第47話:南の来訪者
氷は裏切らない。
低い天井に押し潰されるような場所で、呼吸はいつも浅くなる。
声を潜めれば、世界は遠ざかる。
扉一枚。
それだけで、外側は輪郭を失う。
泣き声も、笑い声も、すべてが鈍く濁っていく。
膝を抱えれば満ちてしまう、狭すぎる空間。
逃げ場としては、あまりにも都合がよかった。
そこにいれば、何も選ばなくていい。
何も決めなくていい。
何も、踏み出さなくていい。
掌の上で、白い冷気が形を持つ。
命じた通りに、歪んだまま固まるそれは、
どこまでも従順で、どこまでも正確だった。
氷は裏切らない。
だから、信じられた。
外の世界は、いつも遅れてやってくる。
不意に、境界を踏み越えてくる。
大穴から這い上がる手が、視界の端を濁す。
乾いた地上に、湿った影だけを残して。
掴むものも知らずに、ただ伸びてくる。
触れてはならない距離まで、無遠慮に。
それを振り払うことが、正しいことだと――
疑いもしなかった。
一歩にも満たない距離が、ひどく遠い。
踏み出せば届いたはずの場所が、なぜか先へ逃げていく。
硬直した足は動かない。
命じても、応じない。
氷は裏切らない。
命じた通りにしか、形を取らないのに。
ならば。
動かなかったのは、何だ。
届かなかったのは、どこだ。
あのとき、止まっていたのは――
氷ではない。
そうであればいいと、
まだ、どこかで願っている。
ニコラス先輩の一件は、表沙汰にはならなかった。
公式な報告書にも、メディアにも、その名は記されていない。
だが、都市の耳目がそれを見逃すはずもなく、いくつかの週刊誌や深夜のテレビコーナーでは“水鏡の謎”や“騎士の失踪”といった煽り文句と共に、未確認情報か都市伝説として扱われ続けている。
裏で動いたのはカルロス長官だった。
あの人らしい、徹底した火消しと後始末。
以前から、ニコラス先輩は小規模事件への関与の疑いがあったらしく、目をつけていたそうだ。
俺だけを現場に向かわせたのは、大規模な捜索にすればするほど、ニコラス先輩の罪や二年のことが浮き彫りになり、罪が重くなることを避けるためなんだろう。
理由はなんであれ、世間が見るのは上辺のみ拾われた情報だけだ。オーダーを拉致したことと、小規模とはいえ"犯罪に関わった元オーダー"……大きな見出しになる。
そうなればニコラス先輩の復帰は望めないどころか、一生犯罪者扱いをされることになるかもしれない。
それだけは絶対に避けたかったんだろう。
詳細を知る者は少なく、知ったところで語る場もない。
オーダー機関は“ノーコメント”の対応を貫き通し──そして、俺はしばらくの謹慎を言い渡された。
表向きには自宅療養。
体中の負傷については、芽吹町の小さな病院で治療を進め、現場や本部には顔を出さず、静かに始末書をまとめ、郵送された書類の整理作業を進める日々を過ごした。
そんな謹慎期間も明けた、ある朝。
久々に通るセキュリティゲートの向こう側。
深呼吸と共に一歩を踏み出せば、ほんのり焦げたような匂いが鼻先をくすぐった。
「何の匂いだ…? 甘い匂い…?」
謹慎の間に鼻の調子まで悪くなったのか?
