第七十六話 重い体と軽い心
その現象はあちこちで確認されていた。
黒い灰が全ての生き物を蝕み、大地と水を汚そうとしていた時。
奪おうとする者必死に奪われまいとする者、命を賭けたやり取りの最中に、桜色の灰が全ての戦場に降り注いだのだ。
夜明け前の空に舞い落ちる桜色の灰は、雪とも花弁とも違って見えた。
淡く発光しながら風に揺れ、黒く汚れた瓦や石畳を静かに覆っていく。
その軌跡だけが、この都に残された傷跡を癒していくようだった。
「…………これは?」
タマヨは目に入ったそれを見て空を見上げる。
一般人の避難も終え、賊の殲滅と捕縛をあらかた終えた頃、黒色の灰ではなく桜色の灰が降っている事に気付く。
周りの人間もその桜色の灰に気付いて各々が空を見上げたり、動きを止めたりしていた。
「……団長、これは敵の新たな魔法でしょうか?」
部下からの質問にタマヨは降り続ける桜色の灰を手に取って眺める。
手の平でほんのりと溶ける灰は、体の中に染み込むような気がして、安心感と暖かさを与えてくれる気がした。
「…………ふふっ」
「団長……?」
「…………いえ。もう大丈夫でしょう、周りに通達して下さい。この灰は体に害はないと、それと口周りを覆う必要は無くなったと。民間人にも伝えて下さい。さあ、後引きです皆気合いを入れましょうっ」
そう言うタマヨの顔は少し晴れやかな顔をしていたという。
「…………副長っ!」
「あんだっ!?」
門を登ってきたナオイエの手の者と打ち合っている最中、部下の一人がミオリを大声で呼び止めてきた。
急に動きが鈍くなった賊を切り捨てると、ミオリは部下が指差す方を見る。
そこには黒い灰に変わって、桜色の灰が降り注いできており、積もった黒色の灰を消すかのように、桜色の灰がどんどんと降り注いできていた。
「…………桜色の灰?」
降り積もるそれを第三区画の門を守っている兵士達は、
ある者は空を見上げ、ある者は手のひらに受け、ある者は横目でその様子を窺っていた。
そして門をこじ開けようとするナオイエの手の者達は、皆一様に動きが先程よりも鈍くなっていた。
第二の精鋭達はそれを見逃さず、次々と賊を倒していくと逃げだそうとした者投降した者を捕縛して、第三区画の門前の戦いは集結するのだった。
その現象を、詰め所の部屋の窓からルリ達も確認していた。
フミ達は手に取りじっくりと眺めるように、ピー男爵は飛び跳ねて桜色の灰を掴み時折口に運んでいた。
ルリは手の平で、桜色の灰を包み込むと大事そうにそれを握り締める。
(…………潤平さん)
ここにはいない、どこかで戦っていたであろう自分の護衛の事を思う。
「……これ位でいいかな……?」
潤平は十回程矢を放ったところで手を止める。
既に十分な程都中に桜色の灰が降り注いでいるし、積もった黒色の灰も桜色の灰が上書きしつつあるからだ。
試しに淀みの魔力の気配を探ったら、もう殆ど淀みの魔力が浄化されていて取り敢えず一安心する。
残った淀みの魔力も、今降り注いでいる分で浄化されるだろうし、生き物の身体の中に残った魔力も、いずれ徐々に浄化されていくだろう。
潤平は手に持っていた神器の弓を収納に仕舞い込む。
その時、こちらを見て笑っているナオイエと目が合い、何だか気まずくなり思わず首を掻いてしまう。
「……何だよ?」
「いや……なに、見事な手捌きてだと思ってね……」
「はあ……? 弓を打ったのは始めてなんだが?」
