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AionioS  作者: 無日
第六章:白の果てで、手を取る

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第59話:奪う手、救う手

 廊下を駆ける足音が、冷たいタイルに何度も跳ね返る。

 白い照明は十分すぎるほど明るいはずなのに、オーティスの視界にはどこか色を失った泥のように沈んで見えた。


 胸の奥であの記憶が脈打つたび、光さえも冷たく曇っていく。


 ──ロビンが熱を出した。


 その一言だけで、脳裏には過去の光景が鮮烈によみがえっていた。

 暴走したNova。奪ってしまった力。

 そして、自分の手の中に残った、取り返しのつかない感触。


「……っ……」


 息を吸うたび、肺の奥が焼けるように痛む。

 角をひとつ曲がった先、病棟の扉が視界に飛び込んだ瞬間、オーティスの足がわずかに止まった。


 胸の鼓動がうるさいほど早い。

 嫌な想像ばかりが先回りして、扉の向こうを見ることすら怖くなる。

 それでも、迷っている時間はない。

 逃げる方が、もっと怖かった。


 扉を押し開くと、室内には消毒液の匂いと、機械の低い電子音が満ちていた。

 白衣の医師が数人、ベッド脇で慌ただしく動いている。


 その中央に置かれたベッドの上──。


「……っ……はぁ、はぁ……ロビ……ロビンは……」


 呼吸すら整えられないまま歩み寄る。


 彼女の額には汗がびっしりと滲み、濡れた前髪が肌に張りついていた。

 頬を伝った汗は枕へ染み込み、小さな輪をいくつも広げている。


 浅く、苦しげな呼吸。

 熱にうなされ、眠りに沈められているというより、何かに囚われているようだ。


「……っおい」


 名を呼びながら伸ばしかけた手が途中で止まる。

 自分の指先がひどく白い。

 窓辺に張りつく薄氷みたいに、冷たく脆い。

 こんな手で触れれば、彼女まで壊してしまいそうで怖かった。


「……ロビン…?」


 名前を呼ぶ。反応は、ない。


 ただ、何かを口走っている。

 夢なのか、記憶なのか、ただの幻聴なのか──それすら判別できない曖昧な言葉とも分からない声。

 ベッド脇の医師が声を潜めて告げる。


「体温は40度を超えています。過負荷による内因性の発熱反応……それに、Nova粒子の循環がかなり不安定です。今後どう推移するかは様子を見ないと……」


 その説明が遅れて耳に入った瞬間、拳が震えた。

 ──あのとき、俺が……力を奪ったからか。


 拳が震えた。

 ギュネオスのエネルギーを吸収した自分には、痺れも倦怠感も残らなかった。

 むしろ体は軽くなっていた。


 だがニコラス先輩の時は違った。

 奪った直後も俺は苦痛に歪み、立つことさえできなかった。


 なら、今回は何が違う。

 俺は何を持ち去り、何を置いてきた。

 考えが脳内を駆け巡り、嫌な答えばかりを拾い上げる。

 その代償を、ロビンが払っているんじゃないか。

 彼女が目を覚ましたとき、そこに引力は残っているのか。


 いや、それ以前に──この高熱では命そのものが危うい。

 頬を伝う汗を拭おうと指先を伸ばしかけ、結局触れられずに引っ込めた。

 冷たい自分の手と、熱を帯びた彼女の額。


 その温度差は、火傷と凍傷が同時に存在しているような不気味さだった。


「……っ……すまん」


 その一言だけを、ぽつりと落とす。


 誰に向けた言葉か。

 それすら、曖昧だった。






 病室の外に出ると、廊下には張り詰めた沈黙が落ちていた。


 北区医療棟の三階。

 磨き上げられた白い壁と床は、照明を反射しているはずなのに、氷の洞窟のような冷たさを孕んでいる。

 半開きの扉の脇には、アミルが壁に背を預けて立っていた。

 腕を組み、長い脚を前へ投げ出した姿勢はいつもと同じはずなのに、その空気は別人みたいに重い。


 普段なら人笑みを浮かべ、冗談のひとつも飛ばしてくる軽い男が、今は石像のように一言も発さない。

 視線だけが鋭く病室の奥を見据えていて、その真剣さがかえって異様だった。

 少し遅れて駆けつけたジョシュも、その様子を見た瞬間に息を呑む。