すると、どこか軽やかな声が耳に入った。
「…ん? おお? あそこにいる、でっけえ奴はオーティスじゃねえか!? 久しぶりだな! おめぇ、また身長伸びたんじゃねぇか?」
振り返れば、南区の任務から帰還した先輩オーダーたちがこちらへ手を振り駆け寄ってくる。
返答する暇もなく、肩に腕を回され、首ががくんと下がった。
陽に焼けた肌と笑い声、やたらと明るい雰囲気が懐かしい。
「戻って…っきてたのか。たしか、2か月ぶり…でしたっけ?」
「ああ! 思ってたより南区は悪くなかったぞ! 人は明るいし、見回りで歩いてるだけなのに、焼き菓子くれるおばちゃんがそこかしこにいてな? それにパレードに音楽! 案内役もいたから仕事ってより観光気分だったぜ」
「そうそう! 女の子たちも綺麗な子ばっかで、熱いとこだからか露出が………コホン。んでもなぁ、あの暑さは二度と経験したくない…汗で体中べとべとになるし、いくら水を飲んでもすぐ喉が乾くしな…」
「現地の人達は“これでも今年はマシなほう”って言ってたよなぁ。お前ももう 5年目だろ? いずれ派遣されるかもな、覚悟しとけ」
肩を叩かれ、笑い合いながら廊下を進む。
賑やかさの中に混じりながらも、どこか自分だけ別の時間を歩いているような、そんな感覚が拭えなかった。
ふと、トレーニングルームが目に入り、足を止めた。
「あ…、俺はちょっと体ほぐしてから行くので、先行っててください!」
「おう、了解!」
「迷子になんなよー! いつまでたっても来なかったら、受付に迷子の呼び出ししてもらうぜ―!」
からかってくる声に苦笑しつつ、彼らの大きな笑い声を背に浴びる。
眩しい電子パネルに目を細めながらログインし、軽くストレッチをしてからマシンに向かった。
家でもできないことはないが、こっちの方がしっくりくる気がする。
謹慎中に鈍った体に鞭を打つように、黙々と負荷を重ねた。
呼吸が荒くなるにつれ、筋肉の張りが戻ってくる。
痛みではなく、動けることの感覚が蘇ってくるのを、俺は確かめるように味わっていた。
珍しく、人がいない。
一人で黙々と筋肉を育てられることに越したことはないが、きっと、あの先輩たちに釣られて作戦部は今頃賑やかになっているんだろう。
「30分じゃ足りないな…。明日からもう少し早起きするか」
体が鈍っている。
長官から言い渡された謹慎期間は30日。
元々は数日と伝えられていたが、あの件の処理で事情が変わったんだろう。
謹慎で済まされただけでも、有難い話だ。
その間、自宅でのトレーニングは欠かさなかったが、現場に出ていないとでは話が違う。
どこか、自分の体が浮いているような、地に足がついていないような気分が拭えない。
「なあ、あとで食堂行こうぜ? 南区の飯も超美味かったけど、やっぱ地元の料理が最高だわ」
「いいねー! 俺は魚の煮込みがいいなー」
「それは東区の飯だろ」
遠くで先輩たちの声がする。
急がないと、またからかわれそうだな。
パシュッ
ロッカールームに入ると、奥にある照明の落ち着いたシャワー室に入り、個室の蛇口を捻った。
個室と言っても、首から下をぼかす擦りガラスの扉で遮られているだけで、プライバシーはあまり守られていない。
熱いシャワーが頭から降り注ぎ、髪を、首筋を、広い背中と分厚い胸板を滑り落ちていく。
筋肉の輪郭をなぞるように水が伝い、谷に沿って床へ流れた。
汗で冷えた身体がじわじわと温められ、体中の血のめぐりが良くなる感覚の心地良さと共に、傷跡が収縮するむず痒さで嫌でも意識させられる。
右腕にうっすらと残った傷跡。
攻撃を受けるように肘を上げると、あの夜がフラッシュバックする。
視線を落とし、指先でそこに触れるものの、痛みはない。
傷が与えられた夜──先輩の顔が、どうしても頭を離れない。
