妖王、姫のビンタに恍惚とする
執務室。
机の上には、
未処理の書類が山のように積まれていた。
レイラは黙々と筆を走らせる。
すぐに終わらせなければならない案件は多い。
しかも今日は、
テュエルが兵士達の剣術指南へ出ている。
つまり。
補佐兼、護衛兼、“止め役”が居ない。
静かな室内に、
紙をめくる音だけが響いていた――その時。
――パァァァン!!
突然、
執務室の扉が勢いよく開かれた。
レイラ
「……っ」
書類へ視線を落としていた肩が、
びくりと揺れる。
静寂だった室内へ、
柔らかな春風が吹き込んだ。
まだ花の咲かない中庭の香りを乗せて。
ゆっくり顔を上げれば。
案の定。
そこには、
当然のような顔で立つ妖王の姿。
シャガル
「レイラ」
レイラ
「今日は無理だ」
即答だった。
シャガルが口を開くより先に、
ぴしゃりと言い切る。
「皇務が溜まっている。
今日中に進めたい」
シャガル
「行くぞ、レイラ」
レイラ
「行かないと言っている」
シャガル
「ダメだ」
レイラ
「“ダメだ”はダメだ」
シャガル
「ははは!」
実に楽しそうだ。
レイラはようやく顔を上げ、
じろりと睨みつけた。
「今日は行かないと言っているだろう」
「帰れ」
シャガル
「断る」
即答。
そして。
す、とシャガルが一歩近づく。
レイラ
「…………!」
ぴくり、と肩が揺れた。
近い。
それだけで、
妙に調子が狂う。
レイラは誤魔化すように椅子を引き、
わずかに距離を取った。
同時に、
じり……と両手を広げる。
牽制するように。
完全に警戒態勢だった。
今日は絶対に担がれてたまるか――
……それだけではない。
これ以上近づかれると、
どうにも落ち着かないのだ。
シャガルはそれを見て、
むしろ楽しそうに口角を吊り上げた。
「……ほぉ?」
面白そうに目を細める。
「随分と警戒するではないか」
レイラ
「誰のせいだ」
シャガル
「ふっ」
そして、
わざとらしく肩をすくめた。
「……お前の大好きな爺が」
レイラ
「?」
シャガル
「ヤマメの天麩羅を食いたいと言っていたのに」
レイラ
「……!」
ぴく。
分かりやすく反応した。
シャガル
(掛かったな)
シャガルの口角が、
深く吊り上がる。
「渓流なら、
今がちょうど良い頃合いだ」
レイラ
「……だが、
今は……。」
シャガル
「ふん。
爺は残念がるだろうな」
レイラ
「…………っ」
わずかに、表情が揺れた。
シャガル
「“レイラの釣った魚が食いたい”と言っていたのだが」
レイラ
「……そんなことは言っていないだろう」
シャガル
「どうだかな」
レイラ
「…………」
だが。
ほんの少しだけ、
警戒が緩んだ。
その瞬間だった。
シャガル
「――隙ありだ」
レイラ
「っ、な――」
ぐいっ。
視界が揺れる。
気づけば、
身体が軽々と抱き上げられていた。
レイラ
「シャガル!!」
シャガル
「行くぞ」
レイラ
「お、降ろせ!!」
シャガル
「嫌だ」
レイラ
「嫌じゃない!!」
抱え上げられたまま、
レイラはじたばたと暴れる。
だがその顔は、
どこか焦ったように赤い。
執務室の扉が開かれる。
廊下には、
騒ぎを聞きつけた文官や兵士達の姿があった。
その視線が一斉に集まり――
レイラ
「っ……!!」
耳まで赤くなる。
「み、見るな!!」
シャガル
「ははは!」
実に楽しそうだ。
レイラ
「笑うな!!
