第71話:少女は感情をこぼす
「じゃあ、そろそろ行くよ。ばあちゃん」
「あら、朝食もご一緒したかったのに……もう行ってしまうの?」
「どうせまた来るし、その時でいいだろ。朝飯なんかいつでも――」
「あなたに言ってるんじゃないわ、ロビンさんに言ったの」
クララの穏やかな声にチクリと皮肉が混じる。
彼は慣れた様子で肩をすくめ、両腕と肩に抱えきれないほどの土産袋を手に玄関へ向かった。
その中にはクララからオーダー機関への差し入れと、生活リズム改善を狙った“おばあちゃんセレクト”の健康食材がぎっしり詰め込まれている。
どう見ても数日分の量ではない。
「たった三日だなんて寂しいわ。もっと居てくれてもいいのよ?」
「むしろ、長居しすぎたくらい…。車椅子を治してとか、食材の買い出しに付き合ってとか…アタシは大工じゃないし孫でもない。次はちゃんとした業者を呼んで」
「ふふ、ごめんなさい? 私ったらはしゃぎすぎたのねえ…」
玄関の外では、宇宙エレベーターまでの配送サービスで到着したドローンが待機している。
数台のドローンは、オーティスから荷物を受け取ると、がくんと重心を傾けたが、羽を回転させながら高度を取り戻し、マークした場所へ先回りして向かっていった。
背を伸ばす背中が見える。準備はもう終わったらしい。
追って、踵を返そうとしたその時――
「ロビンさん。貴女にこれをさしあげるわ」
「……アタシに?」
クララはゆっくりと、指にはめていたリングを外し、ロビンの手のひらにそっと載せた。
細やかな彫刻が施されたシルバーの指輪。
柔らかな丸と半円が連なり、中心には小粒ながら存在感のある石がひとつ、淡く光を宿していた。
「……! こんな高そうなの受け取れない」
押し返そうとするが、彼女はロビンの手のひらごと皺の刻まれた細い手で包み込んだ。
「これは市場で偶然見かけたものよ。それほど高価なものじゃないわ」
「それでもアクセサリーなんて興味ないし、アタシよりあんたの方が似合ってるから。いらないよ」
「そう言うと思ってたわ。でも、せめて……一度だけ着けて見せてくれないかしら?」
ゆっくりと、優しく目が細められる。
「娘がいたら渡してみたかったけれど、あの孫にこの指輪は似合わないでしょう?」
「………はぁ、もう。アタシもどうかしてる」
その目の柔らかさに観念したように唸り声を吐くと、小指に指輪を滑らせた。
「ほら、やっぱり似合わない。こういうの柄じゃ――」
言いかけた、その瞬間。
その小さな石が一瞬光った気がした。
遅れて、という違和感。
「……?」
指先に、ひやりとした感触が残る。
ぶかぶかだったはずのリングが、するりと縮んだ。
皮膚に吸い付くように、ぴたりと収まる。
「え……?」
引き抜こうするが、肌にくっついたように皮膚を引っ張るだけ。
抜けない。
力を込めても、びくともしない。
「ちょっと…外れな…いんだけど」
「残念ながらその指輪、一度でも指を通したら外れない仕様になっているの」
「く…ッそ……!」
「貴女って本当に素直で騙されやすいわねえ」
くすり、と上品に笑う。
その目は、どこか満足げに細められていた。
庭の向こうから声が飛ぶ。
「おーーーい! 宇宙エレベーターの搭乗、遅れるぞーー!」
「今行くから!!」
悔しげに歯を食いしばりながら、クララを睨む。
「次は騙されないから! 精々次の手口でも考えてて!!」
そう吐き捨てて踵を返すと、スロープを駆け降りていった。
陽差しの中、クララは一瞬だけ目を丸くし、それからふわりと微笑む。
「次は」と言ってくれた――それだけで、胸が少し温かくなる。
《クララ様、嬉しそうですね。TEMISはロビン様もオーティス様もいなくなってしまって寂しいです》
「ええ。私も同じ気持ちよ、TEMIS」
静かに閉まりゆく扉。
その隙間が完全に塞がる直前まで、クララは遠ざかる背中をじっと見つめていた。
庭に咲く花びらが、開いた窓からふわりと迷いこみ、カーテンを揺らす。
その風が運んできたのは、惜別の寂しさではなく――
少し先に続く、確かな未来だった。
✧✧✧
雨水が石畳を叩く。
ここではそう珍しい事ではない。
だがその日の雨は、どこか重かった。
街は薄暗く沈み、季節の変わり目を告げる雨が地面に白いもやを作る。
空は低く垂れ込もる雲が覆い、霧は沈んで街を隠していた。
一羽の鳥が傾斜の強い屋根に降り立ち、雨に濡れた羽を休ませる。