先輩は今頃、中央区の収容所へ向かっているはずだ。
俺の謹慎期間中、聖譜会による尋問と裁きは、異例の早さで終わったと聞いている。
本来なら〈断層監獄〉へ。
凶悪犯罪者専用のネクサリス層外浮遊島に送られるはずだった。
だが、カルロス長官が裏で手を回したらしく、ニコラス先輩は元オーダーとして、そして何より、かつてこの街を守った英雄としての最悪の末路を免れた。
管理が厳格な"律檻"とも呼ばれる中央区第2収容所であれば、承認の上で面会の申請も可能だ。
今度は、締め切られたカーテン越しではない。
──分厚いアクリルと、冷たいシールド越しだとしても、顔を見て話すことができる。
かと言って、オーダーが何度も尋ねるのは目立ちすぎる。
折を見てになるか。
ゆっくりと栓をひねり、シャワーを止めた。
ガラス扉を押し上げ、バスタオルで雑に頭を拭いてからシャツに袖を通すと、ちょうどトレーニングを終えた同期たちが入ってきた。
ヤスジとアイザックだ。
雑談に夢中な彼らの横、軽く挨拶を済ませ、肩をよけて隙間を通り抜ける。
トレーニングルームから出ると、受付のカウンターで書類の確認をしていたマーサが、顔を上げて微笑んだ。
「あら、オーティス。体調はもう大丈夫なの?」
「ああ、心配かけたな」
軽く手を挙げ、そのままエレベーターに乗り込む。
内壁に映る自分の姿をぼんやりと眺めながら、深く一息。
数十秒後、エレベーターの扉が開くと、空気ががらりと変わった。
重かった空気は少しずつ溶けて、今は穏やかな賑わいが戻ってきていた。
室内には暖房の重たい空調が流れ、足元からじんわりと温まる。
帰還した先輩たちが持ち帰った土産が、季節外れにもあちこちに飾られ、殺風景な場所に彩りを加えていた。
デスクの一角には、包装の破られたパイナップル味のパイ。
その隣には鉢植え──南区特産の花が丁寧に並べられていた。
さっきから漂っていた匂いは、この花が原因らしい。
「あれ、今日から復帰?」
どこか口のもごついた軽やかな声に振り向けば、銀縁メガネに赤毛の男が、ひょろりとした手を振っていた。
パイをもぐもぐと咀嚼しながら肩を叩いてくる。
「すまん。お前も謹慎だったんだろ?」
「気にするなよ! 俺も分かってて手伝ったんだし、あれは自己責任! カルロス長官も“まあ、お前に関しては数日で十分だろう”って感じだったしさ。なんだかんだ優しいよな、あの人。支援部に来られた時はほんと怖かったけど……」
「はは、ほんとにな」
ドアフレームに肩を預けて、ぼんやりと作戦部の風景を眺める。
と、その時。
足音もなく背後から、冷たい空気が滑り込んできた。
暖房の効いた室内で、ひときわ浮いた冷ややかな存在。
長い前髪の隙間から覗く不機嫌そうな顔つきが、途端に空気を鎮める。
挨拶もせず、ロビンはただ無言で自分のデスクへ向かって歩いていき、椅子に沈み込むように座ると、長く重たいため息を吐いた。
「……あいつ、何かあったのか?」
「うん……まあ、ちょっとな」
苦笑まじりに小声で返す。
「お前が謹慎してた間、ずーっと社会奉仕活動に向かわされてたんだよ」
「あいつが……社会奉仕? 一ヶ月で人は変わるもんだな」
「ちがうちがう! それがさ。カルロス長官の命令で“任務”って言われて行ってみたら、現場が保育施設だったり、災害復旧現場だったり」
「なるほど、騙され続けたってわけか」
「……さすがカルロス長官。人使いが容赦ないよな」
苦笑いを交わしつつ、やれやれとデスクへ歩き出そうとしたその時。
この空気を裂くようなバタバタとした足音と、タイルの上を滑る重々しいキャスターの音に全員が振り返った。
なにやら先輩たちは目を見合わせて、肩を竦めている。
……なんだ?
バーーン!!!!