「…先輩」


「……ジョシュ」


 それ以上は続かない。

 冗談も、茶化しも、何ひとつない。

 その沈黙が、この状況の深刻さを何より雄弁に語っていた。

 やがて廊下の向こうから小走りの足音が響き、エレーナが検査用紙を抱えて戻ってくる。


「ごめんなさい、お待たせしました……!」


 肩を上下させながら差し出された用紙には、Nova粒子の測定結果がびっしりと並んでいた。


「こちらの検査結果を見てください! ロビンさんの体内のNova粒子についてですが……そのものはあります。ちゃんと……残っています」


 その一言に、ジョシュの顔が上がる。


「なら──」

「ただ……熱の影響で循環が乱れています。本来一定で流れるはずのエネルギーが、不規則に脈打っていて……制御が効いていないみたいで……」


 不安を押し殺しながら説明する彼女の声が、白い廊下に小さく震えた。

 ちょうどその時、病室の扉が静かに開く。

 出てきたオーティスの表情を見た瞬間、誰も言葉を失った。


「……俺が」


 無表情な男の顔から、今はさらに感情が削ぎ落とされていた。

 何も映さない氷のような瞳。

 深い影を背負ったまま、彼は乾いた声で呟く。


「俺が……エネルギーを奪ったからだ」

「まだそうと決まったわけじゃない!」


 ジョシュが思わず声を荒げる。

 だがオーティスは振り返らなかった。

 ただ二人の間を静かに通り抜け、廊下の奥へ歩いていく。

 背筋は伸びているのに、その背中だけがひどく沈んで見えた。


 見えない罪を背負い込んで、今にも膝を折りそうなほど重たく。

 やがてその姿は、白い廊下の先へ静かに溶けていく。

 残された三人の間に落ちた沈黙は、雪よりも冷たかった。


 答えはまだ、どこにもない。


 ただ不安だけが、白い光に照らされた廊下に取り残されていた。






 翌日になっても、そのまた翌日になっても、彼女は目を覚まさなかった。


 北区の病棟は、時間そのものが雪に埋もれてしまったように静かだ。

 窓の向こうでは吹雪こそ昨夜より落ち着いていたものの、空も大地もまだ白く霞み曖昧に溶けている。

 朝なのか昼なのか、時計を見なければ分からなくなるほど、世界は淡い白の静寂に閉ざされていた。


「子猫ちゃーん……? は…まだ寝てるか」


 病室の扉をそっと開けながら、アミルが小さく息を吐く。


 ベッドの上のロビンは、昨日と変わらない姿で静かに身体を預けていた。

 掛けられたブランケットは看護師の手で丁寧に整えられ、額には新しい冷却タオルがきちんと置かれている。

 熱で倒れた日と比べれば熱は少し下がったが、それでも頬にはまだ熱の名残が薄く差していて、回復とは程遠い。


 アミルは一歩、二歩と足音を殺して近づくと、抱えていた紙袋をサイドテーブルへと置く。


「見てよ、ジョシュ。今日はなかなかのフルーツパラダイスって感じ?」


 紙袋の口を開けば、色とりどりの果物が姿を見せた。

 赤く艶のある林檎、薄皮の張った柑橘、みずみずしい葡萄、珍しいグァバに深い色を湛えた柘榴まで並んでいる。

 北区の朝市をいくつも回って選んだのだろう、一つひとつが妙に質がいい。


「買いすぎですってば……誰が食べるんです?」


 ジョシュは思わず吹き出す。

 そう言いながらも、果物の並び方を気にして少し直してやった。


「そりゃあ、彼女が起きたとき栄養がいるじゃん? 熱で体力も削られてるだろうし? こういう時はビタミンたっぷりの甘いものが正義ってこと」


 いつもの軽やかな口調だった。

 けれど、その視線だけは果物ではなく、ベッドで眠り続けるロビンへ向いている。


「食べられないなら……まあ、俺が食べるけど」


 冗談めかして言ったあと、ほんのわずかに眉が寄る。

 その小さな陰りを、ジョシュは見逃さなかった。


「ほんと、先輩ってそういうとこ抜け目ないですよね。さすがモテる人は違うなあ」


「違う」


 珍しく、アミルが即座に言葉を切った。

 声は低く、思った以上に真剣だった。


「Voidのことはよく知らないけど、あそこは食べ物もろくに食べられないとこなんだって。本部の食堂でも、ろくに食事を摂ってなかったみたいだし、だったら──目を覚ましたとき、思いっきり美味しいものを用意してあげたくてさ」


