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AionioS  作者: 無日
第六章:白の果てで、手を取る

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第54話:群れの長

「二人一組で手分けして回ろう。何かあれば通信で合図を送ってね」


 アミルの指示に、3人は頷く。


 古びた木の床板が、ブーツの重みで軋んだ。


 ロビンはオーティスの背を追うように駐屯地の廊下を進んでいた。

 空気は冷たく澱んでいて、ひと晩で積もった雪が風に流れ込んだせいか、室内の温度もほとんど外と変わらなかった。


「このあたり、管理部屋か資料室のはずだ」


 分厚い手がノブにかかり、軋む音と共に重い扉が開く。


 中は薄暗く、そして静か。


 資料室とおぼしきその部屋は、見るも無残な有様だった。

 足元にはファイルや書類が散乱し、書棚は倒れ、ガラス片が雪混じりの泥にまみれていた。

 湿気で膨らんだ紙はところどころ文字が滲み、ページは裂け、何もかもが使いものにならない。


 ロビンは無言のまま、足元の床を見つめる。


 泥に汚れた紙の上──そこにははっきりと、複数の足跡が刻まれていた。

 蹄のような、不規則で、けれど力強い踏み込み跡。

 そして壁面には、巨大な爪によって引き裂かれたような傷が走っている。


「……この駐屯地、あの狼達に荒らされたんだ。匂いも酷いし…まだここにいるかも」


 室内が再び静けさに包まれた。

 壁の爪痕に、しばらく目を向けたまま──彼女はまた口を開いた。


「……結晶。昨日は7つも使ってた」


 ロビンの声には、微かな苛立ちが混じっていた。

 オーティスは床に散らばったファイルを拾い上げていたが、動きを止める。


「ははっ。見てたんだな」


 軽く笑い、床にしゃがみ込んで資料の中をパラパラとめくる。


「まだあいつらがここにいるなら、戦闘になるかもしれない。だから、……あんたは下がってて。群れの中心で結晶がなくなったら、いい餌にされるのがオチ」


「大丈夫だ。昨日も言ったろ? ギュネオスからもエネルギーは吸収できる。安心しろ」


 目を落としたままの声だったが、淡々と、どこか自嘲を交えた調子だった。


『……二人とも、食堂に来てくれ』


 アミルの通信が割り込む。


 二人は顔を見合わせ、すぐに部屋を出た。





 ──食堂。


 アミルの視線の先には、冷え切った惨状があった。


 床は雪で湿り、窓のひとつ残らず砕け散っている。

 その破片があたり一面に散乱し、吹き込んだ雪がテーブルや椅子を白く染めていた。


 一部の椅子は倒れ、テーブルの上には手つかずの冷めたマグカップ。

 底にはスープの乾いた痕。


「……これ」


 部屋の隅──そこに、裂かれたリュックが転がっていた。


 中身は引きずり出され、書類、衣服、道具が雪と泥にまみれて散乱している。

 そして、床には赤黒い汚れが引き裂かれたように続いていた。


 それは、食堂の奥、閉ざされた扉へと続いている。


「……ここで、食事中だったんだ」


「窓から入ってきたのか……あの群れが」


 オーティスの低い声に、誰もすぐには返せない。


 全員が沈黙する。


 食堂の中には、もう誰もいない。

 けれどこの場所には、誰かが仲間と肩を並べ、温かい食事を囲んでいた痕跡だけが、あまりにも生々しく残されていた。


「……雪の積もり方からして、かなり時間が経ってる」


 日常ごと、ここで断ち切られたのだ。


 アミルは通信機に沿える指先に、わずかに力を込めた。


「……アリシア長官」


 一呼吸。

 言葉を選ぶように、彼は視線を伏せる。


「断定はまだしたくないんだけど……生存の可能性は、かなり低いと思う」


 通信の向こうで、しばし無音が落ちた。


『…………そうか』


 短いその一言が、ひどく重かった。

 アミルは表情を曇らせたまま、現場を見渡す。


「うん。たぶん食事中の奇襲かな。窓から侵入された可能性が高い。ダーラの温熱維持があるなら、自然と全員がこの部屋に集まっていたはずだから……」


『………最悪の形だな』


 喉をひきつらせたような声だった。

 通信越しでも、彼女がきつく唇を噛み締めているのが想像できる。


『ゾーイは、食事の時間だけは必ず全員揃える子だった』


 その言葉に、食堂の静けさがさらに深くなる。


『クロエは肌が焼けるのを嫌がって、窓から離れた席に座っていたかもしれないな……。レイヴンは、食べながらでも外の雪の状態を気にして窓を見ていただろう。ダーラは皆のカップに温度を回して、冷めないようにしていたはずだ。タリアは体力のない子だから、ケイコに寄りかかっていたに違いない』


