第九十二話 打ち上げ
大広間へ足を踏み入れると、まだ夕食は始まっていなかった。
広間では使用人達が忙しそうに料理を並べ、湯気の立つ大皿が次々と運び込まれている。
焼いた肉の香り。煮込み料理の優しい匂い。
焼き立てのパンの香ばしさ。
空腹だった胃袋が、ぐう、と小さく鳴いた。
「まだ皆来てないんだね。」
部屋の中にはピー男爵とミオリだけが先に来ていた。
ピー男爵はすでに浴衣姿で寛いでいたが、改めて見ると妙に似合っている。
そして。
潤平の視線は自然とミオリへ向いた。風呂上がりなのだろう。
頬はほんのり赤く、長い髪はまだ少し湿っていて、浴衣姿がいつもより大人びた雰囲気を漂わせていた。
(……なんか新鮮。)
普段見慣れているはずなのに、服装が変わるだけで印象まで変わるものらしい。
「そうだにゃ。まあ皆色々忙しいのにゃ。」
ピー男爵はそう言って大きく伸びをする。
「気長に待つのにゃ。」
「そうだね。」
「ちぇー、お酒まだ飲んじゃ駄目?」
待ちきれない様子でミオリが唇を尖らせる。
「駄目なのにゃ。」
ピー男爵はぴしりと言い切った。
「鎮魂祭の後の乾杯は当主がやるって決まってるのにゃ。勝手に始めるのは駄目なのにゃ。」
「分かったよぉ」
肩を落としたミオリだったが、すぐに顔を上げる。
「なら暇だし、私がピー君の毛並み整えてあげようか?」
「おおっ!!」
ピー男爵の耳がぴんと立つ。
「それは助かるのにゃっ!!」
「フミちゃーん、櫛ある?」
「はい」
いつの間に来たのか。音もなく現れたフミが櫛を差し出す。
「どうぞ」
「ありがと」
ミオリは櫛を受け取ると、嬉しそうにピー男爵の背中を梳かし始めた。
さらり。さらり。
櫛が毛並みを滑る度に、ピー男爵の身体がゆっくり蕩けていく。
「……ごろごろごろごろ」
喉の奥から幸せそうな音が響く。
目は完全に細まり、尻尾はゆらゆらと左右に揺れている。
(猫だ……)
いや猫なのだが。
あまりにも幸せそうで、見ているこちらまで力が抜けてしまう。
開け放たれた障子から夜風が入り込み、風鈴が小さく鳴った。
祭りの熱気が少しずつ夜へ溶けていく。
誰も急がない。誰も焦らない。
ただ穏やかな時間だけが、ゆっくりと流れていた。
その毛並みを撫でる櫛の音だけが静かに大広間へ響いていると、廊下の向こうから誰かが歩いて来る足音が聞こえ始め、やがて襖が静かに開かれた。
「お待たせ」
最初に姿を見せたのはユウタロウだった。
どうやら彼もひと風呂浴びてきたらしく、浴衣姿へ着替えた身体からはまだ湯気の名残が漂っている。
少し上気した頬には今日一日張り詰めていた緊張がようやく解けたような穏やかな笑みが浮かんでおり、その表情を見ただけで、鎮魂祭という一年の中でも特別な行事を無事に終えられた安堵が、言葉にしなくても自然と伝わってくるようだった。
「お待たせしました」
「ちょっと、いつもより長くお風呂に浸かっちゃって」
ユウタロウの後を追うように姿を現したのはタマヨとルリであり、二人とも浴衣へ着替えていた。
風呂上がりらしくほんのりと頬を朱に染め、まだ少しだけ湿り気を残した長い髪からは石鹸のような優しい香りが微かに漂ってきて、それが夜風に乗って大広間へゆっくりと広がっていく。
「分かるよ、今日は何だかいつもよりお湯が気持ち良くてさ、私もつい長風呂になっちゃった」
ミオリが笑いながらそう言うと、
「私も、お姉様と一緒にゆっくり浸かっていました」
ルリは少し照れ臭そうに微笑みながら答え、その笑顔につられるようにタマヨも柔らかな笑みを浮かべる。
潤平は何気なく二人へ視線を向けた。
