつも通りの姿。
変わらない。
何も。
(……本当に、これでいいのか)
疑問がよぎる。
だが。
答えは出ない。
⸻
夜。
部屋の外で、気配を整える。
中は静かだ。
物音は少ない。
不要な声もない。
(……静かだ)
だが――
(これで、安心できているのか?)
分からない。
聞いたことがない。
聞く必要もないと思っている。
――いや。
(聞くべきではない)
⸻
「本日はお疲れ様でした」
形式通りに頭を下げる。
そのまま離れるつもりだった。
「……テュエル」
呼ばれる。
一瞬だけ、息が止まる。
「はい?」
振り返る。
レイラがこちらを見ている。
何かを言いかけて――
「……なんでもない」
そう言った。
⸻
一拍。
⸻
「かしこまりました」
それ以上は、踏み込まない。
踏み込むべきではない。
⸻
扉が閉まる。
静寂。
⸻
(……何を言おうとした)
思考が、そこに留まる。
だが。
答えは出ない。
⸻
回廊を歩く。
音は少ない。
人も少ない。
声も、ない。
⸻
(……まだだ)
足を止める。
天井を見上げる。
⸻
(この程度で)
(守れているなどと)
⸻
ゆっくりと、目を閉じる。
⸻
(思い上がるな)
⸻
胸の奥で、
何かが静かに沈む。
⸻
(まだ、足りない)
(全く――足りない)
「――あの方は、何も知らないままでいい」
⸻
その結論だけが、
迷いなく残った。
――――――――――――――
宮内の回廊は、いつも通り騒がしかった。
笑い声。
囁き声。
足音。
――そして。
「……気味が悪いんだよな、あの姫」
「目が合うと、全部見透かされてる気がする」
「氷の姫、だろ?笑わないし」
レイラは、足を止めなかった。
聞こえている。
全部、聞こえている。
耳を塞ぐこともできず、
遮ることもできず、
ただ流れ込んでくる。
(……うるさい)
胸の奥で、小さく呟く。
だが、それ以上の感情は浮かばない。
怒りも、悲しみも。
ただ――
(……疲れる)
それだけだった。
⸻
「……おい」
低い声が、割り込んだ。
次の瞬間、空気が変わる。
「あ?なんだ――」
鈍い音。
壁に叩きつけられる気配。
荒い呼吸。
「……今の、誰の話だ」
声が低い。
抑えているはずなのに、
抑えきれていない怒気が滲んでいる。
レイラは、振り返らなかった。
(……また、だ)
知っている。
この声も、
この気配も。
まだ護衛ではない。
ただの少年。
それでも、何度も見てきた。
(……無駄なのに)
小さく、息を吐く。
⸻
それからしばらくして。
回廊の空気が、少しだけ変わった。
同じ場所を通っても、
声が――減った。
完全に消えたわけではない。
だが。
(……静かだ)
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、
楽だった。
⸻
やがて、彼は護衛になった。
レイラの傍に、常にいる存在。
テュエル。
「レイラ様、お茶をどうぞ」
差し出される器。
温度は、ちょうどいい。
「こちら、本日の予定です」
簡潔で、無駄がない。
「お召し物は、こちらで整えておきました」
触れられる前に、
すべてが整っている。
⸻
気づけば。
誰も、近寄らなくなっていた。
女官も、家臣も。
必要最低限しか、
関わってこない。
(……静かだ)
耳に入るのは、
風の音と、
衣擦れと。
それから――
「レイラ様」
すぐ近くで響く、
落ち着いた声だけ。
⸻
ある日。
廊下の向こうで、
小さな声がした。
「……最近、近づくなって言われるんだよ」
「護衛のあいつに」
「目をつけられると面倒だって……」
「……関わらない方がいい」
レイラは、足を止めなかった。
(……そう)
知っている。
全部。
あの少年が、
何をしていたか。
何をしているか。
(……でも)
視線を少しだけ横にやる。
そこに、テュエルがいる。
いつも通りの距離。
いつも通りの姿勢。
何も言わない。
何も誇らない。
何も求めない。
ただ――
そこにいる。
⸻
(……うるさくない)
ふと、思う。
(……楽だ)
胸の奥が、
わずかに緩む。
こんな感覚は、
初めてだった。
⸻
夜。
部屋に戻る。
灯りは控えめで、
静かだった。
「本日はお疲れ様でした」
テュエルが、頭を下げる。
そのまま、自然に離れる気配。
「……テュエル」
呼ぶつもりはなかった。
けれど、声が出た。
「はい?」
振り返る。
いつも通りの顔。
穏やかで、
何も隠していないように見える表情。
――何も言わない。
言えない。
(……知ってる)
(全部)
でも。
「……なんでもない」
それだけを、返した。
⸻
テュエルは、一瞬だけ目を細めたが、
すぐにいつもの微笑みに戻る。
「かしこまりました」
それ以上は、踏み込まない。
⸻
扉が閉まる。
静寂。
レイラは、ゆっくりと息を吐いた。
(……言わなくていい)
理由は分からない。
ただ。
(……このままでいい)
そう思った。
⸻
耳に入る声は、もう少ない。
誰も、騒がない。
誰も、踏み込まない。
――静かだ。
(……うるさくない)
(……安心できる)
(……だから、きっと)
(この人は――大丈夫だ)
ぽつりと、胸の奥で言葉が落ちる。
それが何を意味するのか、
レイラはまだ知らない。
ただ。
その静けさの中で――
初めて、
力を抜いて目を閉じた。