 長官の声が、ひとりひとりの姿を食堂に蘇らせる。

 誰もいないはずの席に、その気配だけがまだ残っている気がした。


 ロビンは血の跡へ視線を落とし、わずかに唇を引き結ぶ。

 ダニエルもまた、奥の扉へ続く赤黒い筋から目を逸らせなかった。




✧✧✧




 冷え切った空気が、扉の前でさらに温度を下げた気がした。


 そこに立つ4人の足元には、赤黒い痕跡が細い帯のように伸びている。

 血痕──明らかに“何か”に引きずられたあとだ。


 扉はすでに、扉としての体をなしていなかった。

 その木製の板は、無数の鋭利な爪痕に引き裂かれ、中央から湾曲するように歪んでいる。

 かろうじて蝶番にぶら下がる残骸を、吹き込む風が軋ませた。


 その隙間から──奥に続く闇と、得体の知れない“音”が漏れていた。


 低く、喉を鳴らすような唸り声。

 ひとつではない。複数。それも、数を定めるには多すぎる。


 ダニエルが、思わず一歩下がった。

 吐く息が白く滲み、肩がこわばる。

 彼の視線は闇の奥を捉えたまま、動かない。


 緊張が張り詰めていく──その空気を破ったのは、唐突な声だった。


「よしっ! ──じゃあお前たちはここで帰っていい!」


 場にそぐわぬほど明るく、軽やかな声。

 思わず、ロビンとダニエルがアミルを見た。


「……は? 先輩、何言ってるんですか?」


 ダニエルの困惑をよそに、アミルは堂々と胸を張り、人差し指で“その先”を指し示す。


「この先にいるのは、たぶん群れのボス──つまり“親玉”てことじゃん? そして皆さんご存知の通り、俺のNovaは豊饒。地形を読んで仕掛けるのが得意な俺が、地下で不利になるわけがない!」