その瞬間、思わず目を奪われる。
風呂上がりだからだろうか。
いつもより紅潮した頬は桜色に染まり、湯上がり特有の艶を帯びた肌は月明かりのように柔らかく輝いていて、浴衣姿という普段とは違う装いも相まって、昼間に見ていた二人とはまるで別人のような色気を纏っているように見えた。
(……いやいやいや)
駄目だ。
駄目駄目。
変な事を考えるな。
今日は鎮魂祭だぞ。
夕食だ。
目の前にはご馳走が並ぶんだ。
考えるべき事は食べ物だ。
……よし。
食欲に集中しよう。
必死になって頭の中を食べ物で埋め尽くそうとする潤平だったが、人間というものは「考えるな」と思えば思うほど余計な事ばかり浮かんでしまう生き物であり、慌てて首を横へ振る姿を見て、ミオリが不思議そうに首を傾げていた。
そんな潤平の葛藤など誰も知らないまま、使用人達は手際良く料理を運び続け、広い卓いっぱいに焼き立ての肉料理や魚料理、色鮮やかな野菜料理に温かなスープ、香ばしい焼き立てのパンや果物までが次々と並べられていき、それまで厨房から漂ってくるだけだった食欲を刺激する香りが一気に大広間全体を満たし始めると、祭りを終えて空っぽになっていた皆の胃袋が、まるで示し合わせたかのように鳴り始めた。
全員の席へ料理と飲み物が行き渡った事を確認すると、ユウタロウは静かに立ち上がり、一人一人の顔をゆっくりと見渡した。
その瞳には疲労もあった。
だが、それ以上に安堵があった。
「では、今年の鎮魂祭も滞りなく……いや、潤平君のお陰でそれ以上の祭りとなり、そして彼のお陰で、我々はこうして今日という日を笑って迎える事が出来た。彼と、生きている事と、そして再会を祝して、乾杯っ!」
「乾杯っ!」
「にゃあっ!」
人数は決して多くない。
それでもその声は屋敷中へ響き渡り、大広間だけでなく廊下や厨房で働く使用人達までもが、それぞれの手を止めて杯やコップを掲げる。
一斉に笑顔で乾杯の声を重ねる光景は、まるでこの屋敷そのものが一つの大きな家族になったような温かさに満ちていて、昼間まで漂っていた鎮魂祭独特の厳かな空気は、その瞬間を境に一気に笑顔と笑い声に包まれた宴の空気へと姿を変えていった。
宴の席は、鎮魂祭という一年で最も大きな行事を終えた安心感もあってか、誰もが肩の力を抜き、笑い、語り、杯を交わしながら穏やかな時間を過ごしていた。
だが、その賑わいも永遠には続かず、最初に頬を真っ赤に染めたミオリが「もう駄目ぇ……」と幸せそうな笑みを浮かべたまま畳へごろんと倒れ込み、その姿を見て皆が笑い合う中、今度はピー男爵までが大きな欠伸を一つ漏らして尻尾をゆっくり揺らしながら丸くなり、そのまま規則正しい寝息を立て始めた。
「ピー君まで寝ちゃった」
ミオリの隣で丸くなるピー男爵を見て、潤平は思わず苦笑する。
昼間から走り回り、鎮魂祭でも誰よりもはしゃぎ、宴会でも全力で騒いでいたのだから無理もない。
静かに上下する小さな身体を見ていると、こちらまで眠気が移ってきそうだった。
「今日は本当に疲れたものね」
タマヨは優しく微笑みながらそう呟くと、手にしていた杯を静かに卓へ置き、小さく息を吐いた。
その表情には疲労の色も見える。
だが、それ以上に今日という一日を無事に終えられた安堵が滲んでいた。
「私も今日はもう休みます」
「お休みなさい、お姉様」
ルリが優しく微笑む。
タマヨはそんな妹の頭をそっと撫でると、ゆっくり立ち上がり、そのまま使用人へ軽く会釈をして大広間を後にした。
襖が閉じられる音が静かに響き、先ほどまで賑やかだった広間は、ほんの少しだけ静けさを取り戻す。
