【未来編】世界最強の妖王ですが、妻の前ではなぜか柴犬になります
余はシャガル。
かつては――酒呑童子と呼ばれた。
妖の王である。
だが。
余の一日は――気の向くままに過ごす。
寝たいだけ寝て、起きたい時に起きる。
そして。
(……レイラ)
今日もまた、余の妻の元へ向かう。
⸻
朝。
戸を開けると、すでにレイラは机に向かっていた。
筆を走らせ、書類に目を通し、淡々と仕事をこなしている。
「……来たか」
「おはよう」
顔も上げずに言う。
「ああ」
「おはよう」
そのまま、隣に立つ。
「……邪魔だぞ」
「そうか?」
「そうだ」
だが、動かない。
沈黙。
視線だけが、わずかに後ろへ流れる。
――その瞬間。
「朝餉でございます」
控えていた者が、すでに準備を終えていたかのような手際で膳を運び込む。
一切の確認も、指示もない。
ただ、“いつものこと”として。
余はそれを受け取り、レイラのすぐ横で食べ始めた。
当然のように。
「……相変わらず邪魔だな」
後ろから、淡々とした声。
「レイラ様の気が散る」
「せめて食堂で食ってこい」
「嫌だ」
即答。
「なぜだ」
レイラが、筆を止めずに問う。
「顔が見える」
「……そうか」
一拍。
「なら、せめてもう少し離れて食え」
テュエルが静かに言う。
「視界に入る距離で十分だろう」
「嫌だ」
即答。
テュエルのこめかみに、ぴくりと青筋が浮かぶ。
(……犬か、こいつは)
やがて。
椀が空になる。
ふと、隣へ視線を落とす。
変わらず、筆を走らせている。
(……)
一瞬だけ、目を細める。
満足したように、息をついた。
何も言わず、そのまま踵を返す。
しばらくして、外へ出る。
――――
庭の木に背を預け、枝の上に腰を下ろす。
ちょうど、執務室の窓が見える位置。
風が揺れる。
視線の先――窓越しに、かすかに動く影。
(……忙しいものだな)
目を細める。
しばらく、そのまま眺めて。
やがて、目を閉じる。
――だが、落ち切らない。
意識が沈みかけた瞬間、
(……レイラ)
引っ張られるように、視線だけが戻る。
窓の方へ。
そこに“何かがあるわけではない”。
それでも、離れられない。
(……戻るか)
――そう思った次の瞬間には、もう体は動いていた。
枝を蹴る。
風を切って、地へ降りる。
音はない。
ただ当然のように、足が執務室へ向かう。
⸻
どれほど経ったか。
気づけば、また同じ枝の上にいた。
ふと目を開ける。
(……レイラ)
なんとなく、気配を辿る。
まだ、あの場所にいる。
(……まだ終わらぬのか)
再び、執務室へ向かう。
「……まだか」
「まだだ」
即答だった。
「…………」
「……まだ終わらない」
「……そうか」
わずかに考え込む気配。
「……ならば」
「昼餉だ」
「…は?」
顔を上げる。
「…まだ途中だと言っている」
「関係ない」
「ある」
「ない」
「……本当に、聞き分けがありませんね」
(……毎回これだ)
呆れを滲ませて、テュエルは続ける。
「それに、お前はつい先ほど食べたばかりでしょう」
「腹は減った」
「寝ていただけでは?」
「生きていれば腹は減る」
「……非効率にも程がありますね」
沈黙が落ちる。
「……来い」
シャガルが短く言い、腕を掴む。
「…ちょっと待て!」
レイラが顔をしかめる。
「待たぬ」
そのまま引き寄せる。
「おい、貴様――」
低く制したのはテュエルだ。
「うるさい行くぞ」
シャガルは振り返りもせず言い放つ。
テュエルは小さくため息をついた。
――――
――昼餉。
三人で囲む膳。
「……まだ終わっていないのだが」
「終わりだ」
「余が決めた」
「そういう問題では――」
「そういう問題だ」
レイラが小さくため息をつく。
「……少しだけだぞ」
「最初からそう言っている」
「言っていない」
「言った」
テュエルが笑う。
「まぁ、少し休憩しましょう?」
「レイラ様は頑張りすぎです」
「はぁ……」
レイラは渋々箸を取った。
――――
その後。
当然のように、レイラは仕事へ戻る。
「……」
(……またか)
視線だけを向ける。
集中している。
声をかけても無駄だ。
(……つまらん)
外へ出る。
皇族専用の庭の奥。
大岩の上に寝転がる。
腕を枕にして、空を見る。
(……余を放っておくとはな)
目を閉じる。
⸻
再び目を覚ます。
日が少し傾いている。
(……レイラ)
ふと、恋しくなる。
理由はない。
ただ、顔が見たい。
立ち上がる。
戻る。
⸻
戸を開ける。
まだそこにいる。
変わらず、机に向かっている。
(……まだか)
ぷつり、と何かが切れた。
「……茶をするぞ」
「今は無理だ」
「無理ではない」
「無理だ」
「無理ではない」
「無理だと言っている」
「無理ではない」
「……」
沈黙。
「……テュエル」
呼ばれて、わずかに目を細める。
そして――
「……はぁ……」
一つ、長く息を吐いた。
「……シャガル、いい加減に――」
「うるさい、茶だ」
被せるように言い切る。
そのまま、腕を取る。
「…ちょっと待て……!」
「待たぬ」
「だから――」
そのまま引く。
一瞬だけ、レイラの足が止まる。
「……」
言葉が、喉の奥で消える。
視線だけがわずかに揺れた。
