第九十三話 問いの応え
部屋へ戻った潤平は障子を閉めると、小さく一つ息を吐き、そのまま布団へ身体を預けて天井をぼんやりと眺めてみた。
祭りの準備から鎮魂祭、そして宴会まで一日中動き回っていたというのに、疲れ切っているはずの身体とは裏腹に頭だけは妙に冴え渡ってしまっていた。
瞼を閉じても眠気は一向に訪れる気配を見せず、静まり返った部屋の中では自分の心臓が打つ音ばかりがやけにはっきりと耳へ届いてきて、その鼓動が落ち着こうとする度に、昨日ルリと交わした「あの約束」が頭の中へ何度も何度も浮かび上がってきてしまうものだから、潤平は堪らず小さく息を漏らした。
(……駄目だ、全然眠れる気がしない)
横になれば眠くなる自然と眠くなる。そう思っていた。
だが、現実は真逆だった。
身体は重い。
腕も脚も今日一日の疲れをしっかりと感じている。
それなのに胸の奥だけが熱を帯びて落ち着かず、まるでそこだけ別の生き物になってしまったかのように心臓だけが忙しなく鼓動を繰り返し、その度に全身へ熱が広がっていくような感覚に襲われていた。
「……少し風に当たろう。」
このまま布団の中で悶々としていても眠れそうになかった。
潤平はゆっくりと起き上がると障子へ歩み寄り、それを静かに横へ滑らせた。
途端に夜の空気が音もなく部屋へ流れ込み、昼間とは違う少しだけ湿り気を帯びた夏の風が火照った頬を優しく撫でていく。
昼間はあれほど蝉が鳴き続けていたというのに、今聞こえてくるのは名前も知らない夏の虫達が奏でる澄んだ音色だけである。
その虫の声は静まり返った屋敷へ溶け込むように響き渡り、空を見上げれば雲一つない夜空には丸い月が静かに浮かび、その柔らかな月明かりが白銀の光となって中庭の芝生や石畳を照らし出している光景は、昼間まで沢山の人々で賑わっていた都と同じ場所とは思えないほど穏やかで、どこか時間そのものまでゆっくり流れているような錯覚さえ覚えさせた。
潤平は縁側へ腰を下ろす前に中庭へ降りると、小さな水球を掌へ生み出し、それを口元へ運んで何度も口をゆすぎ始める。
今日は宴会で色々な料理を食べたな。
肉も食べたし、パンも食べた。
酒こそ飲んでいないが、香辛料の効いた料理も口にした。
(……いや、ちゃんとしておかないとな)
誰に言われた訳でもない。
だが、これだけは妙に気になった。
水球で何度も丁寧に口をすすぎ、その度に冷たい水が口の中を流れていく心地良さを感じながら、潤平は何故か少しだけ可笑しくなる。
(……俺、何やってるんだろ)
まるで。
何かを待っているみたいじゃないか。
そんな自分へ心の中で苦笑した、その時だった。
「…………潤平様?」
夜風へ溶け込むような、小さく、それでいてよく知っている優しい声が背後から聞こえてきた。
びくり、と肩が震える。
心臓が一瞬止まったかと思えば、その次の瞬間には今まで以上の勢いで暴れ始め、鼓動が耳の奥まで響いてくるような感覚に思わず息を呑む。
潤平は慌てて口の中に残っていた水を地面へ吐き出すと、水球もその場で消し去り、一度だけ深呼吸をしてから何事もなかったような顔を作り、ゆっくりと振り返った。
そこには月明かりを浴びながら静かに立つルリの姿があった。
淡い色の浴衣を身に纏ったその姿は、昼間見ていた彼女とはまるで違って見え、月の光を受けて白く浮かび上がる肌はどこか幻想的ですらあり、夜風に揺れる長い髪からは風呂上がり特有の優しい香りが微かに漂い、その穏やかな表情と少しだけ熱を帯びた頬を見た瞬間、潤平は胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
「……あ、あの、どうしましたか?」
本当は分かっている。
昨日、自分達は約束をした。
その約束を果たすために彼女がここへ来たのだという事くらい、潤平自身が一番よく分かっていた。
それでも。
その言葉を自分から口にする勇気だけは、どうしても出て来なかった。
だからこそ、分かり切った問いを口にしてしまう。
ルリはそんな潤平をじっと見つめ、小さく息を吸うと、少しだけ震える声で答えた。
「……昨日の約束を、……果たしに来ました」
潤平は、一瞬躊躇すると。
「…………分かりました。俺の部屋で良いですか?」
自分でも驚くほど声は震えていなかった。
胸の奥では、今にも飛び出してしまいそうなくらい心臓が暴れているというのに、その鼓動だけは決して表へ漏らすまいと、潤平は喉の奥で何度も息を整えながら、努めて普段通りの声音を作ろうと必死になっていた。
ルリは小さく頷きかける。
だが、そのまま少しだけ視線を庭へ向けると、夜風に揺れる木々を眺めながら静かに口を開いた。
