第九十一話 パンツ
夜の帳がゆっくりと都を包み込み始める頃、鎮魂祭を終えた潤平達は屋敷へと帰って来た。
昼間あれほど賑わっていた都の喧騒も、屋敷の門をくぐった瞬間に、どこか遠い世界の出来事になったように感じられる。
ただ静まり返っている訳ではない。
廊下の向こうでは使用人達が夕食の支度に追われて忙しなく行き来し、厨房からは香ばしい匂いと食器の触れ合う軽やかな音が聞こえてくる。
それでも祭りが終わった後特有の、どこか肩の力が抜けた穏やかな空気が屋敷全体を優しく包み込んでいた。
夕食までは少し時間があるらしく、それぞれが思い思いの時間を過ごしていた。
今日一日着続けた儀式用の正装から普段着へ着替える者もいれば、汗を流すため風呂へ向かう者もいる。
明日の後片付けを見据えて、慌ただしく準備を始める使用人達の姿もあった。
流石に今日は皆忙しかったみたいだ。
いつもなら潤平が部屋へ戻れば、当然のようについて来るスミレさんの姿も見当たらなかった。
……まあ、この時間なら準備で手一杯なんだろう。
少しだけ寂しい気もしたが、それだけ今日という日が特別だったという事だ。
その代わりと言っては何だが、
「にゃっ」
後ろから聞き慣れた鳴き声が聞こえる。
振り返れば、いつものように尻尾を揺らしながら付いて来るピー男爵がいた。
「……まあ、ピー君は来るよね」
「当然なのにゃ」
胸を張って答える姿に、潤平は思わず苦笑してしまう。
何だかんだ言って、この猫はいつも一緒にいる。
それがもう当たり前になっている自分にも少し笑ってしまった。
部屋へ戻った潤平は、少し息を吐きながら儀式用の正装を脱いでいく。
普段着に着替えようと思ったその時、部屋の襖が静かに開いた。
「潤平様」
「あれ、フミさん?」
姿を見せたフミはいつものように静かに頭を下げる。
「正装をお預かりします」
「あっ、はい」
何の違和感もなく正装を渡す。
流石というべきか、言われるまで潤平は着替えた後どうするのか全く考えていなかった。
受け取ったフミは一礼すると、そのまま静かに部屋を後にする。
入れ替わるようにピー男爵が言った。
「潤平、お風呂に行こうにゃっ」
「オッケー」
汗を流したい気持ちは潤平も同じだった。
手拭いと桶を手に取り、二人で並んで本邸の風呂場へ向かう。
廊下を歩けば、開け放たれた窓から夜風が流れ込んできて、昼間火照っていた身体を心地良く撫でていく。
遠くからは夏の虫の音が聞こえ始めていた。
祭りは終わった。それでも夏は、まだ終わっていない。
そんな事をぼんやり考えながら歩いている内に、二人は風呂場へ辿り着く。
男湯の暖簾を潜り、脱衣所で浴衣を脱いで中へ入る。
石造りの浴場には湯気が立ち込め、ほんのりと木の香りが漂っていた。
まずは頭を洗い、今日一日流した汗を丁寧に洗い流していく。
腕を撫でる指先が少しだけひりつく。
思っていた以上に今日は日に焼けていたらしい。
身体を洗い終えた二人は、そのままゆっくりと湯船へ身体を沈める。
「はぁぁぁ~~~~っっっ」
「んにゃぁぁぁ~~~~っっっ」
二人の口から、ほとんど同時に間の抜けた声が漏れた。
熱すぎず、ぬるすぎず。体を包み込む湯加減が絶妙だった。
肩まで浸かった瞬間、全身から一日の疲れが溶け出していくような心地になる。
「……生き返るねぇ」
「極楽なのにゃぁ……」
昼間歩き回っていた疲れが、お湯の中へ少しずつ溶けて消えていく。
祭りの熱気も、人混みも、鎮魂祭で張り詰めていた空気も、全部この湯が洗い流してくれるようだった。
潤平は目を閉じ、小さく息を吐く。
こんな何気ない時間が、最近は妙に好きになってきていた。
十分に湯を堪能した二人は風呂から上がると、それぞれ風球を生み出し、火照った身体へ風を送る。
冷たい風が濡れた肌を撫でる度、思わず頬が緩んでしまう。
「ふぅ……気持ちいい」
「文明って最高なのにゃ」
「魔法だけどね」
「細かい事は気にしないのにゃ」