降ろせ!!」
シャガル
「断る」
周囲の者達は、
止めることもできず、
ただ静かに道を開けていく。
その中を、
妖王は堂々と歩いていった。
まるで、
攫った獲物を見せびらかす獣のように。
レイラ
「シャガル!!」
春の風が吹き抜ける回廊に、
姫の抗議だけが響く。
そしてそのまま、
二人の姿は城の外へ消えていった。
執務机の上には、
取り残された大量の書類。
ひらり、と紙が揺れる。
――今日の皇務は、
もう戻ってこない気がした。
――――――――
なんだかんだで。
結局レイラは、
シャガルに連れ出される形で城を出ることになった。
春を迎え始めた山は、
まだどこか冬の名残を残している。
渓流の水は透き通り、
陽光を反射してきらきらと輝いていた。
せせらぎの音だけが静かに響く中。
レイラは岩場へ腰を下ろし、
慣れた手つきで釣り糸を垂らしていた。
その隣では、
シャガルが不機嫌そうに釣り竿を揺らしている。
ちゃこ。
ちゃこちゃこ。
落ち着きがない。
レイラ
「……それでは釣れない」
シャガル
「なぜだ」
レイラ
「揺らしすぎだ」
シャガル
「動かした方が食いつくだろう」
レイラ
「逃げる」
即答だった。
シャガル
「魚風情が生意気だな」
レイラ
「相手は魚だからな」
呆れた声が、
渓流へ静かに落ちた。
だが。
少しだけ口元が緩んでいた。
隣に座るシャガルとの距離は近い。
肩が触れそうで、
触れない。
少し動けば、
腕が当たりそうなほど。
なのに。
本人はまるで意識していない。
シャガルは頬杖をついたまま、
落ち着きなく釣り竿をちゃこちゃこと揺らし続けていた。
本人は真剣そのものだ。
その横顔を、
レイラはちらりと盗み見た。
白銀の髪が、
春の光を受けて淡く輝いている。
水面から跳ね返る光が、
紅い瞳へ揺らめいて映り込んでいた。
不思議と、
目を逸らし難い。
レイラ
(……綺麗だな)
思った瞬間。
レイラ
(……いや、何を考えているんだ私は)
慌てて視線を戻す。
だが。
隣に居る熱が、
妙に落ち着かなかった。
離れたい。
……なのに、
離れたくない。
そんな矛盾した感覚に、
レイラは小さく眉を寄せる。
シャガル
「……む」
レイラ
「?」
シャガル
「釣れん」
レイラ
「知っている」
シャガル
「何故だ」
レイラ
「だから落ち着きがな――」
シャガル
「もうよい」
レイラ
「……え?」
シャガルは、
レイラ専属の証である外套だけを丁寧に岩場へ置く。
そして次の瞬間。
――ざばん!!
豪快な水音を立て、
川へ飛び込んだ。
レイラ
「なっ……!?」
水飛沫が跳ね、
レイラの頬へかかった。
シャガル
「ふはは!!」
レイラ
「何をしている!?」
シャガルはそのまま川の中を進み、
勢いよく腕を振り下ろした。
ばしゃっ!!
次の瞬間。
その手には、
暴れる魚が握られている。
シャガル
「捕まえたぞ」
実に誇らしげだった。
レイラ
「……まったく、お前は……」
呆れた声。
だが。
その表情は、
どこか穏やかに緩んでいた。
シャガルは岸へ戻ると、
当然のように濡れた上衣へ手をかけた。
レイラ
「……?」
するり、と布が落ちる。
露わになった、
鍛え上げられた上半身。
濡れた肌を、
水滴がゆっくり伝い落ちていく。
だが。
レイラの視線を奪ったのは、
それだけではなかった。
シャガルは、
鬱陶しそうに濡れた三つ編みへ触れる。
そして。
するり、と髪紐を解いた。
白銀の長髪が、
一気に肩へ流れ落ちる。
春の陽光を受け、
濡れた髪が淡く煌めいた。
そのまま、
シャガルは前髪を掻き上げる。
滴った雫が、
首筋を滑り、
鎖骨を伝って落ちた。
紅い瞳が、
ゆっくりレイラを見下ろす。
レイラ
「…………」
思考が止まる。
(な……)
(なんだ、その……)
胸の奥が、
どくん、と大きく跳ねた。
分かっていた。
シャガルは、
体格の良い男だ。
だが。
こうして真正面から見せつけられると、
妙に心臓に悪い。
しかも、
本人は無自覚なのだから質が悪い。
分かってはいた。
分かってはいたが。
近くで見ると、
破壊力がおかしい。
シャガル
「どうした」
レイラ
「……っ」
びく。
慌てて視線を逸らす。
だが、
耳まで赤い。
シャガルは数秒黙ったあと。
ふ、と口角を上げた。
「……照れておるのか?」
レイラ
「っ違う!!」
即答だった。
シャガル
「ならばどうした?」
シャガルは不思議そうに首を傾げた。
レイラ
「………」
そして。
シャガルは、
レイラの手首を掴むと、
そのままぐい、と引き寄せた。
どん。
体が、
そのまま胸へぶつかる。
レイラ
「なっ……!」
硬い感触。
濡れた肌。
近すぎる熱。
(ち、近い……!)