「じゃじゃーん!! ただいま〜! みんな元気してた〜!?」
扉が勢いよく開き、華やかな声が作戦部の空気を揺らした。
飛び込んできたのは、やけに眩しい男。
照明を受けて弾くようにキラキラと輝く金髪が無造作に跳ねている。動くたびにそれが軽く揺れて、視線を引きつけて離さない。
こめかみから後頭部にかけては刈り上げられた黒が覗き、褐色の肌とのコントラストが妙に目立つ。襟元から覗く刺青は、南区特有の文様で、まるでそのまま外の空気を連れてきたようだった。
白とグレーで統一された無機質なオーダー機関の内装に、その存在はあまりにも場違いで──だからこその注目の的。
淡いターコイズ色とピンクのトロピカル柄シャツ。
規律の象徴であるボディアーマーの上から、それを平然と羽織っている神経も含めて、どう考えてもまともじゃない。
右手に引きずるキャリーケースのキャスターが、タイルの床をガラガラと鳴らす。
その音すら陽気で、静まりかけていた空気を無遠慮に掻き回す。
外の匂いを纏いながら、作戦部の扉を勢いよく開けたその人。
「アミル! やっと来たのか? 大遅刻だぞ!」
「え、これ遅刻判定? うそでしょ〜まだノーカンの時間帯っしょ?」
冬ももうすぐ始まるというのに、その景観にはあまりにも不釣り合いな金縁サングラスを額に上げて、ぱちんとウインクをする。
「先輩、土産はないんですか?」
ダニエルが駆け寄ると、アミルは自慢げにふふんと鼻を鳴らしてしゃがみこむ。
「ちょい待ちちょい待ち〜、ちゃんと用意してるって」
今までに訪れた旅行先のステッカーや写真が乱雑にはられたカラフルなキャリーケースを抱きしめると、土産を心待ちにしている後輩たちを上目遣いで視線を上げた。
「この俺がさ〜、可愛い後輩ちゃん達に手ぶらで帰るわけなくない?」
ジッ
「じゃーーーーん! はいこれ〜! 友情の証ってやつ! ノリでつけてこ!」
キャリーケースを開けると、中からぶわっと花がこぼれた。黄色とオレンジ、南を思わせる鮮やかな色彩とスパイシーな香りが広がる。
「ふふん、どうよどうよ〜!」
鼻歌まじりに花を拾い上げ、笑顔でオーダーたちの首に掛けて回っていく。
ついでのように、俺の首にもバサッと装飾が追加された。
横を見るとジョシュは花を見て興味ありげに目を輝かせている。
だが、他のオーダーたちはというと──無言で首飾りをキャリーケースに戻し、自席へと戻っていく。
「え? まってまって、なんで!? 最高のプレゼントだよね!?」
視界の開けた場所にぽつんと残されるアミル。
周囲の無反応にがっくりと肩を落とし、いじけたように口をすぼめた。
「……えー…酷くない? みんな超喜ぶと思って、お店ハシゴしてこんなにかき集めたのにぃ」
「まあ…、南区はフルーツとか魚介とか…食べ物が有名だし、そっちを期待してたんじゃないか…?」
ジョシュと顔を見合せながら、言葉を選びつつ答えたが、当の本人は数秒で気を取り直していた。
それには理由がある。
「───ん…あれ? まさか…まさかまさか!!? あそこにいるのは女の子……!? え、ちょっと待って!? なんで俺聞いてないの!? 言ってくれれば超おめかしして来たよ!? ついにこの本部にも紅一点が!!」
「そうか! 先輩たちは南区にいたから任命式のこと知らないんだよ!!」
「あ、ちょ……っ! アミルさん!! そいつは……ッ!」
──やめた方がいいと言う暇もなく。
バサッ
最後に残っていたピンク色の花飾りを彼女の肩に落とす。続けて、キランと輝くような満面の笑みで彼女の肩に手を置いた。
「初めまして〜! ねえねえ、名前教えてよ〜」
空気がヒヤリと凍る。
「俺アミルなんだけ──」
「………さっきから煩い」
ガタン、とアミルの視界が揺れる。
案の定。