「……ん。少し暑いので、縁側で話しませんか」
「……分かりました」
断る理由などあるはずがない。
潤平は小さく頷くと、二人は並んで縁側へ向かい、月明かりが静かに降り注ぐ板張りへ腰を下ろした。
昼間の熱をまだ少しだけ残した木の感触が浴衣越しに伝わってくる。
しかし、それすらも夜風が少しずつ奪っていき、庭を吹き抜ける風は昼間とはまるで別物のように涼やかで、草木の匂いを優しく運びながら二人の間を静かに通り抜けた。
その度にルリの長い髪がさらりと揺れ、月光を受けて銀糸のように淡く輝く様子は、この静かな夜そのものが彼女を包み込んでいるようにも見えて、潤平は思わずその横顔へ見惚れてしまった。
二人の距離はほんの僅かで、肩を少し動かせば触れてしまう。
それに手を伸ばせば届いてしまう。
それほど近い距離なのに、その数十センチが果てしなく遠く感じられる。
互いの体温が夜風の合間に伝わってくる。
息遣いまで聞こえそうだった。
(……近い)
昼間なら何でもないさほど気にしない距離。
それなのに今は違う、隣にルリがいる。
ただそれだけで胸が苦しくなり、鼓動が速くなり、頭の中が真っ白になってしまう。
潤平は必死に平静を装いながら膝の上へ視線を落とした。
何か話した方がいいのか。
そう思うか、だが言葉が出てこない。
祭りの話でも、夕食の話でも、昼間の出来事でも。
いくらでも話題はあるはずなのに、そのどれもが喉元まで来ては消え、結局何一つ口に出来ないまま、静かな時間だけがゆっくりと流れていく。
夜空では丸い月が雲一つない空へ静かに浮かび、その柔らかな光が庭木や石畳を白く照らし出す。
昼間の喧騒がまるで夢だったかのような穏やかな景色を作り上げていて、耳を澄ませば遠くから聞こえてくる夏の虫達の鳴き声が絶える事なく夜を彩り、その澄んだ音色は言葉を失った二人の沈黙を責めるでも埋めるでもなく、ただ優しく寄り添うように流れ続けていた。
その静けさを破ったのは、ルリだった。
「……あの日、私は潤平様に出会った時の事を、今でも鮮明に思い出せます」
夜空を見上げたまま、静かに紡がれたその声には、懐かしさと、愛しさと、少しだけ震えるような緊張が混じっていた。
「……えっと、盗賊のアジトの時の事ですか?」
「……はい」
ルリは月から視線を外さず、小さく頷く。
「あの日、私は運命の光に出会ったと感じたのです」
(……いやいやいやいや)
潤平は心の中だけで苦笑する。
そんな大層な話じゃない。
制服を盗まれて、だから取り返しに行った。
ただ、それだけだったのである。
運命なんて立派なものじゃない。
少なくとも自分はそう思っていた。
(……俺、そんな格好いい事してないよな)
何度思い返しても答えは変わらない。
偶然でたまたまなだけだった。
だからこそルリの言葉がくすぐったくて仕方がない。
そんな潤平の胸の内など知らず、ルリは静かに続ける。
「……あの日出会った運命を、私は信じ続けて本当に良かったと思っています。
そう言うとルリは一度言葉を止め、小さく俯いた。
浴衣の袖をそっと握る指先へ力が入る。
その細い肩が僅かに震えている事へ潤平は気付いた。
何かを言おうとしている。
何か、とても大切な言葉を。
そう分かるからこそ、潤平は口を挟かなかった。
夜風だけが吹き抜けると、虫の声だけが響く。
その短い沈黙が、何故だか永遠のように長く感じられた。
やがてルリはゆっくりと顔を上げる。
その瞳は月明かりを映して潤み、今にも壊れてしまいそうなほど儚く、それでいて決して逃げないという強い決意だけが宿っていた。
そして、潤平を真っ直ぐ見つめたまま、小さく、それでもはっきりと問い掛ける。
「…………潤平様は、私の事をどう思っていますか?」
その一言だけで、潤平の世界から虫の声も、夜風も、月の光さえも消えた。
聞こえるのは、自分の心臓が激しく脈打つ音だけ。
目の前には、不安と期待を胸いっぱいに抱えながら、それでも勇気を振り絞って答えを待つルリの姿だけがあった。
潤平は息を呑む。
言葉が出ない。
胸の奥がぎゅっと締め付けられ、嬉しさとも苦しさとも違う熱が込み上げ、喉まで出かかった答えは、まだ形にならないまま胸の中で震え続けていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
皆さんの応援が日々の執筆の励みになっています。
もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、画面下の【★で称える】や【フォロー】をポチッと押していただけると非常に嬉しいです!