思わず息が止まる。
(……ふ、触れている)
シャガルの裸の胸板へ、
自分の手が押し付けられている。
鍛えられた体は、
想像以上に熱く、
硬かった。
(分かってはいたが……
たくましい体つきをしているんだな……)
滴る水滴が、
ゆっくり肌を滑り落ちていく。
濡れた白銀の髪越しに覗く紅い瞳が、
じっとこちらを見下ろしていた。
心臓が、
やけにうるさい。
シャガル
「……ほぉ?」
口角が上がる。
「随分、
可愛らしい顔をするではないか」
レイラ
「っ……!」
シャガル
「……ふ」
「やはり……
照れてるのか?」
レイラ
「っ、ち、違――」
シャガル
「顔が赤いぞ」
レイラ
「う、うるさい……!」
シャガルは愉快そうに笑い、
さらに顔を寄せた。
レイラ
「近い!!」
シャガル
「何だ。
嫌ではないだろう?」
レイラ
「~~~~っ!!////」
限界寸前だった。
だが。
シャガルは、
まだ追撃をやめない。
「ふん。
見物料でももらうか」
レイラ
「……へ?」
シャガル
「口付けでもよいぞ」
レイラ
「な……っ」
言葉が詰まる。
耳まで一気に赤く染まった。
シャガルは、
そんな反応すら愉快でたまらないらしい。
「なんだ。
余を散々見つめるくせに」
「何もくれないのか?」
レイラ
「み、見てない!!」
シャガル
「見ている」
にやり、と口角が吊り上がる。
「……特に、この辺りをな?」
そう言って、
自らの胸元を指先で軽く叩いた。
レイラ
「~~~~っ!!!!////」
頭が真っ白になる。
見ていた。
確かに見てしまった。
だが、
それを本人に指摘されるなど――
羞恥で、
心臓が爆発しそうだった。
シャガルは楽しそうに笑いながら、
さらに顔を寄せてくる。
「どうした」
「余の体が、
そんなに気になるか?」
レイラ
「~~~~っ!!」
限界だった。
――パァン!!
