第70話:残り火に祈りを
「ミレリスの人に、殺された」
夜風が吹いた。
ランタンの光が一つ、遠くで揺れて、闇の中へ溶けていく。
あれだけ星の数ほどあった灯りが今は数を減らし、ベランダの唯一の照明は室内から伸びたランプひとつ。
言葉が、遅れて落ちてくる。
頭に入ってきた言葉を処理するのに時間がかかった。
口からでた声は自分の想定していたより一段低い。
「…だから、オーダーに入ったのか」
わずかな沈黙。
ロビンは、ゆっくりとこちらを見た。
その動きに無駄はなく、ただ視線だけが真っ直ぐに刺さる。
「オーダー育成プログラムなんて、大層な名前してるけど」
淡々とした声音。
「いい制度だよね。地下でくたばるしかなかったガキが、地上に出られる。力も、身分も、金も──全部揃う」
「……ロビン?」
呼びかけても、返ってくる気配はない。
「ミレリスに近づく理由としては、十分」
その目は、笑っていなかった。
任命式で見た、あの視線。
獲物を値踏みする猛禽のような、冷え切った光。
逸らせない。
視線が絡んだまま、空気だけが冷えていく。
「あんたみたいなのと組まされたのも、都合がよかった。……いくらなんでも、Voidのやつを招き入れるなんて不用心すぎるけど」
次の瞬間、胸ぐらを掴まれた。
布が強く引かれ、視界がぶれる。
ぐっと引き寄せられ、踵がわずかに地を離れた。
「……ッ」
「そういえば、あんたってミレリス出身だったよね」
指先に、力がこもる。
逃げ場はない。
空気が、張り詰める。
「なら、──あんたが一人目」
その言葉と同時に、重力が歪んだ。
床に押しつけられる感覚と、逆に引き剥がされるような違和感が同時に走る。
ほんのわずかでも力が増せば、身体ごと叩きつけられる距離。
けれど──
オーティスは動かなかった。
抵抗もせず、ただ正面からロビンを見ている。
その沈黙の中で、何かを確かめるように。
「……復讐するやつが」
一歩、踏み込む。
その手首を掴んだ。
「そんな顔するわけないだろ」
ぴたり、と動きが止まる。
ロビンの目が、見開かれる。
ほんの一瞬だけ、仮面がずれたように。
「……」
力が抜ける。
指先から、重力から、視線から。
張り詰めていたものが、するりとほどけていく。
小さく、息が漏れた。
構えも何もかも崩して、肩を落とす。
「冗談」
ぱっと手が離れる。
さっきまでの圧が嘘みたいに、軽い。
「でも忠告は本当。あんたは人を信じすぎ」
夜風が、もう一度吹く。
ランタンの光が、二人のあいだをかすめていった。
「それで……犯人はどうなったんだ。ちゃんと捕まったのか」
「………事故だった。地上にでたときに、頭を撃たれて」
「そう、か」
何も言えなかった。
ロビンの横顔はもう笑っていない。けれど泣いてもいない。
ただ、あまりにも静かで、その静けさがかえって胸を締めつけた。
「ディルが…オーダーになってたら」
ロビンがぽつりと続ける。
「きっと今みたいになってない。地上の人たちも味方につけてたと思うし、アタシよりよっぽどオーダーに向いてた。Voidも明るい所になってたかもしれないし、オーダーになりたいって奴がいるなら、もっと受け入れてくれるようにできたかもしれない」
スノーグローブを握る指先に、わずかに力が入る。
ガラスに反射する表情が視界の隅に入る。
目尻が、少し赤く滲んでいるように見えた。
「でも、アタシは……何も…、できそうにない」
「あの任命式に立ったとき、石を投げる奴らを見て、なんのためにオーダーになったのか分かんなくなった」
「Voidのためなのか、復讐のためなのか。アタシは結局どっちつかずにここにいる」
いつの間にか、仮面は地面に置かれていた。
冗談のために被ったはずのそれを、今はもう必要ないとでもいうように。
「何言ってる。お前は俺を変えただろ」
手すりからは手を離し、真正面から言葉を繋いでいく。
いつもの少し抜けた空気ではなく、芯の通った表情が浮かび上がった。