 ビシッ、と。


 アミルは笑顔を浮かべたまま、掌をダニエルの胸元に突きつける。


「リーダーとして、これ以上仲間を危険に晒すわけにはいかないんだよね。ってことで、お前たちにはここで退いてもらう」


 口調は陽気だが、瞳の奥には固い決意が見えた。


 ダニエルは戸惑ったまま歪んだ扉へと視線を向ける。

 奥から漏れる唸り声は、ますます近く、獰猛に響いている。


「…………」


 寒さか、それとも恐怖か。


 昨日の吹雪の中で見た、雪を裂いて迫る牙の残像が脳裏をよぎる。

 ひとたび囲まれれば、氷壁形成では間に合わない。

 そう理解してしまったからこそ、足がすくむ。


 ダニエルの肩が小刻みに震える。

 手袋の下で、ぎゅっと拳を握りしめ、彼はうつむいた。


 アミルが優しく肩に手を置こうとしたその時だった。


「先行ってますよ。もう随分、待たせすぎてるからな」


 淡々とした様子でアミルを横切り、オーティスは壊れた扉を進んでいく。


 唸り声に、むしろ迷いなく歩を進める。

 まるで危険の濃い場所ほど、自分が立つべき位置だと知っているように。


 彼の背中が、もう闇の奥へと吸い込まれる寸前だった。


「……なんで、リーダーになるとみんな無謀に走りたがるんだろ」


 その背に、皮肉交じりの声が続く。


 彼女はあえてアミルを見ず、オーティスの背中を追うようにスタスタと歩いていく。

 その口調は冷たくても足取りには迷いがなかった。


 呆気に取られたアミルが振り返ると、最後に残ったダニエルがゆっくりと顔を上げた。


「俺も行きます」


 そう言いながらも、肩の震えは止まっていない。

 それでも彼の声には、覚悟がにじんでいた。


「……先輩は、1人だと何しでかすか分かんないんで」


 ダニエルは彼らの背を追って歩き出す。


 アミルは、目を丸くしたまま一瞬立ち尽くした。

 そして──ふっと肩をすくめて、頭を掻いた。


「……あちゃ〜、これはリーダー失格かな」


 そう言って笑うと、壊れた扉をひょいと飛び越えた。


 唸り声の向こう。

 血の匂いと闇の奥で、牙を潜める“何か”が、彼らを待っていた。


 けれど、この駐屯地の奥では──新たな戦いの予感が、静かに、確かに動き出していた。






 外の吹雪と静寂を背に、4人は地下へと続く石階段をゆっくりと降りていった。


 この駐屯地は、オーダー機関創設から時を越えて残り続けている。

 幾度も改装を重ねた地上部には、もはや当時の面影はほとんどない。


 だが──地下だけは別だった。


 踏みしめるたび硬質な音を返す石畳の階段。岩肌に染みついた冷えた湿気。壁際に斜めに打ち込まれた、文字の剥がれた古い指標板。

 そこに残されているのは設備ではなく、まるで時代そのものの記憶だった。


 先頭を行くオーティスは、ロビンの持つランプの灯りを頼りに、血の痕跡を辿る。

 淡く照らされた足元に、擦れた靴跡と赤黒い染みが交互に現れ、やがて階段の奥へと消えていく。

 彼の拳は震えてはいない。


 だが、手首に浮いた血管と、歩を進めるたびわずかに膨らむ肩の筋肉が、その内側に張り詰めた緊張を何より雄弁に語っていた。


 やがて階段の終わりが見える。


 最後の一段を踏み下ろした瞬間、靴底の硬い音が石床を鋭く打ち鳴らし、その反響が巨大な空洞の奥へ幾重にも転がっていった。


 四人は息を潜め、静かに周囲へ目を凝らす。

 足元だけは見える。だが、その先は深い闇に沈んでいた。

 どこまでも広く、どこまでも底知れない空間。ランプの光が届く境界線の向こうには、何が潜んでいるのか輪郭すら掴めない。


 さっきまで扉の向こうから漏れていた唸り声は、もう聞こえなかった。

 気づけば獣の気配は闇に溶け、不自然なほどの沈黙だけがその場を支配している。

 耳に残るのは、自分たちの吐息と、ランプの火が小さく燃える音だけだった。


 アミルがロビンへ視線を送る。


 無言の合図に、彼女は片腕をしならせるように引き、手にしていたランプを暗闇の中央へ思い切り投げ放った。


 シュン、と空気を裂く音。


 ガシャンッ!!


