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AionioS  作者: 無日
第六章:白の果てで、手を取る

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第60話:夜明けを越えて

 天井は白く、見慣れない模様が淡く浮かんでいる。


 視界の端で、カーテンがかすかに揺れる。

 一瞬だけ風かと思ったが、耳を澄ませば規則的な空調の音が小さく響いていた。


 ゆっくりと瞬きをして、ようやく気づく。

 身体が妙に軽い。

 それなのに、頭だけが重たい。

 思考の輪郭が薄く霞み、記憶が霧の向こうで繋がりかけては途切れていく。


 ──昨日は。


 雪の丘から戻って、人気のない廊下を歩いて。

 病室の扉を開けた先で、ロビンのエネルギーが暴走していて。


「ロビン……っっ!!」


 反射的に、がばっと身体を起こした。

 掠れた声が喉を焼く。

 けれど背中には火が走ったように力が走り、半ば跳ね起きるように上体を起こす。


「なに?」


 あまりにも平坦で、いつも通りすぎる声が返ってきた。


 思考が一拍遅れる。


 ぎこちなく首を横へ向けると、ベッド脇の椅子にロビンが座っている。


 ブランケットを組んだ足に乗せ、片手には本。

 引力がページをぱらぱらとめくっている。

 まるで何事もなかったかのような横顔だった。


「おま……お前……っ」


 言葉が喉に引っかかる。

 安堵と困惑が一気に押し寄せ、息の吐き方さえ分からなくなった。


「本ってつまらない。文字が多いし、何言ってるかさっぱり。犯人は意外だったけど」


 彼女は興味を失ったように本をパタンと閉じ、そのまま棚へ戻した。

 再び椅子へ腰を下ろすと、サイドテーブルのバスケットへ手を伸ばす。

 赤く熟れたリンゴを1つ選び、しゃくり、と小気味いい音を立ててかじった。

 果汁の甘い香りがふわりと広がる。


「いる?」

「……っ」


 次の瞬間、何気ない動作でそれが投げられた。

 考えるより先に手が動き、反射的に受け止める。

 掌に残ったのは、ひんやりとした重み。

 つややかな皮の感触と、淡い果実の香り。


「さっさと食べたら」


 投げた本人はもう興味を失ったように、窓の外へ視線を向けていた。

 さっきまで夢の底に沈んでいた静寂が、どこか遠くへ吹き飛ばされていく。


「一応言っとくけど……あんたのせいじゃない」


 ロビンは窓の外の白い景色を見つめたまま、ぼそりと続ける。


「たまに熱を出すことがある。予兆で分かるから、いつもなら部屋に閉じこもるか、なんにも無い場所に隠れる。……でも今回は、あんたのNovaの副作用だと思ってて、熱っぽくても油断した。だから、あんたのせいじゃない」