その下でもまた、湿度が光を濁らせ、輪郭を曖昧に滲ませていた。
煙る景色がぼやけては、色を奪う。
「………っ…」
その最奥で。
壁面のモニターがニュースへと切り替わる。
西区の重たい空気とは、まるで別の世界だ。
《――中央区芽吹町にて、犯罪Novactorによる暴走事案が発生しました。現地からの映像です》
画面が切り替わる。
舗装を焼き焦がした痕跡の上で、対象はすでに拘束されていた。展開された核晶武装の炎が収束し、抵抗の余地を与えないまま制圧が完了する。
周囲からは安堵の声と拍手。
整えられた“成功”の構図。
《今回の制圧において中心的役割を担ったのは、196期生――クイル》
フラッシュが瞬く。
呼び止められた青年が振り返り、フラッシュが彼の爽やかな笑顔を切り取った。
《なお、彼のバディであるオーダーは北区での任務中に負傷し、現在も療養中とのことです。これに伴い、クイル隊員は単独行動を余儀なくされる場面が増えています》
《一方で、市民からはその実力を評価する声が上がる一方――赤タグオーダーの家系に生まれた経歴もあり、“期待の新人”として注目が集まっているのも事実です》
画面の隅に、過去の資料映像が差し込まれる。
炎を自在に生み出す上位オーダーたちの記録。
《核晶武装を用いた戦闘スタイルについては、現場適応力として評価する声がある一方で、“補助装備への依存”を指摘する専門家もおり――》
コメンテーターの音声が一瞬だけ被るが、すぐにフェードアウトする。
《あの任命式から半年。Void育成プログラムを経たVorderたちが現場に立つ中で、その在り方を巡る議論は今も続いています。期待と懸念、その両方を背負う新世代。彼らがこの先、何を示していくのかが注目されます》
196期の中でも成績上位者で同期の方。
記憶にはあまりない、というか周りはほとんど見えていなかったんですもの。
それに比べて、わたくしは。
「……わたくし、が……?」
吐き出される声が、室内の空気をさらに重くする。
腹の底がむず痒く、掻きむしりたくなる衝動をやっとのことで押さえるも、それを嘲笑うかのように周囲の声が吹き返す。
怖い。
寂しい。
悔しい。
ぐちゃぐちゃに混ざって、形が分からない。
あの名前を呼びかけかけて――止めた。
答えは返ってこないと分かっていますの。
なん十通も何百通も送った言葉はどこでお休みしているんですの。
それとも、読んでも下さらないの。
届かない。
最初から、どこにも。
送ったはずの言葉も、
返ってくるはずだった声も、
なにも。
なにも。
「………」
雨の音が耳障りに響く。
もっと内側――頭の奥に、直接落ちてくるみたいに。
指先で、カチューシャに触れた。
感情の罅から、こぼれる。
押さえていたものが、全部。
空気が揺れ、感情が伝染する。
「……おしまいですわ」
止まらない。
止め方が、分からない。
ただ、胸の奥にあったものが、外に溢れているだけで。
ぎゅっと、膨らんだスカートを握りしめる。
皺ひとつなく、綺麗にアイロンがけされていたこだわり。
今では抑え込まれていた感情の線が深く刻まれて、指先が白く滲むだけ。
遠くから駆けてくる足音が聞こえてきてる。
逃げ場はどこにもないですものね。
ここまで頑張ってきましたのに。
ここまで追いかけてきましたのに。
喉が引き攣る。
雨音の向こうで、鈴のような声が落ちた。
「……わたくしが」
扉が開け放たれ、伸びてきた影に言葉を返す。
「――わたくしが、やりましたわ」
数拍遅れに少女の肩が震え、ゆっくりと首が持ち上がった。
血のように赤い瞳。
少女の背後――回廊の床には、幾つもの身体が折り重なるように倒れていた。
制服に身を包んだオーダーたち。
ある者は目を見開いたまま、乾いた笑いを漏らし続けている。
ある者は膝を抱え、子供のように身体を揺らしながら嗚咽を零す。
またある者は、虚空に向かって何かを訴え続け、指先で見えない“誰か”をなぞっていた。
規律も、統制も、そこにはない。
ただ、感情だけが剥き出しのまま、制御を失って溢れ続けている。
床に広がる水滴は、誰のものか分からない涙と混ざり合い、鈍く光を反射した。
その中心に、人形のような少女は立っている。
小さな背中は震えたまま、糸が切れたように一歩も動けず。
――止まらない。
誰にも。
もう、止められない。