立ち上がった振り返りざま、胸ぐらを鷲掴んだロビンは、低く冷えた声で言った。
「こっちは報告書書いてんの。邪魔だから口閉じて引っ込んでて」
周囲で騒いでいた南区帰りの先輩たちも、同期も、後輩たちも動きを止め、緊張の中でごくりと喉が鳴った。
「……あーあ…」
ジョシュがそっと俺の肩に手を置き、同情する目を送る。この後、俺がロビンの代わりに説明をするか、連れ出すか。
この場の回収は俺に委ねられてることを確信した。
ぐらり。
アミルは体をふらつかせて後ろに放置されていた椅子にぶつかる。
椅子はガラガラと何処かへ行って。
頭にかけていたサングラスがカツン、と床に落ちた。
「………っ…」
「おい、屑女! 汚い手を離────」
ダニエルが声を荒らげた。
──その次の瞬間。
「ビビッと来たーーーー!!!!」
「なにこの感じ!!」
三度、空気が凍った。
アミルの反応は、この場の誰もの想像を遥かに超えていた。
「その情熱的な拳を見て!! 俺を見つめる大きなアーモンド型の目! 凛々しい眉に分厚い唇!! ちょっと待って無理、俺のタイプど真ん中なんだけど!!」
胸ぐらを掴まれたまま、アミルは興奮した様子で端末を取り出す。
ぶんぶんと、犬でもないのに錯覚か、しっぽが見える。
「Voxある? ない? じゃ連絡先ちょうだいよ、住所でも全然あり。文通から始めるロマンチックな恋路も全然おっけー」
「……は、………?」
低く掠れた声がロビンの喉から漏れる。
この状況に1番顔を引きつらせているのは彼女本人だ。
胸ぐらを握っていた手に力が入り、ぐいとアミルを壁際に押しやる──かと思いきや、彼女は手を離した。
気味が悪いと言いたげな顔をしながら一歩下がる。
「最初はもちろん友達からで、仲良くなったらデートしたいなあ。どこいく? 俺のデートプランはいくつかあるんだけど、もちろん君のために最初から考え直すとして……」
「あ……あんた頭おかしいんじゃないの……」
呆れると言うより、ドン引きしている。
あんな顔を見たのは初めてだ。
彼女は、花の首飾りにできるだけ触れないように外すと、アミルの胸に突き返した。
「あ、ロビ……」
そしてそのまま、俺を横切って作戦部を出ていってしまった。
恐る恐る後ろ姿を見てみたが、怒りというより首を傾げて状況が掴めてない様子だ。
足音が遠ざかっていく。
誰もすぐには口を開かなかった。
さっきまで騒がしかった室内が、嘘みたいに静まり返っている。
椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響いた。
誰かが息を吐く。
別の誰かが、視線を逸らす。
まるで、嵐が通り過ぎたあとの確認のように顔を見合せあう。
ダニエルは開きかけた口を閉じきれず、そのまま固まっていた。
怒鳴る勢いだったはずの声が、行き場を失って喉の奥に沈んでいる。
ジョシュは苦笑を浮かべたまま、視線だけで「なんだこれ」と訴えてくる。
こめかみを押さえたまま、ようやく息をついた。
「まあ……アミルさんが五体満足で済んで良かった……のかもしれないな」
「……う、うん…一時はどうなるかと…」
ジョシュはやや震える声で頷き、俺もそれに同感といった表情を浮かべた。
2人の視線の先には、花飾りを指先で弄びながらによによと笑うアミル。
さっきまで掴まれていた胸元を気にする様子もない。
──絶望的に、相性が悪い。
しかし、絶望的に。
あの人の諦めの悪さは尋常ではないと言うことを、この場にいる誰もが知っていた。
……あれを止められる気がしない
関われば面倒なことになる──そう直感した。
冬の空気に似つかわしくないその香りだけが、妙に長く残り続けていた。
ざわめきの奥でキーボードの音がぽつりぽつりと鳴り、遠くでプリンターが唸りをあげ始めた。