 言い終えてから、彼女はゆっくりと振り返った。

 窓から差し込む淡い光が、その頬を柔らかく照らしている。


「倒れる直前に、あの杖の女に“放っとけば治る”って言ったけど。大慌てて出ていかれて」

「放っておけばって……お前、40度も熱出してたんだぞ」


 額に残る熱の記憶が蘇り、目を伏せる。

 ロビンは少しだけ目を細めて、ふっと息を漏らした。


「いつもなら5日はかかる。でも今回は2日もなかった。起きたときの疲労もないし、手足の震えもない。頭もちゃんと澄んでる…気がする」


 そう言って彼女はベッドの縁に腰を下ろした。

 一瞬だけ言葉を探すように視線を泳がせ、それからそっぽを向く。


「…だから、あんたのおかげってこと」


 不器用な横顔。

 言葉が、胸の奥へじんわりと染み込んで。

 凍りついていた何かが、少しずつほどけていく。


「………なんだよそれ」


 奪うためじゃない。

 守るために、この力を使えた。

 あのとき、誰かを救うために手を伸ばせた。

 それだけで、生まれてはじめて──

 自分はここにいていいのだと、そう思えた。


 次の瞬間には。

 身体が勝手に動いていた。

 反射みたいに手を伸ばし、肩をぐいと引き寄せる。


「わっ……!」


 不意を突かれた彼女の身体がぐらりと傾き、そのまま布団越しのオーティスの曲げた足へどさりと倒れ込んだ。


「ちょっと……! 人が真剣に話してやっ……」

「ありがとう」


 遮るように落ちたその一言に、口を閉じる。

 目の前にあったのは、いつになく柔らかな笑顔だったからだろう。

 張り詰めていたものがようやく溶けたような、安堵に満ちた表情。

 その顔を見た瞬間、ロビンはわずかに目を見開く。


「……馬鹿じゃないの」


 吐き捨てるように言いながらも、唇を尖らせ、機嫌が悪そうに窓の外へ顔を背ける。

 窓の外では、吹雪はもう止んでいた。

 白く積もった雪原に朝の淡い光が差し込み、静かな世界をやわらかく照らしている。


 あの長い夜は終わったのだと、そう告げるよう──


 ガラッ


「は~あ、ダニエルの次は子猫ちゃん、その次はオーティス……次は俺かな? いや、もしかしたらジョシュ……お前じゃん?」


 飄々とした声が静かな病室に転がり込む。

 けれど、飛び込んできたアミルの表情は、次の瞬間ぴたりと凍りついた。


 床には落ちたブランケット。


 ベッドの上には、ロビンを抱き寄せたままのオーティス。


 乱れたシーツ。


 朝の柔らかな空気を一瞬で吹き飛ばすには十分すぎる光景。


「……なに?」


 ロビンが間の抜けた声を漏らした、その瞬間。

 アミルが風みたいな速度で踏み込んだ。


「なっ──!?」


 あっという間にロビンの身体がオーティスの腕から引き剥がされる。

 身体をひょいと抱え上げ、そのまま部屋の隅の椅子へ移動。

 さらに床へ落ちていたブランケットを拾い上げると、ばさばさっと勢いよく広げた。

 次の瞬間には椅子ごと頭から足先までぐるぐる巻きに。


「……は!? なに…っすんの!!」


 布越しのくぐもった怒声と、椅子の上でもがく塊。

 そこへ少し遅れてジョシュが病室へ入ってきた。


「もう、何してるんですか」


 ジョシュは呆れ半分、慣れ半分の声で肩をすくめると、そのまま救出へ向かう。

 その一方で、残されたアミルとオーティスの間には別の沈黙が落ちていた。

 隅ではブランケットと格闘する塊が椅子ごとガタンガタンと揺れている。


「落ち着いてよ、ロビン。ちゃんと解くから暴れなくていいって」


 その騒がしさを背に、アミルはビシィッ! とオーティスへ指を突きつけた。


「誑かされたらダメ、子猫ちゃん!! こいつは“やれやれ、参ったな…女性は苦手なんですよね”って顔をしたケダモノだ!!」


「アミルさん、俺はただ感謝を伝えてただけで……」


「感謝を伝えるのにあんなに密着する必要ある!? ないね! 断じてない!!」


 勢いだけはすさまじい。

 だが説得力はかなり怪しかった。

 なにせ本人が普段から気軽に女性へハグしにいく側だからだ。

 ロビンを解きながらジョシュが淡々とツッコむ。


「アミル先輩だって、しょっちゅう女性に抱きついてるじゃないですか」

「あれは文化的なものだから問題ない」

「文化的……?」


 布の奥からロビンの怒声が炸裂する。


「早く出せ!! このトロピカル男!!!!」