「先輩のことで塞いでた俺を引き上げたのは、お前だ。あのままだったら、俺はオーダーを続けてても、心はとっくに砕けてた」
ロビンの瞳が、はっきりと見開かれる。
金色の奥が揺れて、瞬きの回数が多くなる。
「それを、お前が変えたんだ」
彼女の喉が小さく上下する。
何かを言い返そうとして、でも言葉にならないまま止まった。
「そのディルってやつ、ボスだったんだろ?」
「……うん」
「最初は一人でも、仲間を増やしてみんなでやり遂げてたんじゃないか? なら、お前も同じだ」
その目には、確信だけがあった。
少しだけ口元を緩める。
「俺がお前の仲間の一人目になる」
「…仲間?」
「俺には、お前が復讐をしたくてオーダーになったとは思えない。俺だって4か月もの間、お前を見てきたんだ。ほぼ毎日だぞ?」
「……………たった4か月で人となりなんてわかりっこない」
「わかる」
彼は堂々と断言した。
よほど自身があるらしく、腰に手をあてて。
「まあ……かと言ってだな。さっそくVoidを何とかしたいとこだが、まずは……食堂からにしよう」
「…食堂?」
彼女は背を丸めた。
次にはもう困惑も、哀しそうな表情も奥へ引っ込んでいた。
「ぷはっ…あはは…ふふ…」
笑いながら、目尻にうっすら滲んだものが光る。
「……っ、はぁ……やっぱり、あんたはイカれてる」
「そうか? こういうのは順序があるだろ? ラスボスは最後に取っておくもんだ」
「食堂ってことは、ラインナップから変えんの」
「ああ。肉を増やしてもらいたい」
ロビンは堪えきれず、もう一度笑う。
「バカなやつ」
そう言った彼女の声は、今まで聞いた中でずっと柔らかかった。
ロビンの声が夜気に溶けたあとも、二人のあいだには不思議と気まずさは残らなかった。
むしろ、張りつめていたものが少しだけほどけて、ベランダを渡る風まで柔らかくなったように思えた。
空を見上げれば、さっきまでいくつも浮かんでいたランタンがほとんど消えていた。
星帯の向こうへ吸い込まれていく光は、願いを運ぶというより、誰かの記憶をそっと空へ返していくようにも見えた。
彼女の手に包まれていたスノーグローブは、いつの間にかガーデンテーブルに置かれて、そのガラスの表面に星を映してる。
「……ごめん」
「ん?」
「ランタン。あんた飛ばし損ねたんじゃないの? さっきもアタシ…態度悪かったかもしれないし、クララには明日謝る」
ランタンを拒んで、せっかくの年越しの空気を壊してしまったこと。
そして、それでもここまで追いかけてきてくれたこと。
言葉には、その全部が滲む。
「いいよ。クララが気にしてると思うか? 今頃TEMISと占いでもしてるだろ」
下の階に目をやるように顎をしゃくる。
短いやり取りなのに、胸の奥にじんわりと温度が残る気がした。
しばらくの沈黙。
遠くで新年を告げる都市灯の色がゆっくりと切り替わり、ネクサリスの空が淡い群青から銀色へと表情を変えていく。
「それに、まだ間にあう」
置いたままだったドローンランタンを持ち上げた。
薄い膜の中で、まだ起動していない光源が静かに眠っている。
「年が変わるっていうのは、別に何かが急に変わるってことじゃない。日付が変わったからって、昨日の傷が消えるわけでもないし、明日もきっと同じように任務があって、面倒な報告書を書いて、食堂のメニューに文句を言う」
「最後のはあんたの都合でしょ」
思わず混ざったツッコミに、オーティスは小さく笑う。
「まあな。でも、そういうことだ。年越しのこの日は、今も昔も変わらず、生きてここまで来られたって確認する日なんだよ」
その言葉に、ロビンの指先がかすかに止まった。
「来年も隣にいてほしい人達を、ちゃんと大事にするためのな」
風が吹く。
願い。祈り。節目。
Voidで生きてきた彼女にとっては、どれも遠い言葉だ。
陽の届かない地下では日付なんて曖昧で、今日を生き延びることだけで精一杯だったあの頃に、そんな余白はなかった。
「生き延びたことを祝っていい夜なんだ」
