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AionioS  作者: 無日
第六章:白の果てで、手を取る

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第56話:バディ

 地下空間を揺らしていた咆哮が、ふっと一段低くなった。


 さっきまで視界を埋めていた獣たちは、もう群れとしての密度を保てていない。

 その数は目に見えて減っていた。

 まるで底の見えない泉だと思っていた増殖にも、ようやく限界が来たのだと分かる。


 入口付近で土の波を操りながら息を荒げていたアミルが、石床へ手をついたまま短く笑う。


「……たぶん、無限じゃなかった感じ? 長が増やせる数にも上限はあるんだ。それに──」


 視線が、広間の中央へ向く。


 黒い巨体の“長”は、先ほどより明らかに動きが鈍い。

 肩口には陥没した痕、首元と背中には金色の衝撃で抉れた裂傷が走っている。

 オーティスが無理やり叩き込んだ数発が、確実に弱点へ近づいていた。


「オーティスが長を何度か殴ってくれたおかげで、供給の流れが乱れてる。あの増殖、あのボスが起点ってこと」


 その言葉を聞きながらも、視線を逸らせなかった。

 中心に立つ男の背中から、妙な熱が立ち上っている。


 金色ではない。

 もっと濁った、煤けたような黒金の脈動。

 拳を握るたび、彼の右腕を這う血管が不自然に膨らみ、肌の下で何か別のものが蠢いているように見えた。


 さっき投げた結晶はもう使い切ったはずだ。

 なのに力は落ちるどころか、むしろ増しているように見える。


「ウオォォォォォォォォォォン!!!!」


 オーティスの目の前には、長が鎮座するように立ちはだかっている。


 立ち上がるとさらに大きい。

 巨大な身体。異様に伸びた前肢。

 頭部の空洞がオーティスを見下ろし、爪が空気を切り裂き、


 ──振り下ろされる。


「──ッッ!!」


 即座に引力を使った。

 彼の目の前へ床をすべるように浮遊し、透明な壁が張るように爪を空中で跳ね返す。


 ギギギ……と、獣が苛立つように再び爪を振るう。

 それもまた、触れる寸前で弾いた。


「……、ッ結晶が切れたなら、下がって──」


 そう言って振り返ったが、思わず言葉を飲んだ。


 目が、暗く見下ろしていた。

 群青と金が混ざる朝焼けのような双眸──そこに、温度はなかった。

 その顔に浮かぶのは、冷酷な暗がり。


 汗が皮膚に張り付き、喉が掠れるような息遣い。

 それでもなお、彼はまっすぐ立っている。


「……ちょっと」

「ロビ……ン、頼むから……離れてくれ。また……バディから奪っちまうわけにはいかないだろ…?」


 彼は苦痛を滲ませながら笑うと、横切り、まるで別れを告げるように獣の前に立ちはだかる。


「……結晶はもうないでしょ。だったら下がって」

「まだ、俺は倒れてない」


 そう言い切ると、拳を振り上げてボスに一撃を叩き込んだ。


 ──ズドォン!!


