第八十六話 やりましょう、訓練を
今日は生憎の曇り空だった。
灰色の雲が屋敷の屋根の上に低く垂れ込め、湿った風がときおり庭木の葉を揺らしていく。
朝から一雨来そうな予感がしている。
潤平はいつも通り、魔法の訓練を行う。
最早日課となった魔法の訓練を、屋敷の中庭で朝からいつも通りこなす。
踏み固められた地面には、これまでの訓練で刻まれたわずかな窪みが幾つも残っていて、それがそのまま潤平の積み重ねた時間の証になっていた。
今日は水魔法の形態変化を練習する。
刀の形に変えたり盾の形にしたり、槍や弓の形にもした。
水の刃は朝の薄暗い光を弾いて、鈍く白い線を描く。
それが飽きたら今度は動物の姿を形作る。
鳥や犬猫や馬、鷹とか蛇とか熊とか猪とかウサギとか虎とか、色んな動物の姿を形作ってみた。
宙に浮かぶ水の獣は、輪郭こそ粗いものの、跳ねたり唸ったりする仕草だけは妙に生々しい。
それらは殆どが実物よりも小さく、魔法としてはまだ低威力だったが、それでも前の自分よりは格段に進歩しているとゆう実感があった。
それに、馬鹿みたいな発想で馬鹿みたいな大きさの馬鹿みたいな収納魔法を、作っていた魔力がちゃんと回復したので、どんだけ魔力を使っても疲れ知らずの体になってしまったのだ。
この上淀みの魔力を吸収出来ると考えたら、自分の魔力はどれだけあるのか、想像したら少し自分でも引いてしまった潤平だった。
青空の下ならまだしも、こんな曇り空の下で自分の魔力の底を覗き込むと、妙に空恐ろしいものがある。
「にゃっにゃっにゃー、まだまだ潤平には負けないのにゃー」
「今日こそは勝つっ」
まるでバトル漫画の主人公みたいなセリフ吐いて、二人はお互いを視界に入れながらポーズを決める。
中庭の湿った空気の中、二人の吐く息だけが妙に白く、気合いの入り方だけは誰よりも本気だった。
今二人が何をしているのかとゆうと、お互いが中級魔法を使って、動物の形を模して戦わせている最中なのだ。
ピー男爵は風魔法で猿を作り、潤平は水魔法で蛇を作っていた。
風の猿は毛並みまで細かく再現され、水の蛇は鱗の一枚一枚が光を受けてぬらりと光っている。
「……それでは、始め」
数日前から始まったこの訓練を、ずっと見守っているスミレが、開始の合図を告げる。その声はいつも通り静かで、けれど芯の通った響きをしていた。
それを縁側から、ルリとフミとヨリの三人が見守っていて、白蛇のマツ、タケ、ウメは自分と同じ姿をした魔法に興奮して盛り上がっていた。
尻尾の先まで小刻みに揺らしながら、三匹揃って身を乗り出している。
「にゃにゃー!」
「行けっ!」
お互いの号令を皮切りに、主からの命令を受けたそれぞれの魔法で形作られた動物が、勢い良く相手に向かっていく。
地面すれすれを滑るように駆ける水蛇と、風を纏って跳ねる風猿の姿は、傍から見れば本物の獣の死闘さながらだった。
先手を取ったのは潤平の水蛇で、ピー男爵の風猿の一撃を躱すと、足下から這い寄り上半身に巻き付き、そのままギリギリと締め付けた。
苦しそうにする風猿だったが、水蛇の体を掴むとそのままブチブチッと、水蛇の体を千切ってしまった。
水蛇はその時点で魔法としての効力が無くなってしまい、ただの水となって地面に染み渡る。
乾いた土に水の跡がじわりと広がり、それだけがついさっきまでそこに命があったかのような余韻を残していた。
そして役目を終えた風猿も、一瞬の間に風となって消えてしまった。
「あ~~~っ、まだ駄目か~~っ」
「流石にまだまだ負ける訳にはいかないのにゃ!」