「……そこではないよ。キミの生き様にだよ」
「…………俺のばあちゃんもそうだったけど、年取ると意味分からない事を喋るんだよな。ぼけたのか?」
「……年を取ると独り言が多くなるのだよ」
「……意味分かんね」
潤平はナオイエの元に行き、地面に横たわっている彼を見下ろす。
「……どうするんだあんた」
「……さてどうしたもんかね。このままキミにトドメを差されるのもよし、キミが私をタマヨ君の元に引き渡すのもよし。どの道負けてしまった私には決定権がないのだよ」
「……ふーん」
「……ただ」
「ただ?」
「……ただ一つだけ、彼女らの最後を見届けたい」
ナオイエは向こうに横たわっているアザミと、未だに燃え続けている白蛇たちに視線を向けた。
「……叶うなら彼女らの隣に行きたいのだがお願いできないかね……?」
「あんたをあそこまで運べばいいのか?」
「……済まないが」
「……分かった」
潤平は横たわっているナオイエに肩を貸すと、覚束ない足取りでアザミの元まで連れて行ってあげる。
「……ここでいい、済まない」
ナオイエの皺だらけの指先が、アザミの頬を優しくなぞる。
その肌は既に冷たく、白髪となった髪は風に揺れていた。
それでも彼はまるで眠る娘を起こさぬように優しく触れていた。
「……アザミ」
「…………はい。ご主人様」
「……私に最後まで着いてきてくれてありがとう」
「…………はい、……ご主人様」
「……辛い思いをさせたね。……もうゆっくりお休み」
「…………はい、…………ご主人様」
潤平は二人の会話を聞いて視線を逸らしたい気持ちに駆られたが、踏みとどまり視線を逸らす事はしなかった。
自分が選択した結果。自分が放った矢。
間違っていたとは思わない。
それでも、この別れを見せられて平然としていられるほど薄情でもなかった。
「……ウメ、タケ、マツもすぐにそちらに行くだろうし、私も老い先は長くない。少し向こうで待っていてくれ」
「…………はい、………………ご主人様」
「……済まない、……ありがとう」
「…………はい、…………私は幸せでした、…………ご主人様」
「…………」
「…………ゆっくりと来て下さい、…………私はいつまでも待っていますから…………」
その言葉を最後にアザミは瞼を閉じてしまい、二度と目覚めることはなかった。
声は震えていなかったが、だが白蛇を抱くナオイエの腕だけが僅かに震えていた。
アザミの返事が途切れる。
その瞬間、辺りを吹き抜けた風が白くなった髪を揺らした。
ナオイエのしわがれた手はまだ彼女の頬に触れたままだった。
まるで眠ってしまった娘を起こさないように。
「…………」
何かを言おうとして結局言葉にならない。
何十年も共に生きていた。妻の面影を求めて作り出した大切な存在だった。
それでもいつからか、ナオイエの中では彼女は彼女自身になっていた。
ナオイエの唇が僅かに震えた。
だが涙は出なかった。
妻が死んだ時に泣いた。
娘が死んだ時にも泣いた。
ナオイエの長い人生の中で流す涙は、とうの昔に枯れてしまったのかもしれない。
それでも胸の奥にポッカリと空いた穴だけは埋まらない。
ナオイエは頬に当てていた手をそっと、アザミの額に移す。
「……そうか」
掠れた声が漏れる。
ナオイエの口からはそれ以上の言葉は出てこなかった。
「……さてウメ、タケ、マツも見送らないとな」
ナオイエは隣で倒れている白蛇の元にも行く。
(…………ん?)
