36.スイーツ。
スイーツ。
それが、蝶と蛾との亀裂の原因なのだという。
えーと。
「それって、あれですか?
つまり、クッキーとか、ケーキとか、そういう?」
念のために確認すると、マダムは、いつの間にか取り出した白いハンカチで、口元を覆った。
鮮やかな羽根のマダムに、シンプルな白のハンカチは、とてもよく映える。
だが、肝心のマダムは、浮かない表情だった。
「そのとおりよ。
私たち蝶と蛾はね、甘いものを好むの。」
それは、何となくわかる気がする。
「特に、花の蜜ね。
やさしい甘さと、花ごとに少しずつ違う香り。
それらが、どうしようもなく私たちを惹きつけるの。」
なるほど。
「一種類で楽しんでも、ブレンドするのもいい。
伝統的なレシピもたくさんあるの。
もちろん、神に捧げるためのレシピもね。」
「そうなんですね。」
どうやら、奥が深いようだ。
人間にとってのお茶やコーヒーのようなものだろうか。
感心していると、マダムはため息をついた。
「あなたは、知っているかしら。
花には、夜しか咲かない花もあれば、昼にしか咲かない花もあるのよ。」
「はあ。」
ぱっと思い浮かんだのは、朝顔だった。
朝顔に蜜があるのかどうかは、今ひとつ自信がないが。
「だから、蝶だけが持っているレシピ、蛾だけが持っているレシピというのがあってね。
もちろん、分け合うこともないわけではないわ。
でも、稀少なものは、みんなあまり譲りたがらないの。」
「それは、そうなるでしょうね。」
「問題になっていたのは、蝶が持っていた、稀少な奉納用のレシピ。
蝶の間では、虹の露と呼ばれて、珍重されていてね。
できたものは、全て奉納されて、神が残したぶんだけを、撤饌として、私たちが分け合って食べるの。
それを、蝶たちは、なかなか蛾に譲らなかったわけ。」
なるほど。
それで、喧嘩になったというわけか。
「どちらの気持ちも、まあ、わかる気がしますけど。」
蝶としては、それは、譲りたくないだろう。
だが、同じ神に仕える仲間のはずなのに、自分たちだけ食べられない蛾の不満も、分からなくはない。
一言で言うと。
食べ物の恨みは怖い、ということだろうか。
「とは言え。
蝶の皆さんが採った蜜で、蝶の皆さんが作ったものですもんね。
仕方ないですよね。
蛾には蛾の、そういうレシピもあるんでしょうし。」
一応、蝶の立場に立ってコメントすると、マダムは我が意を得たりとばかりに頷いた。
背後のクワガタムシも、クワを振り乱すようにして頷いている。
危ないので、どうか落ち着いてほしい。
「本当に、そうなのよ。
自分たちの都合ばかり、言い立てて。
しまいには、蝶ばかり陽の当たる場所にいて目立ってる、とか、蝶ばかり神に可愛がられている、とか、ひがみだすの。
全く、鬱陶しいったらありゃしない。」
マダムまで、興奮してきてしまったようだ。
白いハンカチを握りしめる手には、必要以上に力がこめられている。
「そ、そうなんですね。
さ、どうぞ、お茶でもお上がりください。」
どうか、お茶で荒ぶる心をしずめてほしい。
宗教うんぬんの問題でこそなかったものの、面倒さのレベルは変わらないようだ。
母も、遺産相続をめぐる愚痴の中で言っていた。
身内どうしの争いでは、くだらないことが次々とほじくり起こされ、正解のない争いの火種になるのだと。
だからあんたは、絶対関わるんじゃないよ、とも。
だってみんな糞なんだから、と、まるで宇宙の真理を告げるように言った母の、真面目な顔は今でも覚えている。
投げつけられるのが糞なら、投げ返されるのも糞。
みんな、さっさと水に流しちゃえばいいのに、いつまでもグズグズグズグズ溜めこんで。
本物の糞の方が、肥やしになるだけマシなくらいだわ。
どちらかといえば温厚で物静かな母らしからぬ言葉を、当時のわたしは、へえ、とか、ふうん、という薄いリアクションで聞き流していた。
だが、今なら母の気持ちが分かってあげられそうだ。
残念ながら、わたしは既に関わってしまった後だが。
「——ごめんなさいね。
つい、興奮してしまって。」
幸い、マダムは落ち着きを取り戻してくれたようだった。
「ともかく、その、虹の露よ。
奴らはね、蛾に、ないなら自分たちで作ればいいじゃないか、と勧めたわけ。
自分たちが元いた土地の花に、よく似たものがあるから試してみないか、って。」
「はあ。
なんだか、意外に真っ当な話のような。」
ぐずぐず文句を言っているより、よほど前向きな気がするが。
「その花が、まともな花ならね。」
マダムは、再びハンカチを握る手に力をこめた。
「その花でつくった蜜を、蛾たちは神に奉納するようになったわ。
他の捧げ物や神殿の飾りにも、奴らのよこしたものが混じるようになった。
それからよ、神がおかしくなったのは。
まず、私たちに言葉が届かなくなったわ。
それから、森への加護は途切れがちになり、黒い穢れが、森じゅうに漂うようになった。
それに触れたものがどうなるか、あなたも知ってるでしょう?」
そうか、もじゃもじゃになるのか。
わたしは、頷いた。
次回の更新は、23日の予定です。
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