自分の水蛇が負けて消えてしまった潤平はショックを受け、両手を地面につきそうな勢いで項垂れる。
一方でピー男爵は勝ち誇った様子で、二本足で立ち上がりwinnerのポーズを取った。
「ピー男爵の勝利です」
それを見ていたスミレは、ピー男爵の勝利を告げ、縁側で見守っていた三人もそれぞれの反応を見せる。
水蛇が出て来て興奮していた三匹の白蛇は、ブチブチッと千切られて無くなってしまった水蛇を見て、ガクガクと震えてホラー映画でも見たかの様な反応をしている。
三匹まとめて後ずさりする様子は、蛇というより臆病な子猫めいていた。
「まだまだ勝てないもんだね……」
「いやいや、数日で僕の魔法と競えるくらいになっているのだから、かなり凄いと思うのにゃ」
「じゃあ次は、火魔法で挑戦してみてもいいっ!?」
「嫌なのにゃ、潤平の魔力量に付き合っていると、僕が倒れてしまうことになるのにゃ。それに屋敷内で火魔法を使うのは禁止行為なのにゃ。またタマヨに怒られてしまうのにゃ。そんなのは僕は嫌なのにゃ」
「ちぇー」
「代わりに誰か他の人とやればいいのにゃ」
そう言ってルリ達四人にピー男爵は視線を向けるが、ピー男爵に見られたルリ達はそっと視線を外す。
示し合わせたわけでもないのに、四人揃って同じ方向へ目を逸らす様は、いっそ見事なものだった。
彼女達も分かっているのだ。
潤平に付き合ったら倒れる寸前まで、魔力を使わされる事になると。
てか実際に体験している。
ここ数日で皆潤平と訓練をしていたから、一様痛い目には遭っている。
ヨリだけは他の三人よりもついてこれたが、それでもギブアップしたのには変わりない。
「わ、私っ、やりますっ」
「えっ?」
「…………いいのにゃ? ルリちー」
ルリが潤平の訓練相手に立候補して、何故か潤平が驚きの声を上げ、ピー男爵はルリの事を心配する。曇り空の下、ルリの声だけがやけに真っ直ぐに響いた。
「はいっ、私は前に強くなると宣言しましたっ。なので魔力切れ位で心が折れていては駄目なんですっ。私はもっともっと強くならないといけないんですっ。お姉様のためにも私自身の目標のためにもっ」
「ううっ、ルリちーが立派に成長しつつあるのにゃ……、あんなに大人しかったルリちーが……、悲しいけどそれよりも僕は嬉しいのにゃ……」
気合いを入れて立ち上がるルリを見て、ピー男爵は目尻を肉球で拭いて、フミとスミレとヨリもどこかしんみりとした雰囲気を醸し出している。
縁側にひとところだけ、妙に湿っぽい空気が漂っていた。
「では、潤平さんお願いしますっ」
「分かりましたっ、とことんやりましょうっ」
潤平が喜色満面でそう言うと、ルリは気合いを入れた顔が少しだけ引きつった顔に、表情が変わるのだった。
しかし、ルリ達の想像とは逆に潤平は訓練の内容を、ちゃんとルリのペースに合わせて行うのだった。
潤平は誰よりも魔力切れの辛さと恐ろしさを知っているので、わざわざ自分から魔力切れを起こす必要はないと考え、ゆっくりと確実にルリが強くなる訓練を一緒に行うのだった。
それに魔法の熟練度は、まだルリの方が少し上なので、潤平もルリから学ぶ事は沢山あった。
水の形の整え方一つとっても、ルリの指導には無駄がなく、潤平は素直に感心しながら手元の水を練り直していく。
一緒に魔法の訓練をして、気付けば時刻はお昼を過ぎている頃、共に汗を流した潤平とルリはスミレに訓練を止められ、フミさんお手製の昼食を食べるのだった。
湯気の立つおにぎりの匂いが、曇り空の下庭に広がっていく。
