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異世界、遺します ~天涯孤独となった俺に亡き祖父母が『異世界』を遺してくれた~  作者: 鏑右いなだ


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第八十七話 胸一杯、腹一杯

 午後の訓練をキリのいいところで切り上げ、ルリは着替えのため自室に戻る。

 フミとヨリもそれについて行った。

 

 部屋が隣同士なだけに、自分の部屋に戻るのも何か違う気がして、潤平は火魔法で温めた水球を作り、その場で顔を洗い始めた。

 水面に映る自分の顔が、少し疲れているように見えた。

 

「潤平様、これをどうぞ」

 

「あっ、ありがとうございます」

 

 スミレがさっと乾いた手すきを差し出してくる。

 潤平はそれを受け取ると濡れた顔を拭き、そのまま手すきを水球に浸して絞り、首回りを拭いた。

 

 使った手すきをもう一度水球で洗い、絞って空中でパンッと叩くと、自分の手にかけようとする。

 だがスミレがすっと手を差し出してきたので、渋々それを渡した。

 

 ほんのりと湿った手すきを受け取ったスミレは、迷いのない動きでそれを懐にしまい込む。

 手際の良さは、いつ見ても職人めいていた。

 

「さてと」

 

 夕食前にと言われたが、まだ時間はあるし、タマヨさんもまだ帰ってきていないだろう。少しここで休むか。

 

 潤平は縁側に腰を下ろし、中庭をぼんやりと眺め始めた。

 曇り空の下、庭木の緑がいつもより濃く見える。

 

 ……あ、そういえば槍の手入れをしてなかったな。

 あの激しい戦闘でかなり消耗したはずだし、しばらく修復魔法もかけていない。

 

 ……ほいっ。

 

 やっぱり刃がほんの少し欠けている。石突きの部分も同じだ。

 

 あれだけ無理な使い方をしたんだ、強化魔法をかけていたとはいえこうなるのも当然か。

 クソッ、ラショウの野郎、あんなデカい刀をぶんぶん振り回してきやがって。

 少しは遠慮しろっての。

 ……あの状況じゃ無理だったか。


 潤平は収納から槍を取り出し、状態を確認して修復魔法をかける。

 刃の欠けが淡い光に包まれ、滑らかに戻っていく様を見届けてから、新品同然に戻ったのを確かめ、また収納魔法にしまい込んだ。

 

 そういえば、預かっているアレも返さなきゃな。

 ……まあ、話し合いの場で渡せばいいか。

 

 収納魔法の中の、ミツナリ、いや、ラショウが愛用していた馬鹿でかい大刀を思い出す。

 

 どうするか少し悩んだが、結局ユウタロウとの話し合いの場で渡そうと決めて、そのままにしておいた。 

 

 することも無くなり、また曇り空の下、生温い風を感じながらぼーっと中庭を眺め始める。

 遠くで鳥が数羽、低く飛んでいくのが見えた。

 

 隣に座っていたピー男爵が顔を洗い始めた。

 もう少ししたら雨が降るのかもしれない。

 

 鼻をスンッと鳴らして匂いを嗅いでみる。 かすかに雨の匂いがした。

 

 本当に、この後降るのかもしれない。

 

「潤平様。タマヨ様がご帰宅なされました。ユウタロウ様と共に、部屋でお待ちです」

「わっかりました」

 

 迎えに来たフミさんの言葉に、潤平は手を使わず勢いよく立ち上がり、その後をついて行く。

 さらにその後ろを、ピー男爵とスミレがついてきた。

 廊下の障子の隙間から、灰色の空がちらりと見えた。

 

 一分もしないうちに呼ばれた部屋に着くと、ユウタロウとタマヨ、それにルリさんが待っていた。

 潤平が部屋に入ると、フミとスミレは端に控え、ヨリもそれに続く。

 なぜかピー男爵だけが、潤平の隣にどっかりと腰を下ろした。

 

「来てくれてありがとう」

 

 潤平の顔を見ると、ユウタロウはにっこりと笑った。

 隣のタマヨとルリも微笑んでいる。

 

「さて、いきなりで済まないが、キミをここに呼んだ理由について話そうと思う」

 

 ユウタロウはそう言うと、急に居住まいを正し、土下座の体勢を取った。

 

 見れば、隣のタマヨさんもルリさんも同じように潤平へ向かって深く頭を下げている。

 二人の綺麗な黒髪が畳の上に広がった。

 

 三人だけではなかった。

 

 いつの間にかフミさんやスミレさん、ヨリさんまで土下座をしていて、廊下では他の使用人や料理長までもが同じ姿勢を取っていた。

 

 ただ一人、ピー男爵だけが何もせず、驚いた様子で辺りを見回している。

 