 その一撃は、巨体を遥か奥の壁まで吹き飛ばす。

 体が壁に突き刺さり、粉塵が舞った。

 長は軋むように呻きながら、もがくように壁から身体を引き剥がしている。


 戦慄した。


 彼の背中から滲み出す光は、いつもの金の光とは異なる――“黒い光”。

 そして拳を持ち上げた右手を見た瞬間、息が止まりかけた。


 手の甲から指先にかけて、皮膚が黒く濁っている。

 結晶の反動じゃない。

 周囲のギュネオスの残骸、その黒い粒子が彼の腕へ吸い込まれていくのを、確かに見た。


 ──エネルギー吸収。


 ギュネオスのエネルギーを、無理やり体内に。


「怖いか?」


 その一言に、足が止まる。

 怖い。

 正直に言えば、怖かった。


 目の前にいるのが、いつもの奴なのに、もう半分は別の何かに侵食されているように見える。

 強引に力を繋ぎ止めるその執念が、今にも彼自身を壊しそうで。

 けれど、怖いから引くなんて選択肢は、最初からない。


「……怖いに決まってる」


 低く吐き捨てる。


「だから止めてる。あんたが勝手に潰れてくのを見たくない」

「……安心しろ。本部に戻ったら長官にバディの解消を伝える。あの件の後、継続するか迷ってたんだ……お前にとっても都合がいいだろ?」


 彼の目は血走り、焦点が合っていない。

 体は膨張し、腕は怒張した血管で脈動していた。


 ──危険だ。限界を越えてる。


「これは俺の仕事だ」


 その瞬間、長が低く唸り、巨大な前肢を床へ叩きつけた。

 衝撃で石畳が跳ね、床下から黒い脈動が広がる。残っていた小型個体が数体、最後の守りのように一斉に飛びかかってきた。



 これじゃだめだ。



「っ……アミル!!!!」


「無茶振りばっかりだなぁ……ッ!」


 アミルが両手を地面へ叩きつけた。


 次の瞬間、石畳の裂け目から根のように細い岩の枝が無数に伸び、獣たちの脚へ絡みついた。蔦のように締め上げ、そのまま床へ縫い止める。


「しばらくは止めとくよ…っ! 気の強い子猫ちゃんは…ほんと、超タイプだ」


 軽口の裏で、額には脂汗が滲んでいた。

 彼ももう限界が近い。


 だからこそ、ここで止めなければいけない。


 ゆっくりと、自分の左手へ視線を落とした。

 肘まで覆う黒い手袋。

 ずっと“他人と深く関わらないため”に、自分へ課してきた境界線。


「……これは、もういらない」


 無意識に歯を食いしばり、苦痛に顔を歪めた。

 そして、手袋の指先を噛む。


 肘まで覆っていた、 その象徴を地面に投げ落とした。

 剥き出しになった素肌に、空気が触れる。


 触れない。

 踏み込まない。

 奪わないし、奪わせない。


 その象徴だった。


「……ロビン…?」


 オーティスの声が揺れ、アミルもまた、その意味を遅れて理解した。


「…まさか……」


 もう片方も外す。

 床へ落ちた手袋が、ぱさり、と乾いた音を立てた。

 白い指先が、薄暗い地下の光を受けて露わになる。


「ロビン!? なにしてる!」


 オーティスの声に、今度こそはっきりと恐怖が混じった。


 一歩、また一歩と近づいていく。

 長の唸りも、床の振動も、もう遠かった。

 見えているのはただ、黒く濁った彼の左手だけ。


「……あんたにこれ以上、ギュネオスの力も結晶も使わせない」


 声が響く。


 だが──その問答の背後から、重たい振動が響いていた。

 ボスが、巨体を揺らしながら一歩ずつ近づいてくる。

 生への執着ごと踏み潰すように。


 剥き出しの指先を、ゆっくりと伸ばす。


「アタシがやる。だから──その手、出して」


 彼の肩が、目に見えて強く跳ねた。


 黒く濁った右手を庇うように胸元へ引き寄せ、一歩、また一歩と後ずさる。

 その動きは巨獣を前にしていた時よりもよほど露骨な拒絶で、彼の中にある“本当の恐怖”がどこに向いているのかを、何より雄弁に語っていた。


「……ッ……やめろ!!」


 怒鳴り声が地下に叩きつけられるが、その声に驚いているのは当の本人だった。


 広間の奥で長が低く喉を鳴らす。

 人間同士の綻びを嗅ぎつけたのか、巨体をわずかに前傾させた。