 その横顔に浮かぶ表情は、病棟前で壁にもたれていた時と同じ、冗談を差し込む隙のない真剣さを帯びている。

 その視線の先、布団の上に出た指先には、まだ熱に奪われた青白さが残っていた。

 ジョシュはその手元を見て、静かに壁にもたれかかる。


「……今日もダメか」


 アミルは懐から折りたたまれたハンカチを取り出し、汗の滲んだ彼女の額をそっと拭う。

 長い指先の動きは驚くほど優しく、まるで壊れ物に触れるみたいに慎重だった。


「そのうち起きるよ」


 ぽつりと落ちた声は、誰に言い聞かせるでもない独り言に近い。


「で、開口一番“うるさい”とか言って、また俺の腹にいいの入れてくる」


 その光景を思い浮かべたのか、アミルの口元がわずかに和らぐ。

 ジョシュもつられて小さく笑った。


「目に浮かびますね」

「ね?  だから今のうちに優しくしてポイント稼いどくってこと」


 少しだけ、いつもの調子が戻る。

 けれどその声音の奥にある不安は、消えたわけじゃない。

 二人とも分かっていた。

 ただ、口にしないだけだ。


「ダニエルも居ないから、いつものツッコミがないと締まらないって~………はぁ、早く起きてね。ポイントは100点をくれると嬉しいな」


 沈黙の中、二人はしばらくベッド脇に立ち尽くしていた。

 目を覚ますその瞬間を、どこかで信じながら。

 病室の中には雪の音は届かない。


 それでも窓の向こうでは、相変わらず白い静寂が世界を包み込んでいる。

 その静けさは冬の冷たさではなく、何かが動き出す前の、希望を孕んだわずかな凪のように。







 北区オーダー機関の裏手にある出入り口を抜けて、オーティスはひとり雪の丘を登っていた。


「…………」


 基地の灯りは背後で小さく滲み、数歩離れるごとにその気配さえ薄れていく。

 足元の雪は深く、踏みしめるたびに、ぎしり、ぎしりと鈍い音を立てて沈む。

 抵抗らしい抵抗もなく飲み込んでいく白は、まるで今の自分の感情そのもののようだ。


 高台まで登り切ると、周囲は驚くほど静かだ。

 風の音すらなく、ただ、吐き出される白い息だけが夜気に溶けて、淡く消えていく。

 そして、その頭上には──滲むようなオーロラが広がっていた。

 緑とも青ともつかない光の帯が、天をゆるやかに撫でていく。

 波打つ光は滑らかで、どこまでも優しく、どこか遠い場所へ流れていくようだった。


 その静かな美しさは、本来なら心を奪われるほどのものだったはずなのに、今のオーティスには胸の痛みを際立たせるだけだ。


「……俺は」


 噛み締め、乾き割れた唇から、言葉より先に白い息が零れる。


「……また、Novaを……奪ったのか」


 病室の光景が、瞼の裏に焼き付いて離れない。

 汗に濡れた額。乱れた呼吸。呼びかけにも応えない沈黙。


 あの時、ギュネオスの力を喰らって暴走しかけた自分に、ロビンは躊躇いなく手袋を外し、自分のNovaを分け与えてくれた。

 あれがなければ、自分はあの場で立っていられなかったかもしれない。

 なのに今、その代償を彼女が払っているのだとしたら──。


「……ッ…くそ…………!!!!」


 拳が、無意識に強く握られる。

 次の瞬間、吐き捨てるように振り下ろした拳は雪の中へ深く沈んだ。


「……ぅ、………あ…」


 だが返ってきたのは痛みでも衝撃でもなく、ただ柔らかく崩れる感触だけ。

 雪は何も言わない。責めも、拒絶も、怒りすら返してこない。

 その無音の優しさが、かえって苦しかった。

 すべてを奪ってきたくせに、今の自分には何ひとつ返せるものがない。

 白い雪の中に埋まった拳を見つめながら、ゆっくりと目を伏せた。


 Novaを得た日から、世界は変わった。

 いや、正しくは世界そのものは何も変わっていない。

 ただ、自分の中に“皆と同じものがある”と信じられるようになっただけだ。

 歓迎され、必要とされ、人間として認められたような気がした。


 この力が人の役に立てるなら──そんな青臭い運命さえ、本気で信じた。


 訓練生になり、力の扱いを覚え、救えるものが増えていった。

 瓦礫を持ち上げて閉じ込められた人を助けたこともある。

 最前線で盾になり、仲間に数秒の猶予を作ったこともある。


 ようやくオーダーになれた時、自分の選んだ道は間違っていなかったのだと思えた。


 ……思っていた。


 ニコラス先輩と出会うまでは。


 先輩とバディを組み、背中を預けることを知り、その果てに──奪った。

 カルロス長官に次ぐ、次期長官とまで噂されていた男の未来を、自分の手で奪った。

 そして今、ようやくもう一度誰かと並べるかもしれないと思えたロビンまで。


「……こんな、ことになるなら……」


 掠れた声は、オーロラの下で頼りなく消えた。


 もし彼女がこのまま目を覚ましたとして。

 もし、その掌にもう力が宿っていなかったら。


 軽々と瓦礫を操ることも、ギュネオスを相手に絶対に食い下がらない姿も、罵声を浴びても堂々としている背中も、三人まとめて病室から叩き出すような無茶も、二度と戻らなかったら。