「あ、ごめんじゃんごめんじゃん! すぐ解くって~! ていうか俺が南区生まれなこと覚えててくれたんだ? うれし~」


 アミルがへらりと振り返った、その直後。

 ブランケットから解放されたロビンの足が鋭く閃いた。


 ゴッ。


「いッ……!?」


 脛へ完璧に決まったローキックに、アミルがその場で悶絶する。

 ジョシュはようやく一息つき、ベッド脇の椅子へ腰を下ろした。

 病室に満ちる空気は、さっきまでの張り詰めた静寂が嘘みたいに柔らかい。

 その空気を吸い込みながら、彼はふっと笑った。


「ふっきれた?」

「え?」

「お前、訓練生の頃の顔に戻ってる。何にも縛られてなかった、あの頃の顔だよ。やっと肩の荷が下りたんじゃないか?」


 リンゴを手にしたまま、顔を上げる。

 一瞬だけ、言葉を失った。

 それから静かに笑い、手の中のリンゴをしゃくりと噛む。


「たぶんな」


 視線の先。

 ロビンが無言で片手を上げると、アミルの身体がふわりと浮かび上がった。

 くるくると回転を始める。


「ちょ、待っ──やめてぇぇぇ!! 目が回る! ほんとにごめんってばぁ!!」


 情けない悲鳴が病室いっぱいに響く。

 それを眺めながら、小さく息を吐いた。


「あいつのおかげだ」


 その横顔を見て、彼の親友は満足そうに口元を緩めた。


 窓の外では雪雲が薄れ、北区の白い景色に朝の光が滲み始めている。

 病室には、ようやく“いつもの日常”が戻ってきていた。




✧✧✧




 ヘリの大きなプロペラが、ゆっくりと回り始める。

 重たい羽音が北区オーダー機関の屋上に低く響き、静かな慌ただしさが広がっていった。


 つい数日前まで吹雪に閉ざされていた空は、まるで何事もなかったかのように澄み渡っている。

 雪雲はすっかり消え、どこまでも高い青が広がっていた。

 柔らかな陽光が屋上に立つ人々の影を長く伸ばす。

 その様子を見送るように、北区のオーダーたちが屋上へ集まった。


 白い杖の先が陽光を受けてきらりと光る。

 エレーナはいつもの柔らかな笑みを浮かべ、アリシア長官の隣で大きく手を振っていた。

 やがてアリシアが小さく咳払いをひとつ落とすと、冷たい風が吹き抜け、1つに括った髪を静かに揺らした。


「今年の新人オーダーには、曲者が多いようだな」

「そう?」

「北区にも何人か新人を配属したが、この厳しい寒さに音を上げてな。ほとんどが辞めてしまった」

「あんたが厳しすぎるだけでしょ。 顔は怖いし、喋り方も硬い」


 一瞬、周囲の空気がぴたりと止まりかける。

 だがアリシアは気分を害した様子もなく、むしろ上品に微笑んだ。


「失礼な感想だな」


 その視線がロビンをまっすぐ射抜く。


「君の訓練校時代の成績と、あの鋭い瞳を資料で見た時、ひと目で“北区に必要な人材”だと思ったのだよ」

「へえ、本部だけじゃなかったんだ。もの好きが多いんだね、ミレリスは」

「貴様のような人材は滅多にいない。今からでも、北区で私と一緒に働かないか?」


 ちょうどその時、ヘリのプロペラ音が一段と大きくなる。

 乗員たちが合図を送り、いよいよ出発準備が整ったらしい。


 その羽音を背に、ロビンは小さく笑った。


「悪いけど、寒いの嫌いだし。あんたにこき使われるのもごめん」


「そうか。ならまたいつか、気が変わったらここへ来るといい」


 その言葉に、ロビンは軽く鼻を鳴らしただけだった。

 荷物を肩へ引っ掛け、ヘリへ向かって歩き出す。

 陽光を背に受けたその表情は、北区へ来たばかりの頃よりずっと穏やかだった。

 肩から力が抜けたような、どこか柔らかな立ち姿。


 そのまま彼女はヘリへ乗り込む。

 窓際の席へ腰を下ろし、シートベルトを締めると、最後にもう一度だけ外を見た。

 エレーナが両手を大きく振っている。

 その隣でアリシアは変わらず真っ直ぐ立ち尽くし、飛び立つ機体を静かに見送っていた。


 やがて高度が上がるにつれ、その姿は少しずつ小さくなっていく。

 白い建物も、雪を残した遠い山並みも、北区で過ごした数日の記憶も、ひとつの景色として青空の下へ溶け込んでいった。


 北区の日常もまた、ひとつの物語として静かに幕を下ろす。


 曇りのない青空。


 飛び立つヘリを受け止めるように、北区の空にはただ光だけが広がっていた。


 その先に待つ次の任務も、次の出会いも、まだ誰も知らない。

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