「はは…何言ってるんだ? 忘れたのか…? 俺は、ニコラス先輩の…Novaを……ッ……」


 言葉が喉で裂ける。


 ニコラスの名を口にした瞬間、彼の表情は明らかに歪んだ。

 あの日、自分の手で奪ってしまった力。

 助けたかったはずなのに、結果として人の未来を奪った記憶。


 さらに、ロビンも知らないその奥には、もっと古い──母の記憶、何も守れなかった無力感まで重なっている。

 その怯えた顔を見た瞬間、胸も鋭く痛んだ。


 ──似ている。


 友達を助けられなかった自分と。

 無自覚に奪って、それをずっと自分のせいだと思い続けてきた、この男と。

 痛みの形が、あまりにも似ていた。


「アタシはあんたから力を奪わせない」


 さらに距離を詰め、剥き出しの手をまっすぐ差し出した。


「Novaが無くなったって、アタシは変わらずオーダーやってやる」


 その言葉に、オーティスの目が見開かれる。

 理解できないと言いたげな、戸惑いと怒りの入り混じった目だった。


「……何言ってるんだ、お前」

「自分の意思は自分で決める。人にも、Novaにも、指図されない。あんたもそう」


 もう一歩。


「だから手、出して」


 伸ばした指先が、あと少しで届く距離。

 けれどオーティスは、まるで火でも見たみたいに顔を歪めてさらに後退した。

 その表情は、初めて見る種類のものだった。


 恐怖。


 純粋な怯え。

 期待されることより、誰かを傷つけてしまうことそのものを怖がっている顔。



「……俺に触れると、みんないなくなる」



「そうならないように、皆に頼られる存在にならないといけない」



 拳が震える。


 黒く濁った指先が、自分の掌へ食い込むほど強く握り締められている。



「俺には力がない。だから、強くならないといけないんだ」



「……近づくな。お前は……“邪魔”だ」



 らしくない。


 こんな言い方、本心じゃない。

 人を遠ざけるためだけに投げつけた、刃みたいな言葉。

 それが分かるからこそ、唇がぐっと歪む。


 自分もそうだった。


 信じることが怖くて、誰かが踏み込んでくる前に自分から壁を作っていた。

 拒絶して、皮肉を投げて、そうやって“失った時の痛み”を先払いしていた。


 でも、今なら分かる。


 それじゃ何も変わらない。



「……Novaがなくても、人を救えるってあんたが証明してる」



「オーティス。あんたの力のほとんどは、自力で出してる。結晶だって必要最低限に抑えるために、毎日鍛えてる……そうでしょ?」



 朝焼け色の瞳が揺れた。



「あんたがNovaエネルギーなしに人を救えてんなら、アタシにだってできる」



「奪わせる気なんかないけど──もし、そうなっても、アタシはアタシで立つ」



 オーティスの喉が、ひくりと震えた。

 その次に返ってきた声は、低く、掠れて、痛みを押し殺したような響きだった。



「────失ったことがないから言えるんだ」



 その一言が、胸の深いところを刺した。

 脳裏に、もう戻らない友の笑顔がよぎる。


 あの日、間に合わなかった手。

 自分の判断が一歩遅れたせいで零れ落ちた命。

 でも、ここでそれをぶつけるのは違う。

 痛みの比べ合いをしたいわけじゃない。


 今、アタシが欲しいのは、この男が前を向くための一歩だけだ。



「もういい。お前に分かるわけがない。話しても無駄だ、下がってろ」



 肩を押し退けるようにして、彼は再び長へ向き直る。

 拳に黒金の光が集まり始める。

 その目からは、諦めの色が滲んでいた。

 背を向け、拳を握り──静かに戦闘態勢へ入ろうとする。



 ──ここで終わらせちゃだめだ。



 拒絶されても、突き放されても、それでも踏み込むしかない。

 このまま行かせたら、きっとこの男は本当に戻ってこない。

 震える指先を見下ろし、次に何を言うべきか、胸の奥から言葉を掘り起こそうとした。


「…っ……」



 何か……何か言わないと。


 でも、口を開こうとすると出てくるのは拒絶や皮肉ばかりでどうしようもない。

 あのとき、自分が救われた言葉を繰り返したって、それは自己満足のエゴだ。



 何を言えば止められる?