ロビンの目がほんのわずかに揺れ、彼は真正面から続けた。
「ロビン、お前もみんなと同じだ。自分のために願うのが難しいなら、その親友のためでもいい」
――ディルのためでも。
その言葉の外の意味を、ロビンは確かに受け取った。
しばらく思考を噛み砕くように、彼女は何も言わなかった。
空へ昇る最後のランタンが、都市の灯りの向こうで小さな点になる。
やがて、小さく息を吐く。
彼女の視線が、分厚い手の中のランタンへ落ちた。
内側で眠る光は、まだ何も願いを乗せていない。
今はただの器だ。
「……じゃあ、やってみるか!」
そう言って、ランタンの起動パネルに親指を滑らせる。
ぴっ、と軽い電子音。
――のはずが。
「……あれ?」
ランタンはうんともすんとも言わない。
もう一度。
ピッ……沈黙。
「まさか、もう故障か?」
パネルを軽く叩いてみる。反応なし。
角度を変えて、底面のユニットを覗き込み、配線を確かめる。やっぱり動かない。
「……何してんの」
「見て分からないか。機械に嫌われてる」
「そこじゃなくて」
オーティスは少し焦ったようにランタンを抱え直す。
せっかくの機会。ここで締まらないのはあまりにも自分らしい。
だが、だからこそ今だけは、ちゃんと形にしたかった。
「こういう大事な時に限って動かないんだよな……」
ぼやいた声に、ロビンは数秒黙ったあと、ふっと肩を揺らした。
笑っている。
「あんたって、いつもこうなわけ?」
「方向音痴の次は機械音痴も加わるのか…?」
「方向音痴?」
彼女は手すりから背を離し、オーティスの方へ歩み寄った。
髪の先に霜が散って、ひと粒ひと粒が星屑みたいに瞬いて見える。
「貸して。ドローンがなくてもランタンは浮かばせられるでしょ」
その言葉と同時に、ランタンはひょいと取り上げられた。
「あ、おい!」
「見てて」
引き留める間もなく、彼女のつま先がふわりと床から浮いた。
重力を忘れたように軽やかに、夜のベランダから空へ踏み出す。
息を呑んだ。
この家はネクサリスでも高層区画に近く、窓の外はそのまま宇宙に手が届きそうな高さへと開けている。
星帯が遠くに瞬き、都市灯の海が眼下に広がる。
その境界線に立つように、彼女は宙に浮かんでいた。
星に、誰より近い。
彼女は片手でランタンを掲げる。
指先から零れた引力の波が、光の器をそっと包み込んだ。
起動しないはずのランタンが、彼女のNovaに反応するように淡く灯る。
柔らかな光が彼女の横顔を照らし、その輪郭を夜の中に浮かび上がらせた。
まるで、空そのものに選ばれたように見えた。
次の瞬間、ランタンは音もなく夜空へ放たれる。
ふわり。
昇っていく光は、ドローンの無機質な軌道よりもずっと自由でずっと優しい。
彼女の細い指先から離れた願いは、星々のあいだへ吸い込まれるように高く、高く昇っていく。
宇宙に近いこの場所で。
星空の只中に浮かぶのは、地下育ちの荒々しさでも、任務中の鋭さでもない。
「それで、あんたの願いは?」
不意打ちみたいな問いに、言葉を探した。
けれど、出てきたのは取り繕いのない本音。
「人類の平和ってとこだ」
「でっかい夢」
夜空に浮かんだまま、彼女は少しだけ目を細める。
「でも、あんたらしい」
「お前は、何を願ったんだ?」
問い返すと、ロビンは少しだけ黙った。
星を見上げるように視線を上げて、それからこちらへ振り返る。
風が髪をさらい、彼女の表情を一瞬だけ隠した。
「秘密」
空に消えていく一つの願い。
いたずらっぽく笑うその表情に、聞き返すことはしなかった。
願いの内容は、聞けなくていい。
ただ、この瞬間が何より大切だった。
その瞬間を切り取って写り込むガラス。
ベランダの小卓に置かれたままのスノーグローブ。
夜風に揺れたカーテンの影を受けて、かすかに濁る。
二人は、空を見上げたまま、その小さな揺らめきに気づくことはない。
ガラスの内側で灯った青は、誰にも知られないまま、静かに揺れていた。




