003 『魔抜け』の覚醒。魔法なき少年に宿る気功の力、そして生存への反撃。
「ギィググァゲゲェッ……!」
不気味な鳴き声が森の静寂を切り裂いた。
背後から聞こえるのは、湿った泥を叩く足音。それは俺の鼓動よりも速く、確実に距離を詰めてくる。
振り返った先には、醜悪な緑の肌を晒したゴブリンがいた。
そいつの眼窩に浮かぶ濁った瞳は、ただの野獣のものじゃない。
獲物を追い詰め、慈悲なく解体することを愉しむ、確かな「殺意」がそこに宿っていた。
剥き出しの牙からは、ねばついた涎が滴り落ちている。
(まずい、死ぬ――!)
脳裏に警鐘が鳴り響く。
魔物に宿る魔力が、そいつの筋力を極限まで引き上げているのが分かる。魔法を持たない俺にとって、奴らは絶対的な捕食者だ。
一匹見れば十匹いると思え。この森の常識が、俺の背筋を凍らせる。
「くそっ、走れ……走るんだ、俺!」
崖から落ちた全身の痛みが、走るたびに骨を削るように響く。
だが、死への恐怖が痛みを超えた。枝で頬を切り、石で足の裏を裂きながら、俺は必死に駆けた。
視界が霞む。肺が焼き切れるように熱い。
それでも、背後のゴブリンの荒い呼吸が、首筋に触れる距離まで迫る。
(頼む……誰か! 誰か助けてくれ……ッ!)
死への恐怖に飲み込まれそうになったその時。
背後に、何かが……「気」のようなものが満ちているのを感じた。
いや、違う。これは魔力じゃない。もっと根源的で、柔らかくて……。
俺は無我夢中で茂みに飛び込み、木の幹に背を預けて息を殺した。
ゴブリンの足音が遠ざかっていく。
どうやら、撒けたらしい。
「はぁ……はぁ……死ぬかと思った……」
荒い息を吐きながら、俺は自分の胸に手を当てた。
今の「気配」。音でも匂いでもない、もっと別の感覚。
俺は前世の記憶を探る。マンガやアニメで見た、東洋の概念。
『気』。
もし、この世界で魔法が「外から取り入れる力」なら、気は「内に宿る力」なんじゃないか?
俺には魔法適性がない。でも、人間である以上、生きている以上、俺の中にも……周りにも「気」はあるはずだ。
俺は震える手をゆっくりと空にかざした。
周囲の森、木々、名もなき草花。そこにある小さな命たちの鼓動を感じようと目を閉じる。
「……みんな、オラに力を貸してくれ!」
恥ずかしさなんて消えていた。背に腹は代えられない。
アニメの主人公になったつもりで、必死にイメージを膨らませる。
世界中の生命の息吹を、自分の中へと呼び込むように。
――次の瞬間。
温かい。
まるで春の陽だまりのような、優しい光が俺の身体を内側から包み込んだ。
孤児院でミクがかけてくれた回復魔法よりも、もっと深くて、生命の根源に触れるような暖かさ。
「あ……」
身体に力が入る。
全身を駆け巡っていた激痛が、嘘のように引いていく。
切り傷が塞がり、打撲の青あざが消え、折れそうだった骨が熱を帯びて修復されていく。
俺の身体が、命の輝きで満たされていくのが分かった。
魔法が使えない? そんなことはどうでもいい。
俺には、この世界に流れる「気」がある。
確信を得た俺は、右手の掌を前方へ突き出した。
体内の輝きを、一点に凝縮する。
「はっ……!!」
大砲の弾丸のような衝撃が、掌から放たれた。
ドォンッ!!
という轟音とともに、前方にあった大木が数本、根元からへし折られて吹き飛ぶ。
「……すげぇ」
自分の手を見つめて、思わず声が漏れた。
俺の手から放たれたのは、魔法ではない。ただの「気」の圧力だ。
だが、その威力は魔法のそれと遜色ない。いや、それ以上かもしれない。
だが、喜びも束の間だった。
急激な脱力感が俺を襲う。全身からエネルギーが根こそぎ持っていかれたようだ。
膝から力が抜け、地面にへたり込む。
(これは……諸刃の剣か。一発でこの疲労……)
自分の手を見つめる。
魔法が使えないと絶望していた俺に、新しい道が開けた。
『気』。
この力さえあれば、いつか……いつか俺も、誰にも虐げられない強さを手に入れられるかもしれない。
俺は荒い息を整えながら、先ほどゴブリンがいた方角を睨みつけた。
もう、怯えて逃げるだけの俺じゃない。