 そうなった時、自分は何を返せる。

 奪うことしかできないこの力で、何を償える。

 胸の奥が急速に冷えていくようだ。

 凍える空気を吸い込みすぎて、肺が悲鳴を上げる。

 呼吸が浅くなり、膝が雪の中へ沈み込んだ。


「……この力を」


 言葉が、震える。


「……誰かのために使っていいのか」


 オーダーである資格。

 誰かを守る資格。

 誰かの隣に立つ資格。


 そんなものが、自分に本当に残っているのだろうか。

 逃げてしまえば、もう誰かを傷つけることはない。

 そんな考えが、一瞬だけ脳裏を掠める。


 けれど、その闇を押し返すように、頭の奥でひとつの声が蘇った。


〈──君は、きっと優しいオーダーになる〉


 未来を奪ったはずの自分に、それでも託してくれた言葉。

 あまりにも優しくて、今は呪いみたいに胸を締めつける。


「……優しい、か」


 自嘲するように吐いた息は白く砕け、夜に消えた。

 今は何も分からない。

 ただ、自分が怖かった。


 この存在がまた誰かを蝕んだのではないかという恐怖が、思考のすべてを曇らせていく。

 頭上では、何も知らない顔をしてオーロラが静かに流れ続けていた。

 やがて風が少しだけ吹き、雪の粒が足元で淡く舞い上がる。


 肩に降り積もった雪は払わなかった。

 払う気にもなれなかった。

 胸の奥に沈む暗闇とはあまりにも対照的な、美しい光の帯。


 その下で、ただ立ち尽くし、何も答えをくれない天を見上げ続けていた。


 ひとりきりの夜。


 静かで、冷たくて、どこまでも孤独な夜だった。




✧✧✧




 廊下は、夜の底に沈んだように静まり返っている。

 窓の外には、さっきまで空を撫でていたオーロラの名残が、淡い緑の残光となって細く揺れて。

 その光が長い廊下の床にぼんやりと映り込み、白い壁をいっそう冷たく見せていた。


 肩に雪を残したまま、その薄暗い通路をゆっくりと歩く。

 雪の丘から戻ってきたはずなのに、身体は少しも温まっていない。

 冷え切っているのは皮膚よりむしろ胸の奥だった。


 どこへ向かうつもりだったのか、自分でも分からない。

 けれど足は迷いなく病棟の一角へと辿り着いていた。


 白く整えられた扉。


 その横にあるネームプレートに視線が触れた瞬間、喉がかすかに鳴る。


「……また、ここか」


 小さく零れた声は、自嘲にも似ていた。

 確認したかったのかもしれない。


 まだ熱に苦しんでいるのか。

 少しでも落ち着いたのか。

 あるいは──最悪の想像を、どこかで打ち消したかったのか。

 扉に触れた指先がわずかに震える。


 怖い。


 けれど、それ以上に、目を逸らしたくなかった。

 ゆっくりと隙間を開けた瞬間、室内の熱を含んだ空気が細く漏れ出してきた。


 蒸されるような熱気。

 夜の冷えた廊下とは別世界だった。


 ベッドの上で、ロビンは昨日よりもさらに苦しげに息をしていた。


 額に張りついた濡れた前髪。

 こめかみを伝う汗。

 浅く、速く、熱に追い立てられるような呼吸。

 その姿を見た瞬間、胸の奥がひどく掴まれた。


「……みん、な……」


 濡れた唇から零れた寝言が、かすかに空気を震わせる。

 弱く、遠く、今にも消えそうな声だった。


 Voidの仲間たちだろうか。


 彼女が心の底で求めている居場所。

 そう思考が届きかけた、その時だった。


 ふわり、と病室の空気が持ち上がった。


「……っ?」


 ベッド脇のモニターが、音もなく宙に浮く。

 コードが蛇のように揺れ、サイドテーブルの花瓶がゆっくりと持ち上がった。