 


 こいつにだけ届く言葉…何を言えばいい。



 上っ面の言葉なんて響かない。



 ──心の中から探すんだ。



「…………バディ」



 オーティスの足が、ぴたりと止まった。


 らしくない言葉。


 自分が最も嫌っていた、薄っぺらい理想を掲げるような響き。


 ──でもそれを、一番繰り返していたのはこいつだった。



 "バディ" "仲間" "チーム"



 Voidと地上の境界を超えようとする、その姿勢に、最初は反発しかなかった。

 ヒーロー気取りで、正義をかざすだけの“地上の人間”だと。

 でも時間が経つにつれ、それがコイツの本質なんだと気づいた。

 地上の人間なんてみんな同じだ。


 こっちか、あっちか、それだけが重要で、線を跨いできた奴がいれば一斉に石を投げる。


 こいつもきっとそうに決まってるって。


 事象の地平線から脱出できたとして、思い描いていた場所はそこにないんだ。

 そうやって、壁を作らないと、いじけて、不貞腐れて、事実から目を逸らしてないと、今までの全てが崩れてしまいそうで。



 信じて裏切られることには慣れてる。



 ───ただ、覆されることが何よりも怖かった。



 信じてたものが、本当は目の前にあったら?


 だって、信じていたものがここにあったなら、なんでもっと早く見つけられなかったんだろう。


 もっと早く見つけていれば、今までの犠牲も時間も労力も、広がっていた景色は空の色のようにもっと鮮やかだったはずなんだ。



 分かってる。




 ───腹を括るべきなのはアタシの方だ。




「……オーティス。あんたが恐れてることは、分かってる。でも、あんたがここで死んだら──アタシのバディがいなくなる」


 オーティスが、ゆっくりと視線を落としながら振り返った。

 その目は揺れていた。今にも崩れてしまいそうなほど。


「アタシはNovaを無くさない。あんたから奪わせない」


 腕をわし掴んで身体ごと振り向かせる。

 手のひらを見れば、皮膚は固く、爪痕が赤くにじんでいた。

 手を重ねようとするとおびえたように一度、肩を震わした。


「本当に、やるのか? どうなっても俺は……責任をとれない」


 指先が、彼の掌の熱を寸前で感じ取る。

 触れれば戻れない。

 そんな予感が、空気そのものを張り詰めさせていた。


 オーティスの喉が小さく鳴る。逃げるように引きかけた手が、視線に縫い止められる。


 朝焼け色の瞳が交差した。

 ここで逸らしたら、きっとまた同じ後悔を繰り返す。

 そう理解した瞬間、彼の震えていた指先から、わずかに力が抜けた。



「じゃあ、アタシのバディで居られるように努力して」



 そう言って、手のひらを重ねた。



 ──瞬間。



 重なった掌の隙間から、銀と金の光が零れ落ちる。

 地下全体を埋め尽くすほどの眩しい光がこの暗闇を占領した。


「グルルルル……」


 アミルに襲い掛からんとした中型のギュネオスたちは低く唸りながら後退し、影へと退く。

 彼もまた、その光に飲み込まれそうになりながらも、その眼を細めていた。


 乾ききっていた血管の奥へ、熱い光が一気に流れ込む。

 途切れかけていた神経が火花のように繋がり、痺れていた指先に感覚が戻る。


 黒く濁っていた右腕の脈動が、金と銀の光に洗い流されていく。

 心臓が一度、大きく跳ねた。

 その拍動に重なるように、もうひとつの鼓動が掌越しに響く。


 ロビンの鼓動だ。


 熱が、意思が、恐れすらも、この掌から流れ込んでくる。


 エネルギーは旋回し、螺旋のように回りながら、

 やがてすべてがオーティスの体内に集結するように吸い込まれていく。


「…………ッ」


 掌の内側から流れ込む熱に顔を歪めた。

 視線を彼女に向けると、歯を食いしばりながらも耐えているように見える。

 さっきまで手足の感覚が痺れていたのに、今では体中に血が巡って軽くすら感じる。

 汗はいつの間にか引いて、視界は1つに交わる。


 感覚が、身体の隅々まで蘇る。


 聴覚、嗅覚、視覚が研ぎ澄まされ、筋肉の膨張を細部まで感じ取れる。

 光の中で一歩一歩こちらへ近づいてくるギュネオスの振動。

 その喉の奥で鳴っている唸り声も、アミルが地面に触れた音も遠くにいるダニエルの心臓の鼓動も。

