002 魔法がダメなら知識で勝つ。崖下に堕ちた『魔抜け』の生存戦略、開始。
風が耳元で狂ったように鳴り響く。視界が回転し、地面が空に溶けていく。
ああ、終わるのか。
ゴウタの歪んだ笑い顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
その時だった。
俺の意識が、物理法則を無視するように加速した。
「――っ!?」
走馬灯ではない。これは……記憶だ。
冷たいアスファルトの感触。深夜のコンビニで買った温かいコーヒーの香り。信号機の無機質な音。
大学の講義、ソフトウェアのコード、上司の嫌味、満員電車の息苦しさ。
そして――迫り来るトラックのヘッドライト。
「……日本か。俺、死んだはずだよな」
俺はショータではない。いや、ショータという名のこの少年も俺自身だが、その中身は過労死したどこにでもいる日本のエンジニアだった。
あんな理不尽な死に方をして、またこんな理不尽な世界に投げ出されるなんて、神様はよっぽど俺を試したいらしい。
そんな自嘲が脳裏をよぎった瞬間、衝撃が走った。
ドォンッ!!
「ぐあぁッ……!」
背骨が折れるかと思った。だが、痛みは思ったほどではない。
視界に広がるのは、プルプルと震える半透明の青い塊。
俺の下には、人間一人をクッションにするにはあまりに儚い、一匹のスライムが潰れていた。
「すまない……」
俺の重みで、スライムの体は限界を超えて霧散していく。
『経験値を獲得しました。レベルが上がりました』
頭の中に無機質な音が響く。そんなゲームのようなアナウンスすら、今の俺には現実味を持って聞こえた。
俺はふらつく足で立ち上がった。全身が軋む。服はボロボロで、数か所から血が滲んでいる。
だが、奇跡的に骨折はしていない。
地面に落ちた、小さな魔石を拾い上げる。
(これが、この世界の「力」の素か……)
改めて自分の身体を見下ろす。華奢で、弱々しくて、孤児院での虐待の痕が痛々しい。
もし日本にいたのなら、こんな状況は確実に死に直結する。
だが。
「……負けられないな」
俺は、数多のゲーム、アニメ、そしてラノベを読み漁ってきた。知識はある。理論はある。
孤児院での「魔抜け」扱い? そんなことはどうでもいい。
魔法が使えないなら、使わずに勝つ方法を考えればいい。俺はエンジニアだ。バグがあれば修正し、リソースが足りなければ工夫してやりくりする。
問題は、ここがどこか分からないことだ。
とりあえず、水を探さなければならない。
耳を澄ます。風の音に混じって、わずかな「水のせせらぎ」が聞こえた。
生存への第一歩だ。
俺は痛む足を引きずり、警戒しながら歩き出した。
(落ち着け。あの苛めっ子たちの顔を思い出すな。今は生存率を上げることだけを考えるんだ)
びびりで臆病なショータの身体が震える。心臓が早鐘を打つ。
だが、前世の俺が、その恐怖を理屈で押さえ込む。
ガサリ。
不意に、背後の茂みが揺れた。
風の音ではない。生き物の気配だ。
振り返った先には――。
「……ッ、最悪かよ」
そこには、醜悪な化け物がいた。
ゴブリンだ。
人間より少し小さいが、醜悪に歪んだ緑色の肌。剥き出しの上半身には、戦いの傷跡がいくつも刻まれている。
腰にはボロボロの布を巻き、手には不揃いな木の棍棒を握りしめている。
ギョロリと見開かれた濁った瞳が、獲物を見つけた猛獣のように俺を捉え、鋭い牙を剥き出しにして嗤った。
「グェ、グェェッ……!」
唾液を垂らし、棍棒を引きずりながら、そいつはゆっくりと距離を詰めてくる。
殺気。明確な敵意。
孤児院のイジメとは違う、本物の「捕食者」の空気だ。
(ここで死んだら、二度目の人生もゴミクズだ……!)
俺は、周囲を見回す。
使えるものは何もない。
知識と、このボロボロの身体だけ。
どうする。どう戦う?




