11. 壁をすり抜けたといっても
壁をすり抜けたといっても、決してそれは一瞬のことではなかった。
やたらとぐにゃぐにゃして身動きが取れない空間の中で、わたしはまるでパン生地のように叩きつけられ、ぐりぐりとこね回され、そしてまた叩きつけられた。
普通に痛い。
しかも、回転しすぎて気持ちが悪い。
死という単語が頭にちらつき出したとき、ようやくわたしの体は解放され、べちゃりと地面に叩きつけられた。
「いった、痛い……」
うめき声をあげながらのびていると、隣でどすんと衝撃音がした。
丸く大きいボールのようなものが、何度かころころ転がり、ゆっくりと広がる。
「ふぅ、ひどい目にあったぜ。お前、大丈夫か?」
アルマジロだ。
立ち上がったアルマジロは、ぶんぶん頭を振りながら、わたしに手を差し出した。
「……ありがとう。」
アルマジロは、持ち前の防御力で、ダメージを最小限に抑えこんだらしかった。
過発酵してしぼんだパンのように、ぼろぼろになってしまったわたしとは違い、彼はかなりぴんぴんしている。
まさか自分がアルマジロならよかったと思う日がくるなど、想像もしていなかった。
死んでみてやっと気づいたが、やっぱり重要なのは防御力のようだ。人間なんて脆弱すぎる。もし次に生まれ変われるなら、アルマジロやカメ、貝類など、防御力高めな生き物を狙っていきたい。
「しっかし、本当に湖に来ちまったぜ。おどろき桃の木コーヒーの木だな。」
わたしを助け起こしながら、アルマジロは間の抜けた軽口をたたく。
つっこむ気力もなく、わたしはぐったりとアルマジロに寄りかかり、あたりを見回した。
なるほどそこには、鬱蒼と繁る木々に囲まれた湖が広がっていた。私たちがいるのは、その湖のほとりの砂地の上だった。
砂は白っぽく、さらさらできれいだ。
しかし残念ながら、その砂地も、湖ごと例の白い壁に囲まれており、閉塞感が半端ない。
湖も、きれいといえばきれいなのだが、どこか違和感がある。というのは、その水の色は、なんだか異常に暗いのだ。
空はよく晴れていて、あたりは明るい。
それなのに、まるで湖だけが夜に取り残されてしまったような、奇妙な感じがするのだった。
「なんだか、気持ち悪くない?」
アルマジロにも訊いてみたが、あまりぴんとこなかったようだった。
「まあ、そりゃ、あれだけぐちゃぐちゃにされれば、気持ち悪くならないほうがおかしいんじゃねえ?」
「そうじゃなくて、場所の話。」
「場所? って、のあああああぁ!」
しかし、わたしたちの会話は、凄まじい水音と、飛び散る汚れた水しぶきでぶった切られた。
「ちょ、なに、なんなの、これ?」
思わず叫んでしまったが、答えはすぐに分かった。
湖の浅瀬にその背(?)をのぞかせているのは、見間違えようもない、あの黒いもじゃもじゃだ。
アルマジロは、泥水が顔にかかってしまったらしく、懸命に手で顔をごしごしこすっている。
わたしも顔こそセーフだったものの、服にはしっかり泥のしぶきがかかってしまった。これで、靴だけでなく、服までどろどろだ。
「さあ、準備は整ったな。」
一番最後に現れ、意気揚々と私たちに告げたのは、あの青い鳥だった。
「ちょっと! 落下地点はもう少し考えてくださいよ! 私たちまでどろどろじゃないですか!」
思わず食ってかかったわたしを、青い鳥は聞き分けのない子どもを見るような目で見た。
「そのようなことは、瑣末なこと。
どのみち皆、これからどろどろになるのだ。」
えっ?