未だに燃えている白蛇達を見て、潤平はどこか違和感を覚えた。
「…………ん~~?」
頭を捻りながら白蛇達の巨体を眺める。
「……どうしたのかね?」
潤平の様子がおかしい事に気付きナオイエはこちらを見る。
「……ちょっと」
潤平はふと一つの可能性を思いつき、燃え続けている白蛇の巨体に回復魔法を掛けてみる。
すると白蛇の巨体が淡く光り、ポロポロと体が灰になっていく。
「……お、おいっ」
余りにも無慈悲すぎる強制的な別れに、流石のナオイエも動じてしまう。
白蛇が元いたところには灰の山が積もってしまう。
ナオイエもその光景に只々呆然としていた。
潤平は灰の山になったところに歩いていくと、中心地の辺りに手を突っ込み何かを探す。
そして何かを見つけたのか、チョイチョイとナオイエに手招きをした。
全く意味が分からないナオイエは、素直に潤平の言うとおりにして灰の山に両足を突っ込む。
するとそこには、とても小さくなったひょこひょこと愛らしく動いているではないか。
数十メートルもの巨体だった白蛇は、今や数十センチほどの大きさになっていた。
白蛇はナオイエの事を親だと理解しているのか、ナオイエの手にスリスリと体を擦り付けていた。
「……これは……?」
「上手く行って良かった。ずっと体が燃えているから、まだ浄化されていないんじゃないかと思って、それで浄化の魔法と回復魔法を掛けたんだけど、こんな姿になるのは予想外だったな」
潤平の言葉も聞き流し、ナオイエは彼等を拾った時の事を思い出していた。
妻と一緒にこの神社に寄ったところ、木の下でお互いを守るように丸まっていたのだ。
それを妻とナオイエが大事に抱え、ずっと今まで世話をしてきたのだ。
ナオイエは震える手で小さな白蛇をそっと抱き上げた。
掌に収まるほどの生まれたばかりかのような小さな身体。
動いている。生きている。
確かに生きている。
白蛇は甘えるようにナオイエの指へと頭を擦りつけてきた。
その感触に、ナオイエの肩が大きく震える。
「……お前達……」
言いたいことはあるのだが声が続かなかった。
確実に死んだと思っていた。
またしても失ったと思っていた。
もう自分の手元には何も残らないのだと諦めていた。
なのに腕の中にいる。生まれたばかりかのような、あの日と同じ姿で確かにここにいる。
「……そうか……」
ナオイエの皺だらけの顔がくしゃっと歪む。
笑っているのか泣いているのか、ナオイエ自身にも分からなかった。
ただ一つだけはっきりとしていることは、ナオイエの胸の奥で凍り付いていた何かが、少しだけ溶けた気がした。
思わず泣きそうになっているナオイエの表情を見て、潤平は残りの二匹にも浄化の魔法を掛けてあげる。
「……よしよし。可愛いなお前達」
小さくなった三匹の白蛇を大事そうに抱え、潤平とナオイエは境内にある木製の長椅子に、二人して腰を掛けていた。
あの後、小さくなった三匹の白蛇をナオイエに渡し、潤平は戦闘で壊れてしまった境内の修復に勤しんでいた。
あっちにもこっちにも壊れている箇所があり、そこら中に修復魔法を掛けた。
そしてこれは秘密の事だが、境内のある場所にナオイエと一緒に、アザミさんを埋めて二人で供養した。
「……キミは不思議な奴だな、さっきまで私を倒そうとしていたのに、何故今は私にここまで付き合ってくれるのかね? 私が憎くないのかね?」
「ん~、分からん。正直何でかは分からないっす、倒そうとは思ってたすけど、別に憎んでいるかと言われたら、別にそこまでって感じすかね」
「…………そうか」
そう言って、ナオイエはポツリポツリと今回の事の顛末を、潤平に話し始めた。
「私はな。皆に生き残る力を与えたかっただけなのだ」
ナオイエは手元で元気に動いている白蛇の頭を撫でた。
「災害にも魔獣にも負けず、明日を生きられる力をな」
お爺さんの独り言を潤平は黙って聞いてあげていた。
「……若い頃の私は、ミツナリがいたこともあってかなりの野心家だった。…………別にミツナリを恨んでいたとか妬んでいたとか、そういう訳ではない。ただ憧れていたんだ。幸い私も御三家の人間だし、魔力の才能はあったからな。人を率いるのには苦労しなかったよ」
