18.ほんっと、どういうことなの……。
「ほんっと、どういうことなの……。」
痛い。
痛すぎて、痛いというよりむしろ熱いくらいだ。
頭の左半分が特にひどかった。多分壁が左のほうからやってきたせいだろう。
右目だけを、そろそろと開ける。
青く澄み渡る空が、わたしの弱った網膜を刺した。雲ひとつなく、鳥一羽の影も見えない。完璧な、青空だ。
乾いた風が、わたしの頬を撫でて通り過ぎていく。
指先であたりを探ると、乾いた土のようなものに触れた。
——多分、わたしはここを知っている。
今、わたしの持つ、一番古い記憶。
物理的な壁にぶち当たって死んでから初めてやってきた、非物理的な壁のある、荒れた大地だ。
わたしはその地面の上に、だらりと横たわっていた。
右手を地面につき、ゆっくりと身を起こす。
わたしの眼前に燦然と聳えるのは、紛れもない、妙に見慣れてしまった、あの白く高い壁だった。
見回してみたが、あたりには誰もいない。わたし一人きりだ。
「あんの、アルマジロ野郎。」
低く吐き出した毒が、乾いたあたたかな風に吹かれ、消えてゆく。
左手で、まだ鈍く痛む頭を押さえながら、よろよろと立ち上がった。
ひどく、静かだ。
さっきまで、良くも悪くも賑やかな場所にいたせいだろうか。実際以上に、静かで空虚な感じがする。
ほんの少し寂しいような気がするのは、多分、錯覚だ。きっと。
それにしても、どうしよう。
わたしはぽつんとその場に立ち尽くした。
この場所には、何もないのだ。わたしと壁以外は。
ひとまず、マダムから逃げ出せたのはよかった。あのままあそこにいたら、ほんとうに頭がおかしくなりそうだった。
あれは、蝶固有の特殊能力か何かなのだろうか。
彼らから漂ういい香りをかぐと、頭の一部が麻痺したように、うまくはたらかなくなる。そして、よく熟したみかんの皮を剥かれるように、するするとわたしを覆っていた何かが引き剥がされ、あらわにされてしまうような感じがするのだ。
あのマダムは、一体何者なのだろう。
彼女を守っていた用心棒のクワガタムシも、カタギの商売をしているかどうか、いまひとつ怪しいところがある。挟んだ相手が死ぬまで離さないことで有名らしいし。
さっきはふーん、そんなもんかな、で流してしまったが、それってけっこう、かなり、ものすごく、やばいのではないだろうか。
それにしても、アルマジロも、カタツムリも、ひどい。
自分だけ隠れていたアルマジロは問題外だが、カタツムリも困った顔をしていないで助けてほしかった。
今になって、ふつふつと怒りが沸いてくる。
「酷すぎる。」
呟きは、青い空に吸い込まれて消えていく。
念のため、もう一度あたりを見回してみたが、やはり何もない。
もじゃもじゃしたものが転がっていないか、地面も確かめたが、少なくとも近くにはそんなものはなかった。
仕方がない。
あてもなく、わたしは歩き出した。
◇◇◇
太陽を背に、壁に沿って歩いてゆく。
びっくりするほど、景色が変わらない。
まるでものすごく省力化されたゲームマップのようだ。同じテクスチャをひたすら貼り付けまくって一つのステージを作ったような。
あるいは、あるポイントまで進むと、強制的に最初の位置に戻され、進んでいるようで、実は全く進めていないような。
——まさかね。
まさか神様も、そんなに適当に世界をメイクしたりはしていないだろう。
そうは思いつつも、わたしは定期的に立ち止まり、壁の横に石を並べてみることにした。
いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう。
歩数を数え、百歩歩くごとに、大きめの石をひとつ、壁につけて置く。
石を、10個くらいは置いただろうか。
幸い、私の行く手に、壁の近くに置かれた石が見つかることはなかった。
ということは、本当に、行けども行けども変化のない世界、と言うのが正しいのだろう。
壁を見上げる。
壁は、白く、少しざらりとしている。今や馴染みになってしまった、いつもの壁だ。
この壁の向こうには、何があるのだろうか。
もしかして、レッサーパンダがどろんこになった森や、それをきれいに洗ってやった湖などが、この向こうにあるのかもしれない。
あの、つやつやになったレッサーパンダの姿を思い出した。
あれは、本当に、かわいかった。最初はあんなに嫌な感じだったのに、不思議なものだ。多分みんな、邪悪なもじゃもじゃに取り憑かれていたせいだったのだろう。
「毛が乾いてから、撫でさせてもらえばよかったな。」
乾くまでの時間はなかったので、仕方ないのだが。
「毛をなでなでするのが、すきなの?
いいよ。なでても。」
突然、か細い声が聞こえた。
「えっ?」
空耳だろうかと、あたりを見回す。
「ここだよ。ここここ。ここにいるよ。」
つい、と、そでを引っ張られた。
おそるおそる、重たくなった左腕を見やる。
そこにきゅっと巻きついていたのは、ものすごく小さな、黄色いリスだった。
「あなた、いつから……?」
唖然としつつ、訊ねると、小リスは申し訳なさそうな顔をした。
「あの、湖から。猿おばちゃんの木の実の袋の中にいたの。」
そうだったのか。
「あなたについていけって、言われたの。
あなたの服、ポケットがたくさんあるから、入ってた。木の実も入れてある。」
そ、そうだったのか。
それは気づかなかった。
「どうしてついていけって言われたのか、心当たりはある?」
訊いてみると、小リスは小首をかしげた。
「わかんない。けど、ユーシャをよく見てなさい、って言われた。」
「そ、そっか。」
なんだろう、スパイってことかな?
「短い間だけど、見てみてどうだった?」
んー、とかわいらしく鼻を鳴らして、黄色い小リスはわたしを見た。
「ぼろぼろだね。それに、どろどろだね。ごはんを食べて、お風呂に入った方がいい。」
……うん。そうだね。ありがとう。
「お風呂はあとにして、まずコロッケを食べるといい。」
えっ?
小リスは、わたしの体を器用に駆けおりると、いつの間にか足もとに置いてあった、揚げたて牛肉コロッケの袋の口を開いた。
なんとも言えない、香ばしい香りが漂う。
「人間は、これがすきなんでしょ?
これを食べて、お風呂に入ろう。
そしたらぼくのこと、なでなでしてもいいよ。」
うん、相変わらずみんな、主語が巨大すぎるけど。
まあいいや。
ありがとう、とわたしは言った。
次回の更新は、11日の予定です。
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