「さあ、今こそ全ては整った。
——洗いなさい。」
鳥は、厳かに告げ、その晴天のように美しい翼で、もじゃもじゃのほうを指し示した。
「ええっ、と……、」
つまり鳥は、こう言いたいのだろうか。
この湖の浅瀬に浸かりながら、このもじゃもじゃを、道具もなにもなしで、洗え、と?
「無理です。無理。」
わたしはきっぱり拒否したが、鳥もきっぱりと首を横に振った。
「無理ではない。無理と思うから無理になるのだ。なせばなるものなのだ。」
なんという危険思想だ。この青い鳥が上司だったなら、即日バックレている自信がある。
しかし今、四方は全て壁に囲まれている。バックレようにも逃げ出す先がない。
絶体絶命のなか、一縷の望みをかけてアルマジロの顔を見たが、アルマジロはおろおろと冷や汗を流すばかりで、全く役に立ちそうになかった。
「……分かりました。」
分からないけれど、分かった。
「それなら、お手本を見せてください。
そしたらわたしも、同じようにやりますから!」
相手は鳥だ。手がないだのなんだの理由をつけて断られたら、断固として拒否し続ける腹づもりだった。
しかし。
「やれやれ、手のかかることだ。
ならば、とくと見なさい。」
思いがけず、青い鳥はあっさりと頷き、宙に舞い上がった。
鳥は、わたしの頭上をぐるぐる回ってから、水鳥のようにもじゃもじゃの近くの水面に浮かぶと、広げた羽をもじゃもじゃにかざした。
すると、なんということだろう。羽をかざした部分から、まるで墨のように、黒い何かがもやもやと溶け出してきたではないか!
劇的にきれいになったわけではないが、確かにいくぶん、そこの色味が明るくなったような気がしなくもない。
「これは私の力ではないぞ。使ったのはお前の力だ。つまり、お前は私よりももっとうまくできるということだ。」
本当だろうか。
ちょっと心を動かされたときだった。
「あ、あの! 俺にもそれ、できますか?」
つぶらな瞳をきらきらさせたアルマジロが、質問した。
「うむ。多分、できるな。」
鳥は頷く。
「そこの勇者の卵に触れてから、手をかざしてみろ。直接触ってもいいぞ。汚れが、よく落ちる。」
無駄に美しいバリトンボイスで告げられる内容に、なんだか脱力してしまう。
勇者とは、あれか。通販で買える洗剤か何かなのだろうか?
「ほ、本当ですか!」
しかしアルマジロは、声を弾ませ、澄んだ瞳でわたしを見た。
「なあなあ、俺もやってみたい! 触っていいか?」
無邪気な声に、さらに力が抜ける。
「いいよ。はい。」
手を差し出すと、アルマジロはわたしの手を両手で握って、ぶんぶん振った。
うん、落ち着こう。振る必要はどこにもない。
アルマジロはそのまま、じゃぶじゃぶと勢いよく湖に足を踏み入れた。
水は、そこまで深くはない。ちょうどアルマジロのしっぽの下あたりだ。
「行くぞぉ!」
アルマジロは、威勢のいい声をあげ、もじゃもじゃのもじゃもじゃの毛に、勢いよく手を突っ込んだ。
「おお、おお! なんだこれ、すごいぞ、すごい!」
アルマジロが、興奮したように叫ぶ。
わたしも、思わず息をのんだ。
アルマジロが手を突っ込んだところから、凄まじい勢いで黒いもやもやが溶け出している。
黒い毛すら溶け出てしまったかのように、赤茶色の真っ直ぐな毛がのぞき始めている。
「ちょっとこれ、すごいよマジで!
なあなあ、人間! お前もやってみろって! これスッゲーからぁ!」
通販番組からオファーがきそうな興奮ぶりで、アルマジロが叫ぶ。
悔しいが、こうなってしまっては、わたしも興味が抑えきれない。
「わかったから。今行くから、落ち着いて。」
精いっぱい冷静なふりをしながら、わたしは湖へと足を踏み入れたのだった。
次回の更新は、21日の予定です。
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