乾いた音が、
渓流へ鋭く響き渡る。
シャガルの顔が、
綺麗に横へ向いた。
一瞬、
川のせせらぎだけが残る。
そして。
シャガル
「…………」
ゆっくりと、
レイラへ顔を戻す。
頬には、
くっきり赤い手形。
熱くなっていた思考が、
すぅ……と少し冷えた。
(あ……)
(つい…叩いてしまった……。)
(……怒る、だろうか)
だが。
その口元は。
にやぁ……と、
満足げに吊り上がっていた。
レイラ
「な、なんでそんな顔をしている!?」
シャガル
「ふ……」
妙に恍惚とした表情で、
自分の頬へ触れる。
「……悪くない」
「見事な一撃だった」
レイラ
「――っ!!」
羞恥で、
頭が真っ白になる。
だが。
ぱち、と視線が、
シャガルの頬へ向く。
赤い。
思ったより、
しっかり跡が残っていた。
レイラ
「…………」
指先が、
ぴくりと揺れる。
(やりすぎたかもしれない……)
勢いだった。
近い距離も。
触れられたことも。
あんな風に笑われたことも。
全部、
心臓に悪かった。
だが、
だからといって。
レイラ
「……その」
ふい、と視線を逸らす。
「お前が……
変なことを言うからだ」
ほんの少しだけ、
声が小さい。
シャガルは、
満足げに目を細めた。
そして。
「良い」
レイラ
「……え?」
「実に良い」
レイラ
「な、何がだ!」
シャガルは、
頬へ残った赤い手形を指先でなぞりながら、
愉快そうに笑う。
「その顔だ」
「余を、
男として意識している顔だ」
レイラ
「――っ!!」
一気に熱が噴き上がる。
否定したい。
だが、
言葉にならない。
シャガルは、
そんな反応すら愛おしそうに目を細めた。
「照れたか」
レイラ
「違う!!」
即答だった。
真っ赤なまま。
シャガル
「ははは!」
「やはり、可愛いな」
レイラ
「――っ!」
シャガルは
心底愉快そうに笑ったあと。
川辺へ転がしていた籠を持ち上げた。
中では、
銀色の魚が跳ねている。
シャガル
「よし」
「魚を焼くぞ」
レイラ
「……今食べたら、
爺の分が無くなるぞ」
シャガル
「なに、
これくらいあれば十分だろう」
そう言って、
得意げに籠の中を見せる。
レイラ
「……随分、捕ったな」
シャガル
「ふん。
爺の天麩羅分くらいは必要だろう」
レイラ
「……本当に持って行くつもりだったんだな」
シャガル
「当たり前だ」
当然のように言い切る。
レイラは少しだけ目を瞬いた。
てっきり、
連れ出すための口実だと思っていた。
……いや、
実際そうだったのだろうが。
それでも。
ちゃんと覚えていたらしい。
レイラ
「…………」
なんとなく、
さっきまでの怒りが続かなくなる。
シャガルはそんなことに気づきもせず、
さっさと火を起こし始めていた。
白髪が、
柔らかな午後の日差しを受けて淡く煌めく。
濡れてほどかれた白銀の髪が、
さらり、と肩を滑り落ちる。
紅い瞳には、
揺れる火の光と水面の反射が滲んでいる。
その横顔を、
レイラはぼんやり見つめた。
シャガル
「どうした」
レイラ
「……別に」
慌てて視線を逸らす。
シャガルは、
ふっと笑った。
「お前は、
本当に顔に出るな」
レイラ
「出ていない」
シャガル
「出ている」
即答だった。
レイラ
「…………」
少しだけ悔しい。
だが、
反論する気力も薄れていた。
しばらくして。
焼けた魚の香ばしい匂いが、
渓流へ広がる。
春先の風はまだ少し冷たい。
だが、
火のそばは不思議と心地良かった。
レイラは岩へ腰掛けたまま、
ふぅ……と小さく息を吐く。
川の音。
揺れる火。
頬を撫でる風。
気づけば、
随分長いこと外で過ごしていた。
釣りなど、
最初は付き合う気などなかったのに。
気づけば夢中になって。
魚を捕まえて。
言い争って。
……叩いてしまって。
あんな勢いで、
手を上げるつもりではなかった。
レイラ
「…………」
思い出した瞬間、
じわりと顔が熱くなる。
だが。
不思議と嫌な疲れではなかった。
皇務を終えた時のような重さではなく。
胸の奥に、
妙な満足感だけが残っている。
シャガルは、
そんなレイラを横目で見ながら、
静かに隣へ腰を下ろした。
珍しく、
からかいはない。
渓流のせせらぎだけが、
穏やかに耳へ流れる。
そして。
シャガル
「……疲れたか?」
レイラ
「……別に」
反射的に答える。
だが、
少し気の抜けた声になった。
シャガルは追及しない。
ただ、
穏やかに言った。
「休め」
低く、
落ち着いた声。
「余がそばにおる」
レイラ
「…………」
その瞬間だけ。
胸の奥が、
すとん、と静かになった。