「いっただっきまーすっ」
「いただきますなのにゃっ」
「どうぞ、お召し上がり下さい」
縁側に足を降ろして皆で昼食を食べていると、珍しい人物がそこに訪れる。
「やあ、皆訓練の調子はどうかな?」
すっかりと回復して体力も戻って歩けるようになった、ルリのお父さんのユウタロウである。
廊下を歩く足取りにはまだどこか慎重さが残っているものの、その顔色は以前よりずっと良くなっていた。
「お父様、どうぞこちらに座って下さい」
「ありがとうルリ、ああっ済まないねフミ」
ルリが自分の隣に座るよう手招きをすると、ユウタロウは素直にルリの隣に座り、当主を直に廊下に座らせる訳にはいかないので、フミが収納から座布団を出して、ユウタロウが座る前にお尻の下に座布団を敷いた。
その動きに一切の淀みがなく、まるで最初からそこに座布団があったかのようだった。
「……今日は生憎の空模様だね」
ユウタロウは座りながら、視線を空に上げて曇り空の天気に苦言を呈す。
「お父様、こちら昼食です」
「ああっ、ありがとう。でもこんなに私は食べれないよ、ピー君と潤平君に渡しなさい」
ルリが昼食のおにぎりを沢山ユウタロウに渡すが、流石に多すぎたのかユウタロウは二つ程、おにぎりを取ると沢山食べているピー男爵と潤平に渡した。
「こちらお茶になります」
「ありがとうフミ」
口を潤すための温かいお茶をフミはユウタロウに手渡す。
湯気がふわりと立ち上り、曇り空の湿った空気に溶けて消えていく。
ユウタロウはそれを快く受け取った。
皆が昼食を食べ進めていると、ユウタロウもおにぎりを食べ始める。
やがて誰も一言も発しなくなり、黙々と昼食を食べ進める時間が続く。
庭木の葉が風に鳴る音だけが、その静けさを埋めていた。
「ご馳走様。美味しかったよフミ」
「恐縮です」
「ご馳走様です。美味しかったわフミ」
「恐縮です」
当主と自分が仕えている主に褒められ、フミは頭を下げるが決して無表情は崩さなかった。
それでもどこか嬉しそうなのは、きっと気のせいではないのだろう。
潤平とピー男爵以外が昼食を食べ終え食後のお茶を飲み始める。
潤平とピー男爵の二人は、まだ食べ足りないようなので、おかわりが続いていた。
「さて潤平君、少し君と話したいのだがよろしいかね?」
ユウタロウは座布団の上で胡座を組み、潤平の方を向き少し固い表情で話し掛けてくる。
それまでの穏やかな空気が、ふっと一段引き締まった。
「…………んっ。はい、何でしょう?」
咀嚼していた食べ物を飲み込むと、潤平はユウタロウの方を向く。
「何、そんなに構えなくてもいいよ。話しはすぐ終わる。今日の夕食前にタマヨとルリを交えて君と話しがしたい。とても大事な話だ。君の時間を奪うようで申し訳ないが構わないかね?」
「全然大丈夫ですけど……」
「それは良かった」
潤平の了承を得られ、ユウタロウはにっこりと笑うと座布団から立ち上がる。
「話しはそれだけだ。皆午後の訓練も頑張ってくれ」
それだけ言ってユウタロウは廊下の奥に歩いていった。その背中は曇り空の薄明かりに溶けるように、静かに遠ざかっていく。
去って行くユウタロウの背中を、ルリは意味ありげに見詰め他の人達は黙っていた。
潤平は残った昼食をピー男爵に取られないように、ピー男爵と静かな攻防を繰り広げていた。
曇り空の下、庭にはまだ、いつも通りの日常がゆっくりと流れていた。
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