第48話:背中を預けるには
朝の陽射しが高層ビルのガラスに反射し、地面に複雑な光の線を描いている。
中央区淡砂街
午前のパトロールは、本部前から南側の高架下を見回るルート。
オーダー本部から少し離れた、都市の血管と言える昇降路通りを、俺たちは並んで歩いていた。
このあたりは人通りが多くない代わりに、上を滑るスカイルートや配送ドローン、業者の行き来が多いエリアだ。
見た目には静かだが、治安はやや不安定。
業者同士の言い争いや、ドローンの追突事故、重なると大きく膨れ上がる可能性が大きく、惨事になりやすい。
以前、精神干渉系Novactorをきっかけに、市民同士が衝突を始めたという事件はここで起きたと聞いている。
報告される犯罪Novactorも他のエリアより多く、オーダーたちが交代制で見回りに入り、警戒を強めている。
だが、191期生のオーダーが戻ってきたお陰で、張り詰めていた空気は溶け、人数が戻ったことで負担も減り、街の空気もどこか晴れたように思えた。
空気は乾いて、遠くで列車が滑らかに走っていく。
「お前、気に入られたみたいだな」
「…気に入る?」
「アミルさんに」
彼の名前を出した途端、ロビンは立ち止まってじろりと睨みつけてきた。
「す、すまん…!! そんなに嫌だとは思ってなかった」
両手を上げて降参のポーズ。
からかったことを後悔しながら再び歩き出したが、気まづい沈黙に耐えられなくなった俺は、場の空気を断ち切ろうと話題を変えた。
「あーー…えっと。で、どうだったんだ? 暫くは単独行動だったんだろ」
「……大した事件もない上に、ろくな仕事も回ってこない…最悪だった」
「社会奉仕のわりに、報告書の内容は地味に多かったけどな」
「読んだってわけ?」
「そりゃあ、バディだからな? カルロス長官から回されたものには、さっき全部目を通しておいたぞ。園児に囲まれてる写真とか。いつもは市民も投げ飛ばしかけるのに珍しい 」
「投げ飛ばしたりはしてない」
彼女は眉を寄せるものの、周囲を警戒しながら短く吐息をつくと、少しだけ顔を背けた。
「子供に罪はないでしょ」
その声に、どこか柔らかさがにじむ。
言葉の選び方は相変わらず不器用で、距離感も絶妙にぎこちない。
短いやり取りの中に、小さな変化が積み重なっていた。
交差点で信号が青に変わる。
横断歩道を渡り、午前の陽の中に再び歩き出した。
✧✧✧
食堂の窓際。
一面のガラスから、午後の光が差し込んでいる。
鉄のフレームに吊られた植物が風に揺れていた。
パトロールから帰ってくるなり、俺は隣から呆れる声も聞かずに食堂へ向かい、トレーに昼飯を並べていく。
テーブルに着くと、自然と俺とロビン、そしてジョシュの3人が、ランチトレーを囲み座るようになる。
「でさ、俺らオペレーターって基本、通報者の話を最初に聞くんだよ」
「“家の地下に謎の穴が空いた”とか、“犬が喋った!”とか、“天井からナイフが降ってきた”とか。最初は笑いそうになっても、全部マジメに受け取らなきゃいけない。それを誰に回すか判断して、現場に指示出して──」
「で、あとで“対応が遅い”って怒鳴られるんだろ?」
「そ、ほんっと板挟みだよ! オーダーも市民も、両方の機嫌取るとか無理難題だ…」
「ジョシュが対応してくれた時は、安心できるけどな」
オーティスの素直な言葉に、ジョシュは苦笑しながら水を飲む。
「ありがと。お前そういうとこ、ズルいよなー」
ロビンはスープを啜りながら、空を見上げていた。
ぼんやり何かを考えている顔。
いつもそうだ。
自分の考えていることを彼女は滅多に口にしない。
〈オーティスくん、バディにとって何が一番大切かわかるかい?〉
〈バディは背中を預ける仲間であり、コミュニケーションはバディにとっての命綱。ってことで、今日は僕の行きつけのレストランに連れて行ってあげよう〉
ニコラス先輩の言葉を思い出した。
「………飯…か。いや…好みも知らないしな……」
「なに、あんたまだ食べる気?」
そのとき──
「なになに、なんの話してんの? 俺もここ座ってい?」
眩しさそのものみたいな声が響いた。
例の季節外れなトロピカルシャツをユニフォームの上から羽織ったまま、ランチトレー片手に現れると、当然のようにテーブルに身を寄せてくる。
「椅子はもうないから」
ロビンが冷たく言うも、アミルは近くの席から椅子をガガガッと引きずってきて、彼女の隣に機嫌よく座る。
「これでいいよね! じゃ、いただきまーす!」
引き攣り、青ざめる。
「…………食べる気失せた」
彼女は音を立てて立ち上がると、トレーを持って無言で返却口へ向かった。
「え!? ちょ、まってまって! せっかく見つけ……あれ……? 動けないんだけど……?」