 ランプは石床に激しく叩きつけられ、ガラス片を四方へ弾け飛ばした。砕けた容器から漏れたオイルが石畳の溝を這い、遅れて炎がぼうっと赤く燃え広がる。


 その瞬間、闇が色を持った。


 赤黒い影が、ぞろり、と浮かび上がる。


 獣じみた四肢。

 黒い結晶で編まれた異形の体。

 目を持たず、ただ獲物を狩る本能だけを宿した群れ。


 昨日遭遇した個体とは比べものにならない。

 広間の奥、そのさらに奥まで、黒い獣たちが波打つように埋め尽くしていた。


 そして、その中心。


 獣たちに守られるように、一際巨大な影が鎮座していた。


 四メートルを優に超える巨体。乾ききった血が結晶化したような黒い毛並み。顔の中央には眼窩すらなく、ただ裂けた穴だけが音もなくこちらを見据えている。


 それはただそこにいるだけで、群れ全体を支配していた。


 “長”。


 誰もが本能でそう理解する威圧感。

 その足元で──血痕は途切れていた。


 乱れた制服。

 引き裂かれたダウンから零れた白い羽毛。

 泥と血にまみれ、人の形をかろうじて留めた六つの亡骸。


 割れたゴーグルが雪泥に半ば埋もれ、人格像が痛々しく残る。

 数日前までここで笑い、同じ任務に就いていた第七小隊の末路が、無残な形で転がっていた。


「……ああ」


 アミルの唇から、かすれた声が零れる。


「遅かったか……」


 群れはその遺体を囲い込み、誇示するように牙を剥き始めた。

 広間の中央で、長がゆっくりと顔を持ち上げる。

 裂けた口の奥に並ぶ牙が、炎を受けて鈍く光った。


「ウォォォォオオン……ッ!!!」


 地底を揺るがす咆哮が洞全体を震わせた。


「…ッ…仇を取るぞ!!!」


 オーティスの怒声と同時に、群れが地鳴りとともに動き出す。


 黒い獣たちが低く姿勢を落とし、四人を囲い込むように半円を描いた。

 その奥で長だけが微動だにせず、静かな支配だけを放っている。


 その奥にいるのは、眼窩を持たない“長”。

 獰猛で、静かで、何も言わずとも、ただその場にいるだけで支配が生まれる。


 その圧力の中で、アミルだけが、ふっと肩の力を抜いた。


「──邪魔しちゃって悪いんだけどさ」


 静かに、そして軽やかに。


「ここ、俺のテリトリーなんだよね」


 膝をつき、指先が冷えた石床へ触れる。

 瞬間、大地が脈打った。

 まるで彼の心臓が脈に呼応するかのように、大地そのものがビリビリと震え出す。


 ズズズズズ……


 床が唸り、天井が軋み、空間全体が震える。

 無数に走った亀裂から、鍾乳石じみた“石の牙”が異様な速度で突き上がった。


 何体ものギュネオスが首元を串刺しにされ、断末魔すら漏らせぬまま崩れ落ちていく。


 その背後へ回り込んだ影に、ダニエルが即座に反応した。

 天井から落ちた水滴を掌に集め、指先で弾く。


 瞬間、液体は鋭利な氷へと変貌した。

 それを振るうたび、氷の刃が暗闇を裂き、アミルの死角へと迫るギュネオスを次々に斃していく。


「……はぁ、先輩。後ろもちゃんと見てください」


「ダニー! 助かるよ!」


 その横を、重い衝撃音が突き抜けた。


「──昨日のスパーリングで、準備運動は済んだからな」


 オーティスはダウンを脱ぎながら結晶を拳に握り込み、一歩前へ出る。

 その拳に宿った力は、結晶の脈動と共に彼の全身へと流れ込んでいく。


 骨が鳴り指が軋む。


「で、どいつが俺の相手になってくれるんだ?」


 飛びかかってきた獣へ、鋭い右拳を振り抜く。


 ズガァンッ!!


 頭蓋が砕け、巨体が石床へ転がった。

 だが、砕けた頭部が軋みながら再生を始める。


「……ギッ……ギギ……」


 が、何かが耳を掠めた。


 ヒュンッ。


 足元に落ちていた石が空気を裂いて、頸椎を絶つ。


「……忘れた? こいつらの弱点は首。無駄に体力使わないで」


「お前にトドメを任せようと思ったんだよ」


 オーティスは軽く肩をすくめて笑った。

 その挑発に、ロビンは言い返すでもなく目を細め、そのまま群れの中央へ浮遊して降り立つ。


 ズンッ!!!


 重力が空間ごと落ちた。


「あんたらの相手はこっち」


 十数体の獣が体ごと圧し潰され、鈍い音を立てて沈む。


 だが──まだ、終わらない。


 炎の照り返しの中、まだ無数の影がうごめき、彼女めがけて飛びかかってくる。


 拳が──それを貫く。


 ドォッ!!!


 周囲、群れで囲まれていたはずの光景は亀裂ができたように彼の進んだ道が晒されている。


「あんたは引っ込んでて」


「隙を見せたからだろ」


 彼は再び結晶を取り出した……が、今度は拳にではなく──口元へと運んだ。


「はっ、……ッなにして──」


 ゴクリ。


 喉が鳴り、喉仏が下がると結晶が体内へと飲み込まれていく。


「……!? 気でも狂ったわけ!?」


 ロビンの声に、オーティスは肩越しに笑いながら答える。


「あ、言ってなかったか?」


 そう言った彼の体が──金色に染まった。

 光芒が全身に走る。


 骨と筋肉の輪郭が透けて見え、血管が光の糸のように浮かび上がる。

 拳を合わせた瞬間、雷鳴のような衝撃音が洞を裂いた。


「もう一段、上げるか」


 狂気と理性が紙一重に揺れるその瞳──

 左目の金色が、闇の中に妖しく光った。


 そして彼は、地を蹴る。


 吹き飛ぶギュネオス。砕ける頭蓋。

 割れた空間に、彼の咆哮が響き渡る。


 その危うい暴威に、思わず息を呑んだ。


「……イカれてる……」


 だが、その視線の先。


 群れの最奥で、なお沈黙を保ち続ける“長”だけは、一歩も動いていなかった。


 戦いはまだ──終わっていない。


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