何かを言おうとして――結局、何も出てこない。
「余は十分待った。」
「……少し休め」
引かれた腕に、わずかに力が入る。
――だが。
それは抵抗というより、反射だった。
次の瞬間にはもう、指先から力が抜けている。
「……はぁ」
小さく息がこぼれる。
そのまま、引かれるままに歩き出した。
⸻
庭。
茶が用意される。
湯気が静かに立ちのぼる。
レイラは小さく息を吐いた。
「……強引すぎる」
「知っている」
「自覚があったのか」
「ああ」
どこか満足げに、頷く。
そのまま、茶を口に運ぶ。
「……疲れている顔だ」
「……そんなことはない」
「余の前では隠すな」
一瞬、沈黙。
レイラは視線を落としたまま、短く答える。
「……隠していない」
「……そういうことにしてやる」
ふん、と小さく鼻を鳴らす。
それ以上は、何も言わない。
――代わりに。
す、と距離を詰める。
肩に額を預けるようにして、軽く擦り寄った。
「……どうした」
「別に」
そのまま、もう一度。
すり、と小さく擦れる。
腕が伸びる。
腰に回る。
「……近い」
「知っている」
当然のように、引き寄せる。
びく、と肩がわずかに揺れた。
「……やめろ……見られる」
声は小さい。
だが、腕を払うことはしない。
ほんの一瞬、抵抗しかけて――止まる。
「余は構わん」
「……お前は、だろう……」
小さく息を吐く。
困ったように、わずかに眉を寄せて――
そのまま、力を抜いた。
完全に拒むでもなく、
ただ、受け入れるように。
視線が泳ぐ。
落ち着かないまま、茶に手を伸ばすが――
指先が、かすかに震えた。
「……はぁ」
その吐息は、どこか諦めに似ていた。
相変わらず、向かいの席は空いたまま。
なぜか三人とも、同じ側に並んで座っている。
中央にレイラ。
その両隣に、余とテュエル。
テュエルは静かに茶を口に運びながら――ちらりとこちらを見た。
(……近いぞ、ふざけんな)
(俺の前で堂々と腰に腕回すな)
(というか、なぜ毎回こちら側に寄る)
(向かい、空いているだろうが)
――なお、テュエルも動く気はない。
(……あとで覚えてろ)
視線を戻し、何事もなかったかのように茶を飲む。
⸻
夕方。
湯殿。
そして夕餉。
言葉は少ない。
一日が、静かに終わりへ沈んでいく。
⸻
夜。
「レイラ」
「……なんだ」
返事はいつも通りだ。
淡々としている。
「今日は余と過ごせ」
レイラが口を開くより早く、
「ダメだ」
それだけが落ちる。
即答。
迷いも間もない。
その言葉の前に、すでに結論は出ている。
「……なんでだ」
「今日はダメだ」
「……意味がわからない」
「余もだ」
理屈はない。
ただ、そう決まっている。
否定は最初から成立していない。
シャガルはレイラの腕を取った。
一瞬だけ、体が反応する。
だが、それ以上の“選択”にはならない。
「……おい」
呼びかけは途中で消える。
次の瞬間。
視界が揺れる。
気づいたときには、もう地面は遠かった。
「……っ」
抵抗しようとする間もなく、
当然のように、姫抱きの形になる。
「よい」
「今夜は余が決める」
それだけ言って、歩き出す。
足音は静かだ。
だが、止まる理由はどこにもない。
「……全く」
諦めというより、理解の放棄に近い声。
そのまま、腕の中で視線だけが逸れる。
⸻
シャガルの自室
灯りは控えめに落とされている。
寝台に二人で横になる。
言葉は、もういらなかった。
ただ、同じ空気の中にいる。
それだけで十分だった。
指が、自然と絡む。
引き寄せるでもなく、拒むでもなく。
そこにあるのが当然のように。
(……)
静かな時間。
その沈黙の中で、視線だけが動く。
⸻
「……なんだ…そんなに見て」
「眼福だ」
「………?」
「やはり、美しい」
「…な、なんだいきなり……」
わずかに視線を逸らす。
その瞬間、顎に指がかかる。
逃がさない、というより
ただ“戻される”ように。
「逸らすな」
「余を見ろ」
「……っ」
⸻
逃げようとした手を、そのまま捕まえ、
もう一度、距離が詰まる。
言葉は少なくなる。
代わりに、呼吸だけが近くなる。
「……」
「……な、なんだ…?」
返事はない。
ただ、見ている。
そして――
⸻
ぽすっ、と小さく音が落ちた。
胸元に、重みが乗る。
抱きつくというより、落ち着くように。
そこに収まるように。
「シャ、シャガル…?」
(……いかん)
(余の女は……)
(本当に)
(……美しい)
呼吸が、一瞬だけ止まる。
わずかに視線を逸らし、表情を整える。
「……今日一日、余を放置した罰だ」
声は低く、どこか満足していた。
「きっちりと、取り立てる」
不敵な笑みとともに、
そのまま逃がさず抱き寄せる。
「……なっ……!」
抵抗は一瞬だけで、
すぐに力は抜けていった。
⸻
――その後は、語られなかった。
⸻
朝。
ふと目が覚める。
隣に、レイラがいる。
静かな寝息。
乱れた髪。
わずかに開いた口。
しばらく、黙って見つめる。
「……ふん」
小さく息を吐く。
指先で、そっと髪に触れる。
起こさぬように。
「……余の妻だ」
誰に向けるでもない言葉が、静かに落ちる。
それは宣言というより、確認だった。
もう、疑う余地のない事実として。