アミルが身を起こそうとするも、まるで見えない鎖に縛られたように、体がびくともしない。
視線すら向けられず、足はぴったりと地面にくっついたまま固まっている。
「ちょっと、先輩……」
「……っふ…」
ジョシュが吹き出し、俺も釣られて息が漏れた。
アミルさんは必死にもがくが、まるで何かの“重圧”に抑えつけられているようだった。
ロビンの引力だろう。
「えー! なんか動けないんですけど!? なんでなんでー!」
そのとき、後ろから誰かの声がした。
「アミル先輩、やめた方がいいですよ? あの女、Vorderですから」
何気ないような声色だったが、その言葉が空気を変える。
「ヴォー……? なにそれ、中央区の流行り?」
「先輩たちは南区に居たから知らないかもしれませんけど、“オーダー育成プログラム”ってありましたよね? Void出身の屑どもを引き上げて鍛えるってやつ。今その卒業組、Vorderって呼ばれてるんですよ」
ざわ、と軽いざわめき。
空気に、ほんの少し棘が混じる。
ダニエルの視線が、食堂から出ていくロビンの背中に向けられた。
「お前な……」
トレーを置いたまま、立ち上がった。
「ロビンは“屑”じゃない。お前の後輩でもあるし、俺と組んでるバディだ」
わざと威圧感を与えるように視線を落とす。
食堂の空気が一瞬止まり、ざわめきが収まっていく。
ダニエルが口を開きかけるも、それを止めたのはジョシュの柔らかな声。
「ダニエル、知らないならなにも言わない方がいい。偏見ってやつは眼を曇らせるよ」
銀縁メガネを拭きあげ、レンズ越しにダニエルを覗き込む動作は以前のジョシュより、どこか芯があるように見えた。
ロビンとの直接の会話は少ないだろうが、オペレーターとして、彼はマップ上から動きを見てきた。
その上で、言葉を並べてくれている。
「………平和ボケしてっと、足元すくわれるぞ」
苦い顔で席を外していく後ろ姿。
残されたテーブルに、再び静けさが戻る。
「おーい、俺のこと、そろそろ解放してくれない?」
✧✧✧
誰にも視線を向けず、廊下を歩いていた。
足音だけがやけに大きく響く。
規則的なはずのそれが、妙に不揃いに聞こえるのは、自分の呼吸が乱れているせいだと気づくのに少し時間がかかった。
トレーを返却してから、そのままあの賑やかな作戦部へ戻る気にはなれなかった。
背中に残っている視線も、耳の奥にこびりついた言葉も、全部が煩わしい。
振り払うように歩調を早め、人気のない旧資料管理フロアへと足を向ける。
「Vorderか」
ぽつりと呟いた声が、薄暗い廊下に吸い込まれていく。
乾いた靴音が、無機質な床に反響していた。
居場所を失った自分にとって“Void”は過去でしかない。
その一言は、ただの呼び名のはずなのに、皮膚の内側に棘のように刺さって抜けない。
忘れたはずのものを、勝手に掘り返してくる。
靴底が床を擦るたびに、遠い記憶がじわじわと滲んでくる。
濁った空気、湿った鉄の匂い、視界の端で蠢く影。
資料室の扉を押して中へ入ると、外に出たのかと思わせるほど冷えた空気が肌を撫でた。
室内は照明が落ちていて、ブラインドの隙間から差し込む午後の光だけが、斜めに細い線を引いている。
空気は静まり返り、音を吸い込むように重い。
Voidには恒星の陽は届かない。
植物は育たず、空気も視界を濁し、喉を焼くほど汚れていて、寒さばかりが沈殿した地の底。
この寒さはまるでVoidにいるように感じさせる。
「……っ」
喉の奥が引き攣る。
身体が勝手に覚えている。
どれだけ地上で過ごしても、どれだけ時間が経っても、染みついたものは簡単には剥がれない。
肩がわずかに跳ねた拍子に、棚の支柱に背中がぶつかる。
どれだけこの寒さが故郷に似ていても、ここは地上だ。
あそこはもう帰る場所じゃない。
とっくの昔に無くしてしまった。
「夢を…、叶えるんだ」
寒さに震える喉から、かすれるように声が漏れる。
それは自分自身への言い聞かせであり、戒めのようでもあった。
たとえ罵られても。
石を投げられても。
人間として扱われることがなくても。
くたばるまで。
暗い室内でそっと膝を抱えた。
指先は寒さで凍りついてしまって、感覚が次第に遠くなっていく。
ブラインドからこぼれ落ちた光の斜線が瞼の上をなぞり、夢と現実の境界をあやふやに滲ませた。
──視界の奥の影が滲む。
〈──探したぜ〉
抱擁とは程遠い声。
聞き間違えるはずがない。
"少年"はポケットに手を突っ込んだまま、気だるげに首を傾げている。
記憶の中と、何ひとつ変わらない姿。
胸の奥が軋む。
〈──遊びに行く約束、だったよな〉
少年が生傷だらけの手を伸ばす。
あのときと同じ仕草。