「この度は、私の命だけでなく、娘たちや一族の者、屋敷の使用人、そしてこの国の民と地までを救ってくれたこと、心から感謝を申し上げる。これほどの恩を、すぐに返せるものではないが、私に出来ることならば何でもする。隣のタマヨとルリも同じ気持ちだ。皆を救ってくれた潤平君に、心の底から感謝の気持ちを申し上げます」

 

 ユウタロウが言葉を終えると、頭を下げていた者たちがさらに深く頭を下げた。

 

「……お」

 

 この状況にどう反応すればいいのか分からないまま、潤平の胸の奥が急に苦しくなる。

 目の奥が熱くなり、気づいた時には涙が溢れていた。

 鼻の奥がツンとして呼吸が浅くなる。

 片手で両目を覆っても、涙は止まらなかった。

 

 なぜだろう。

 悲しいわけでもないし、辛いわけでもない。

 それなのに、この胸を締め付ける感情の名前が分からない。

 

 整理のつかない気持ちのまま座っていると、ピー男爵の尻尾がそっと潤平の膝に乗った。

 

 見れば、いつもとは違う。

 どこか温かく、何かを見守るような笑顔をしていた。

 

「……っう、ぐすっ……皆さん、頭を……上げてください……」

 

 ほんの数秒だったが、頭を下げ続けるユウタロウたちに申し訳なくなり、潤平はそう促す。

 彼らが頭を上げても、潤平はまだ涙が止まらず、俯いたまま声を詰まらせていた。

 

 ようやく涙が収まった頃には、目は少し腫れていて、自分を落ち着かせるために何度も大きく息を吐いていた。

 

「……落ち着いたかしら?」

 

「……はい、……ズッ」

 

 タマヨの優しい声に、潤平は鼻を啜りながら答えた。

 

「私たちは、潤平君に多大な恩を感じています。ですがすぐに返すことは難しいので、話し合った結果――潤平君を食客として迎え入れたいと思います。もちろん、要望があれば応えられる範囲で応えます。……例えば、私とルリが欲しいと言っても、拒否はしませんよ」

 

「……ずずっ、……それ、冗談ですよね?」

 

「ふふっ、半分はそうかもね」

 

「……」

 

 ということは、半分は本気ということか。

 

 自分の父親の前でそんなことを言っていいものなのか……?

 

「別に私は気にしていないよ。私の悪い噂のせいで、タマヨとルリには数年間、良い縁談が来なかった。それでも私たちは御三家、一応格は上の方に属している。彼女たちが望むのなら、私は嫌とは言わない。彼女たちには、望む結果を手にしてほしいだけだ。私と妻もそういう出会いだったからね」

 

 思わぬカミングアウトに、潤平は反応に困り、聞かなかったことにする。

 タマヨさんとルリさんの発言も、一緒に忘れることにした。

 

「……食客って、何ですか?」

 

「キミを私たちの客として、いつでも丁寧にもてなすということだ。つまり、この屋敷にいつ来ても大歓迎されるということだよ」

 

「……なるほど」

 

「もちろん、そうでなくても大歓迎でもてなすし、家の者たちもそうするだろう。これは私たちの決意表明だと思ってくれればいい」

 

「……護衛の仕事はどうなるんですか?」

 

「その話は無くなる。多大な恩人に、そんな仕事はさせられない。もちろん報酬はしっかり払う。感謝の気持ちと報酬の件は、別に考えてほしい」

 

「……分かりました」

 

「これが私たちの気持ちだと思ってほしい。これ以外にもお礼はきちんとするし、キミの話もしっかり聞こう。それでも、今すぐにできるのはこの程度なのだ。感謝の言葉は早い方がいいと思って、今日キミを呼んだ。改めて、心からの感謝を申し上げる」

 

 ユウタロウがもう一度頭を下げると、周りの皆もそれに続いた。

 

 その光景がまた潤平の胸を締め付け、鼻の奥がツンとする。

 今度は泣かないよう目に力を入れたが、涙は止まらず目尻から零れた。鼻水も同じだった。

 

「さて、今日は豪勢に夕食を用意させている。皆で食べようではないか」

 

 ユウタロウの言葉を皮切りに、あれよあれよという間に準備が整い、いつもの広間に豪華な夕食が並ぶ。

 皿の上で立ち上る湯気が、灯りに揺れていた。


 まるで宴のような料理に、潤平は舌鼓を打ちながら、皆と笑い合って食事を続けた。

 いつの間にか部屋にはミオリの姿もあり、当然のように席に着いていた。

 ミオリとピー男爵がいつも通り夕食を盛り上げる中、タマヨは珍しく酒を飲んでいるらしく、いつもより上機嫌だ。

 

 隣のルリも、いつもより笑顔が多い。

 

 外はいつの間にか雨が降っていたが、部屋の中でそれを気にする者は誰もいない。

 障子の外から、雨音がかすかに聞こえていた。賑やかなまま、夕食は幸せそうに進んでいった。

 

 潤平は、いつもよりも腹も胸もいっぱいになり、この時間を誰よりも噛みしめていた。








  



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