ピー男爵は鼻歌交じりに着替え始める。
一方の潤平は、脱いだパンツを手にした所で動きを止めた。
「そうだ」
毎日の習慣になっている。
修復魔法を使い、ほつれも汚れも何もかも元通りにする。
魔力が淡く光を放つと、使い古していたパンツは見る見る内に新品同様の姿へ戻っていく。
何せ異世界へ持って来られた唯一のパンツだ。
これを失えば、待っているのはふんどし生活。
いや、別に履けない訳ではない。
実際履いた事もある。
だが、
(……何か違うんだよなぁ)
締め付けられる感覚も、布の位置も、日本で慣れ親しんだパンツとは全く違う。
どうにも落ち着かない。
お風呂上がりくらいは、パンツに浴衣という快適な格好で過ごしたいのである。
「僕先に行くのにゃ~」
「あ、うん。先行ってて」
ピー男爵は先に脱衣所を出て行く。
一人になった潤平は、新品同様になったパンツを履き直し、畳んであった浴衣へ手を伸ばした。
その瞬間だった。
頭の中を、一筋の稲妻が走る。
まるで今まで当たり前だと思っていた常識を、誰かに思い切りひっくり返されたような衝撃だった。
…………。
………………あれ?
……パンツ、作れるんじゃね?
手が止まる。
脳内で記憶が一気に繋がっていく。
……そういえば前に。
トイレの紙が硬くて嫌だったから、物質魔法でトイレットペーパーに変えたよな?
だったら。
目の前にある、このふんどしを。
パンツへ変えるくらい出来ても、おかしくないんじゃ……?
…………。
…………うふっ。
思い付いたら試さずにはいられない。
それが潤平という人間だった。
物質魔法に魔力が吸い上げられていく感覚が手のひらから腕へと伝わる。
それに呼応するように、手に持っていたふんどしが柔らかく揺らぎ、白い布が粘土のようにゆっくりと形を変え始めた。
布が縮み、折り重なり、縫い目のような筋が浮かび上がっていく。
潤平は固唾を呑んで、その変化を見守った。
やがて光が静かに消える。
恐る恐る両手を開くと、そこには見慣れた形があった。
黒地のシンプルなボクサーパンツ。
「……あ」
思わず声が漏れる。
指で摘まみ、表も裏も確認する。伸縮性もある。
縫製も問題ない。
どう見ても、ボクサーパンツだった。
「……あはっ」
笑みがこぼれる。
次の瞬間。
あははははははっっっ!!
出来たっ!!
出来たぞっっ!!
パンツだっ!!
俺、パンツ量産出来るじゃんっ!!
これでもう一枚しかないパンツに怯えなくていいっ!!
修復魔法に頼らなくてもいいっ!!
俺のパンツ人生に革命が起きたぞっ!!
ボクサーパンツを高々と掲げながら、潤平は心の中で盛大に勝利宣言をする。
今この場に誰かがいたら、「何をしているんですか」と真顔で聞かれていただろう。
しかし幸いにも、この脱衣所には潤平しかいない。
誰にも見られていない。
つまり。
今だけは無罪である。
「……ふぅ」
一通り喜びを噛み締めると、潤平は大事そうに収納魔法へ新しいボクサーパンツを仕舞った。
……しかし。
すぐに別の感情が込み上げてくる。
何で今まで気付かなかったんだ、俺。
異世界へ来てどれくらい経った?
都へ来てからだけでも結構な日数が過ぎている。
その間、パンツを修復した回数なんて片手じゃ足りない。
風呂だって何度も入っている。
その度に。
「パンツ一枚しかねぇなぁ」
と思っていた。
なのに。
物質魔法で作るという発想だけ、綺麗さっぱり抜け落ちていた。
「……疲れてたのかな」
自分で自分に呆れながら苦笑する。
人間、案外思い込みというものに縛られるらしい。
嬉しい発見を胸にしまい込み、潤平はようやく浴衣へ袖を通す。
さらりとした布地が火照った肌に心地良い。
風呂上がりの身体を夜風が優しく撫でていく。
「よし」
気分も上々。
潤平は軽い足取りで脱衣所を後にした。
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