 この手を通して、ロビンの体内にエネルギーが循環する流れすら──すべてが“分かる”。


 それはまるで、世界が自分の手のひらにあるような感覚だった。


「……ごめ、ん。……もう無理」


 ぐらり──


「ロビン……ッ!!」


 手が離れると、ロビンはぐったりと床に倒れ込もうとする。

 庇おうと身を寄せたが、彼女は片膝をつき、黒獣を見据えた。


「……っ…あんたの獲物でしょ。さっさと倒してきて。さっきのはタダじゃない。アタシのエネルギーをくれてやったんだから、さくっとやってきて」


 爆ぜるように光が弾け飛ぶ。

 ロビンの手のひらから流れ込んだNovaの光は、オーティスの全身を駆け巡っていた。


「人使い荒いのはどっちだよ」


 金と銀が絡み合い、燃え上がるように肉体を貫き、蒸気のような熱気が地面を震わせるほどに膨張する。


 その拳には、かつてない密度の力が集っていた。


 ギュネオスの群れを率いる黒獣が、再び重たい前肢を振り上げる。

 まるで空気ごと砕くような、質量を持った爪撃。


 だが。


「────来い、化け物」


 一歩、踏み込んだ。

 踏みしめた地面が重さで深く抉れ、飛び散る。

 次の瞬間、空気が爆ぜた。


 拳と爪が交差した一閃。

 拳が寸前で軌道を捻じ曲げ、その力を斜め上の顎骨ごと持ち上げるようにして撃ち込んでいた。


 ごきり──鈍く骨が軋む音。


 巨体のバランスが崩れ、黒獣は大きく仰け反る。

 その一撃で、周囲の空間が数秒遅れて揺れるかのような衝撃が広がった。


 ロビンはかろうじて動く左手で身体を引きずり、壁に背を預ける。

 深く、息を吐いた。

 その光景を、見上げていた。

 手足の感覚は遠く、Novaエネルギーがまるで“2つに分かれたような感覚”。


 けれど、いまは。


「……はやく倒してよね」


 呟きがこぼれた。


 オーティスの背後へ回ろうとしていたギュネオスたちに向けて、地面の下から鋭利な石柱が次々に突き上がる。

 アミルの範囲攻撃が、背中を守っていた。


「俺だってまだまだ動けるよ! なーんかいいとこ全部持ってかれちゃったし、最後くらい見せ場ほしいじゃん?」


 ──それが、合図のように。


 オーティスの足が再び地を蹴った。


 濁りなき金の筋が走る拳が、黒獣の肩を撃ち抜く。

 骨が砕け、血が弾け、獣が壁に叩きつけられる。


 だが、それでも──まだ、倒れない。


 ズン、と一歩。

 胴体を裂くように金の光が貫通しても、その巨体はまだ動く。


 ──なら、もう一発だ。


 いまなら何発でも打ち込める気がする。


 深く息を吸い込んだ。


 手の中のNovaは、まだ熱を持っている。

 だけど、それはすでに限界を超えていた。


 血管は膨張し、皮膚の下で破裂音がする。

 体内のエネルギーはあっても、体がついてきていない。

 それでも、足は止まらなかった。


 脳裏を過ぎる。


 地下で動かなくなった6つの影。

 守れなかった命と間に合わなかった現実。

 その全部を、今度こそ、この拳で終わらせる。


「仇は、──“俺たち”がとる」


 助走をつけて──


 一歩、二歩、三歩。


 彼は地面を蹴った。

 高く───高く、跳躍する。


 拳を振り上げ、そのエネルギーが光芒を落とし膨れ上がった。

 地面がひび割れ、空気が真空に近い衝撃圧で吸い込まれていく。


 そして──


「……ッ──これで終わりだ!!!!」


 咆哮と共に、拳が振り下ろされた。


 轟音。


 黒獣の巨体が地面に叩きつけられる。

 それはまるで、空から隕石が落ちたかのような衝撃だった。

 地下空間が軋み、天井が振動で崩れる。


 土煙の奥。


 黒獣には、喉から頸椎にかけて正確に風穴が開いていた。

 体が痙攣し──ついには、動かなくなる。


 静寂が戻る。


 金の光を帯びていた拳からは、すでにNovaの気配は消えていた。

 その場に膝をつき、背中を大きく上下させて、息を整える。


「……はぁ、ッ…ぐ、…これで……全部……」


 力尽きた拳が、だらりと下がる。

 耳鳴りの奥で、まだ何かが軋んでいる。

 瓦礫が落ちる音。遠くで崩れる振動。

 それだけじゃない。


 はっと顔を上げた。


 ロビンは────?