残されたのは潤平とルリ、それに寝息を立てているミオリとピー男爵、そして数人の使用人だけだった。
「……何だか急に静かになりましたね」
ルリがぽつりと呟く。
「そうだね」
さっきまで響いていた笑い声が嘘だったかのように、大広間には食器が触れ合う小さな音と、片付けを始めた使用人達が静かに歩く足音だけが聞こえていた。
開け放たれた障子の向こうからは夏の夜風がゆっくり吹き込み、風鈴がちりん、と涼しげな音色を響かせる。
祭りの熱気はもう残っていない。
夜はすっかり深まり、昼間あれほど賑わっていた都も、今は静かな眠りへ落ちていく時間だった。
潤平は残っていた料理へ視線を向ける。
「……勿体ないし、食べちゃおうか」
「ふふっ、そうですね」
ルリも小さく笑う。
二人は向かい合って座り直すと、残された料理を少しずつ口へ運び始めた。
先ほどまで皆で囲んでいた食卓とは違い、二人だけになった卓はどこか広く感じられ、それでいて妙に落ち着かなかった。
料理は相変わらず美味しい。
それなのに、潤平は味がよく分からなかった。
向かいに座るルリが気になって仕方がないのである。
時折目が合う。
その度にどちらからともなく視線を逸らす。
言葉を探そうとしても、喉まで出かかった言葉は何故か口から出て来ない。
妙な沈黙だけが流れていく。
(……何だこれ)
昼間は普通に話していたのに、宴会の最中だって笑っていた。
なのに二人きりになった途端、急に意識してしまう。
昨日交わした約束が頭の片隅から離れない。
明日の夜。
その約束が近付いている。
いや、もう、今日の夜だ。
その事実を思い出した瞬間、心臓がどくりと大きく脈を打った。
料理を口へ運ぶ手が、少しだけ止まる。
「……潤平様?」
「あっ、ご、ごめん」
「何か考え事ですか?」
「いや、その……今日色々あったから」
我ながら苦しい言い訳だと思った。
しかしルリはそれ以上追及せず、小さく「そうですね」とだけ微笑む。
その微笑みが、逆に潤平の鼓動を速くした。
やがて二人は残っていた料理も綺麗に平らげ、卓の上には空になった皿だけが残る。
使用人達も後片付けを終え、それぞれ「お休みなさいませ」と頭を下げながら部屋を出て行き、大広間から人の気配は少しずつ消えていった。
不思議なくらい、皆休むのが早い。
昼間の疲れが一気に押し寄せたのだろう。
ある者は欠伸をしながら。
ある者は肩を回しながら。
またある者は「今日はぐっすり眠れそうだ」と笑いながら、それぞれの部屋へ戻って行く。
その光景を眺めながら潤平は、
(……まあ、今日は本当に忙しかったもんな)
と一人納得する。
特に深く考えることもなく、潤平もルリへ「お休みなさい」と声を掛け、自分の部屋へ戻って行った。
部屋へ戻れば眠くなるだろうと、そう思っていた。
だが、布団へ腰を下ろしても眠気は一向に訪れない。
祭りの疲れで身体は重い。
それなのに頭だけが妙に冴えていた。
胸の奥では心臓だけが落ち着きを失い、静かな部屋の中で自分の鼓動だけがやけにはっきり聞こえてくるような気がして、潤平は小さく息を吐きながら天井を見上げた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
皆さんの応援が日々の執筆の励みになっています。
もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、画面下の【★で称える】や【フォロー】をポチッと押していただけると非常に嬉しいです!