 鮮やかな花弁が一枚、また一枚と空中に漂う。


 重力が、失われていた。

 点滴のチューブが引き千切られるように外れ、赤い雫が球体のまま宙へ散る。


「ロビン……!」


 本来なら体内を穏やかに循環しているはずのエネルギーが、行き場を失い、外へ外へと噴き出している。

 まるで苦しみそのものが、光になって漏れ出しているみたいだった。

 銀の光は渦を巻き、浮遊した機材に絡みつくたびに軋ませ、ベッドフレームをぎしぎしと歪ませていく。

 壁にぶつかった器具が鈍い音を立て、白い塗装を抉った。


「……ごめ……ごめ、ん」

「ロビン………! 起きろ!」


 ロビンのかすれた声に呼応するように、渦はさらに勢いを増した。

 空気が唸る。

 病室全体が、彼女を中心にして引き寄せられていく。

 まるで小さな星が、崩壊する直前の重力を撒き散らしているみたいだ。


 思わず手を伸ばし──寸前で止めた。


 指先が震えていた。

 触れれば、また奪うかもしれない。


 先輩の時みたいに。彼女からも、大事なものを。


 怖かった。

 胸の奥にこびりついた記憶が、手首を掴んで止めてくる。

 けれど、今度は違う。


 目の前でロビンの呼吸がさらに乱れ、浮遊したモニターの角が彼女の顔すれすれを掠めた瞬間、迷いは砕け散った。


「……頼む」


 ここで逃げたら、本当に壊れる。

 彼女が。そして、自分も。

 かすれた声が漏れる。


「俺のNovaは、奪うことしかできない。でも……今だけは違ってくれ」


 震える手を、今度こそ伸ばした。

 そっと額に触れる。


「こいつを、助けたいんだ」


 火傷しそうなほど熱い。

 けれど次の瞬間、その熱が一気に指先から腕へと流れ込んできた。


「……っ!」


 今まで感じてきた吸収とは、まるで違っていた。力だけじゃない。

 熱、痛み、乱れた鼓動、暴れ回る引力、出口を失った感情の奔流。


「……いい。俺が引き受ける」


 彼女の中で渦巻いていた“苦しみ”そのものが、自分の中へ雪崩れ込んでくる。

 胸の奥が焼ける。血管の内側を灼熱が走る。

 それでも手を離さなかった。

 離したくなかった。


「……俺のバディを、二度と奪わせるか……!!」


 ここで受け止めなければ、また守れない。

 光の粒はゆっくりと腕を伝い、体内へ吸い込まれていく。

 暴れていた空気が少しずつ静まり、浮いていたモニターが、花瓶が、コードが、ひとつずつ床へ戻っていった。


 最後に、ひしゃげかけていたベッドフレームがきしみを止める。


 静寂。


 さっきまでの嵐が嘘みたいに、部屋はぴたりと止まった。


 ロビンの呼吸だけが、ゆっくりと、規則正しく胸を上下させている。

 その穏やかなリズムを見た瞬間、肩から力が抜けた。


「……よかった……」


 安堵の吐息と同時に、視界が大きく揺れる。


 膝から崩れ落ちた。

 今度は、自分の中で熱が暴れていた。

 彼女から引き受けた奔流が、器の内側を無理やり押し広げるように軋んでいる。


 頭の奥がぐわんと鳴る。


 それでも視線だけは、ベッドの上の彼女から離せなかった。

 苦しそうだった眉間の皺は消えていた。


 眠っているだけだ。

 それを確認できただけで十分だ。


「……これで、いい」


 掠れた声が床に落ちる。


 次の瞬間、支えを失った身体はそのまま冷たい床へ倒れ込んだ。

 窓の外では、オーロラの残光さえもう消えていた。


 静かな夜だった。


 冷たくて、長くて、それでもほんの少しだけ、救いの残る夜だった。

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