いつもの誘い文句。
灼熱のように感じさせる、乾いた手のひら。
その感覚が懐かしく責め立てる。
「……ちがう」
ゆっくりと膝に力を込め、震えながらも身体を起こす。
視線の高さが変わる。
さっきまで見上げていたはずの“少年”を、今度は見下ろす形になる。
喉が焼けるように痛む。
「あんたが……ここにいるはずないんだ」
言葉は静かだった。
けれど、その奥に滲むのは、拒絶だけじゃない。
わずかな躊躇と、拭いきれない寂しさ。
それでも。
一歩、後ろへ下がる。
「もう……違うから」
伸ばされた手は、触れることなく空を切る。
輪郭が、揺らぐ。
ガタッ
「ロビン? お前ここで何してるんだ?」
「……ッ…」
瞳が、大きく見開かれた。
夢が覚めて、目の前は崩れ、嘲笑うように影に消えていく。
部屋のスイッチが押される。
パッ、と光が走り、蛍光灯が数度明滅したあと、資料室を白く照らした。
乾いた息遣いが資料室の中を埋めていく。
「おい…、どうした?」
「……っ…平気」
よろけた身体が支柱に寄りかかり、頭上の箱がぐらりと傾く──。
「……っ…危ない!!!!」
ガシャンッ
乾いた音が室内に響いた。
「………」
大きな体が覆い被さる。
箱の中身は飛び出し、擦り切れた分厚いファイルや紙の束が床一面に散らばっている。
「っ…痛いな……誰がこんなギリギリのとこに置いたんだ…。中身が工具だったら、怪我してたぞ」
彼はほっとした表情のまま、落ちた資料を丁寧に拾い上げる。
なんで、こいつは。
「こんなの、アタシ一人でどうとでもなる」
「……意地っ張りにもほどがあるな。さっきのお前、完全に変だったぞ。守ったんじゃなくて、人として動いただけだ」
拾い終えた資料を箱に戻すと、それをひょいと持ち上げて、棚の奥のほう──今度はきちんと安定した位置へと収めた。
「……ほら、サボりはもう十分だろ? 午後のパトロールに──」
ドンッ
鈍い衝撃音が、静まり返っていた資料室の空気を震わせた。
「……っ、なにすんだ」
背中を押された勢いで、オーティスの肩がわずかによろめく。
だが彼は踏みとどまり、振り返った先で荒い呼吸が白く滲むのを見た。
冷えた室内に、吐息だけが妙に熱を帯びている。
「ヒーロー気取りはやめて」
低く絞り出された声は、怒鳴るというより、喉の奥で無理やり押し潰した感情そのものだった。
「あいつらから庇うのも全部ッ……! バディだかなんだか知らないけど、アタシは一人でも──」
言葉が途中で詰まる。
一人でも。
そう言い切るはずだった喉が、焼けるように痛んだ。
暗い棚の隙間に、さっきまで見ていた幻の残滓がまだこびりついている気がした。
あの伸ばされた手。
あの懐かしい声。
置いてきたはずの地下の湿った空気。
全部を振り払うみたいに、拳を握りしめる。
爪が掌に食い込み、じわりと熱を持った。
張り詰めた沈黙が落ちる。
蛍光灯の微かな唸り。
ブラインドを叩く細かな雨音。
遠くの空調が送る冷たい風。
その全部が、次の言葉を待つみたいに止まっていた。
オーティスのこめかみに青筋が浮かぶ。
普段なら笑って流すような軽口も、今はどこにもなかった。
金と群青の瞳が、真正面からロビンを捉えて離さない。
「それなら、もっと強くなってから言え」
「……っ」
息が詰まる。
言い返したいのに、言葉が出てこない。
悔しさとも怒りとも違う、もっと別の感情が胸の内側で暴れていた。
「俺は“庇ってる”んじゃない」
一歩、オーティスが近づく。
その足音が無機質な床に重く響いた。
「ただ、あいつらの言い草に腹が立つから言い返してるだけだ」
視線がぶつかる。
逸らせなかった。
「俺はもう、腹を括った」
その言葉に、ロビンの肩がわずかに揺れる。
「もしそれが気に食わないって言うなら、お前が自分で対処しろ。それができるなら、俺は黙る」
資料室の冷気が、肺の奥まで刺さる。
肩は震え、視線は揺れ、口元にはまだ言葉にならない感情が滲んでいた。
静かに唇を噛みしめる。
薄い皮膚に歯が沈み、じわりと鈍い痛みが広がった。
俯いたまま拳を握る。
その手は、さっきより少しだけ強く、確かな力を込めていた。
オーティスはそれ以上なにも言わず、支柱から手を離して踵を返す。
大きな足音が、資料室の奥に反響しながら遠ざかっていく。
扉が閉まる音は、不思議なくらい静かだった。
残された冷気の中で、しばらく動けなかった。
雨粒がブラインドを細かく叩く。
ぽつ、ぽつ、と規則的な音が、張り詰めた神経を少しずつほどいていく。
やがて、喉の奥からかすれた声が零れた。
「……、…わかってる」
窓を叩く雨音が少しだけ強くなる。
湿り気を帯びた空気が、冷えきった頬をそっと撫でていった。