 Novaは────?


 胸の奥が、嫌な音を立てる。


 もし、今ので全部使い切っていたら。

 もし、あいつがもう動けなかったら。


「……ッ…ロビ…ン」


 足に力を入れる。だが、踏み出した瞬間、膝が崩れかけた。

 それでも、無理やり立たせる。


 一歩。引きずるように。

 視界が揺れる。焦点が合わない。


 二歩目で、石床に膝が擦れた。

 痛みはあったはずなのに、うまく感じ取れない。


 限界を迎えた足で膝を無理やり立たせながら周囲を見渡す。

 瓦礫の向こう、崩れかけた壁際。

 かすかに、何かが動いた。


 ゆら、と。


 頼りなく揺れる手が、空中で小さく振られる。

 視界には壁際でゆらゆらと手を振るロビンがいた。


 今度こそ、身体が前に出た。

 転びそうになりながら駆け寄る。

 足取りはもはや走りじゃない。倒れ込むのを繰り返しているだけだ。


「ロビン…っ…Novaは…」


「子猫ちゃん!!!」


 その横で、アミルもまた彼女を見下ろしていた。

 いつもの軽薄さは消えている。


 声が掠れる。

 問いかけながら、自分で答えを恐れていた。


 そのとき。


「子猫ちゃ……」


 ぽす。


 軽い衝撃が、アミルの胸に当たる。

 力の抜けきった拳。


「次、その呼び方したら…」


 次の瞬間には、満面の笑みで身を乗り出していた。

 彼女の軽い調子に、アミルは抱きつこうと腕を広げた、その瞬間。


 ばさっ、と。


 彼のフードが、生き物みたいに跳ね上がり、顔を覆い隠した。


「なっ……!! ちょ、暗っ!? なにこれ!? 見えないって!!」


 くぐもった声がフードの内側で暴れる。

 ロビンは、かすかに口元を緩めた。

 膝の上に置いたままの指先だけが、微かに動いている。


 引力は、まだ生きている。


 失っていない。

 その事実が、ようやく現実として落ちてくる。


 大きく息を吐いた。

 肺の奥に溜まっていた重たい何かが、一気に抜け落ちる。

 膝から、力が抜けそうになる。


 ──よかった。


 心の底から、そう思った瞬間。

 ロビンが、ゆっくりと視線を上げた。

 その鋭い目が、まっすぐに俺を射抜く。


「また無謀なことやったら、許さない。もし次やったら、地の果てまで追いかけて後悔させてやるから」


 有無を言わせない声音。

 一瞬だけ目を見開いてから──

 ふっと、力の抜けた笑みを浮かべた。


「…気をつける」


 その言葉は、さっきまでとは違っていた。

 軽口のはずなのに、どこか確かに重みがある。


 ゴゴゴゴゴ…


 低い振動が、足元から這い上がってくる。

 アミルがぷはっとフードを押し上げながら顔を出し、周囲を見回した。


「……あれ、ちょっと待って。なんかこれ普通にヤバいやつじゃない?」


 ぱきり、と。

 天井に走る細い亀裂。


「崩れるってこれ!!!」


 今さらのように叫ぶアミル。

 ──出口へ急がなければならない。


 分かっている。

 分かっているのに。

 その場を動けない時間が、ほんの一瞬だけあった。


 互いに生きていることを、確かめるための時間。

 奪われなかった力。

 繋ぎ止めた命。


 確かに、ここにある。


 だからこそ──


 彼らは、もう一度立ち上がる。


 この手で、守り抜いたものを連れて。

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