ナオイエは腕の中で騒々しくしている、三匹の白蛇をあやすように撫でる。
「その時、私はある女性と結婚した。魔力の才能も無く特に力があるわけでもない貴族の娘とだ。だが私はその女性に一目惚れした。一度出会っただけで彼女の全てに惚れてしまったんだ。何度も彼女の元にも足を運び、そして彼女と結婚することが出来た」
「……綺麗な人だったんすか?」
「……ふむ、綺麗ではあったが雰囲気がな、そう雰囲気が私に合っていると感じたんだ。こればっかりは説明しろと言われても難しいな」
ナオイエは潤平の質問に、恥ずかしそうにして自身のヒゲを何度も触っていた。
「彼女と生活は幸せだった。全てが輝いて見えた。あの時の時間と記憶は今も色褪せることなく、私の中に残っている」
「…………」
「ただ彼女は体が弱かった。魔法も碌に発動出来ないほどに。そんな彼女を周りの人間は笑いもしたが、私は彼女が隣にいてくれるだけで幸せだった」
ナオイエの眼差しはどこか遠くを見ていて、潤平はその眼差しを見て遠い記憶を思い出しているのだと悟った。
「だが彼女が赤子を出産した時、亡くなってしまった。体が弱く妊娠と出産で体力が無くなったところを、病に付かれ死んでしまった。私は荒れたよ、何故彼女が亡くなったのか、私は彼女を癒すことが何故出来なかったのか。当時の私は抜け殻のようになってしまった」
ナオイエと潤平が足を動かす度に、足下に敷かれている砂利が鳴り、二人が沈黙する間はそれが異様に響いて感じられる。
「だが彼女が残した娘が私を救ってくれた。娘がいた事で私はまた現実に戻って来れたのだ。しかしその娘も魔獣との戦いで亡くなってしまった。丁度二十歳の時だ。私は運命を呪ったよ。それ以上に弱い者は生きてはいけないのかと世界を呪った。何故私が生きて弱い彼女達が死ななきゃいけないのだと。弱い者は明日を生きる権利すら無いのかと」
「その時私の歯車は狂ったのだ。強くなくては生き残れない。弱い者は食われるか逃げ続けるかしかない。なら私の手で強く育て上げればいい。そう思い二十年も掛けて国を守り育て上げたが、それでも弱い者は皆死んでいった。そしてミツナリも死んでしまった」
過去を語るナオイエの言葉は何故か悲壮感を感じられなかった。それどころかとても無機質な表情で、淡々と事実を告げているだけな気がした。
「ミツナリが死んだ後私は迷った。ミツナリですら死ぬのなら他の者はどうなるんだと。そして悩み、答えが丁度私の目の前に現れた」
「……それは?」
「……キミも良く知っているやつだよ」
ナオイエの言葉に潤平は一つの答えが頭に浮かぶ。
「……淀みの魔力」
「そうだ。私の屋敷に尋ねてきた男が、この魔力を使えばいいと私に勧めてきたのだ。そして私はそれに飛びついた。妻と娘に似せたアザミを作り、ミツナリに似せたラショウを作った。それに私の部下にも淀みの魔力を与えた。彼等が強く育っていくのを見て、私は手応えを感じた。そしてこの魔力をアズマの民にも使おうと考えた」
「……でも淀みの魔力はそんな便利なモノじゃないっすけど」
「……数年前の私はそれが助けになると信じていた。それについさっきまでの私は疑ってすらいなかった。キミが現れるまでは」
「淀みの魔力は、使った魔力の残滓です。いずれは自然に浄化されますけど、決して普通の魔力みたいに力をくれるモノじゃないっすよ。それに生き物の体にも良くないし」
「……そうか、私は無駄な事をしていたんだな。民を強くするどころか弱らせる行為をしていたとは。私も老いて弱くなりつつあるな」
「でも大丈夫すよ、ちゃんと淀みの魔力は浄化したんで。それにかなり余分に浄化の魔力も打っといたんで。この都は少ししたら、強く綺麗に人も生き物も自然も生きていくと思うすよ」
「………………そうか、それは何よりだ」
「全部浄化したんで、しばらくは平気です」
潤平が空を見上げると、桜色の灰がまだ静かに降っている。
「…………そうか」
ナオイエは潤平と同じように空を見上げた。
長い間胸を締め付けていた何かが、少しだけ軽くなった気がした。
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