9
ご覧いただき、ありがとうございます。
少しでも楽しんでもらえれば嬉しいです。
それからの日々は、驚くほど穏やかなものだった。アイリスは公妃の話し相手として、毎日公妃の部屋へ通った。公妃の部屋に行くと、5歳になった活発な公子と、生まれたばかりのかわいらしい公女が笑顔で出迎えてくれた。こどもとふれあうことに慣れていなかったアイリスは初め戸惑ったが、屈託のない笑顔を向けてくれるこどもたちに徐々に心を開いていった。
「アイリスさまは、こどもと相性がいいですね。公子たちは、アイリスさまに会うのを本当に楽しみにしているのですよ」
公妃の言葉にアイリスは照れ笑いを浮かべた。自分がこんなにこどもに好かれる人間だとは思っていなかった。
「お二人とも、本当に可愛くて、わたしの方こそ毎日会うのが楽しみです」
走り回る公子を眺めながら、アイリスは笑顔で答えた。腕の中には公女がおり、微笑みかけると満面の笑みで手を伸ばしてくる。
これが、あたたかい家族の形なのだろうとアイリスは思う。親子、兄妹で笑い合う幸せな空間に、自分も加わることができたことに今でも信じられない思いでいた。
「おかあさま! アイリスねえさま! めずらしいはっぱをみつけました!」
手を泥だらけにしながらかけてくる公子を、その場の全員があたたかく見守る。見つけた葉っぱを自慢げに幼い妹に見せる姿が微笑ましかった。
春の陽だまりのような、あたたかいこの空間の中で、和やかに時間は過ぎていった。アイリスの心は、満ち足りた思いでいっぱいだった。
腕の中の公女が、木にとまる鳥を指さしてきゃっきゃと笑う。鳥をよく見せてあげようと立ち上がると、不意にめまいに襲われた。自分の体勢の危うさに、アイリスはぎょっとする。
「公女さま!」
アイリスの腕から転げ落ちそうになった公女は、一転して火がついたように泣き出した。なんとか体勢を立て直したものの、大切な命を落としそうになったことに、アイリスは呆然とする。
「申し訳ありません、わたし…」
「一体どうされたのです、どこかお身体の調子が悪いのですか」
公女を受け取りながら、心配そうに公妃は声をかけた。決して責める口調ではないことが、逆にアイリスには辛かった。
「決してわざとではないのです、急にふらついてしまって」
泣きそうなアイリスに向かって、公妃は微笑みかける。
「わざとだなんて思うわけないでしょう、アイリス様が公女を大切にしてくれていることはわたくしが一番よく分かっています」
「ねえさま、大丈夫…?」
アイリスの異変に気がついた公子も、アイリスの手を握って気遣う。その手の温かさに、少し救われた気持ちになった。
「まだお疲れの所もあるのでしょう、本調子でないときは、無理をなさらないでくださいね」
「…はい、ご心配をおかけして申し訳ありません」
このまま解散となり、アイリスは一人自室へ戻った。
(疲れからくるものなのかしら)
思い返してみると、不意にめまいに襲われることはこれが初めてではなかった。公妃の話し相手になってから、精神的にとても安定しており、帝国にいたときのような苦しいことなど何もなかった。それにも関わらず、体調はあまり安定しなかった。急にめまいを起こしたり、一日中ひどい頭痛に悩まされたり、嘔吐してしまうこともあった。
(今日は少し熱っぽいかもしれない。主治医を呼ぶほどではないけれど、一体何なのだろう)
原因不明の体調の悪化に違和感を覚えながら、アイリスは早めに床についた。
* * *
その後も、穏やかな日々が続いた。その穏やかさに反比例するように、アイリスの体調は少しずつ悪くなっていった。公妃との約束を断る日が多くなり、自室で過ごすことが増えた。主治医に診てもらってはいたが、原因はよく分からなかった。処方された薬を飲んでも、あまり改善は見られなかった。
(久しぶりに、公妃さまたちにお会いしたい)
今日は少し気分が良かった。しばらく公妃たちに会っていない。愛くるしい公女や元気いっぱいの公子にも会って、癒やされたかった。
侍女に訪問して良いか言づてを頼むと、公妃自らアイリスの部屋にやって来てくれた。
「アイリスさま。ずっとお会いしたかったのですよ。体調はどうですか?」
「今日は調子が良くて。わざわざ来ていただいてありがとうございます。お会いできて嬉しいです」
公妃の、変わらない優しい雰囲気に、アイリスの身体の不快な部分はどこかへ行ってしまったようだった。思わず、公妃に抱きついてしまう。
「あら、まるで公子のようですね」
珍しく、アイリスが甘える様子に、公妃の顔には笑みがこぼれた。
「公子さまと公女さまにもお会いしたいわ。ずっとお約束を断ってばかりで本当にごめんなさい」
「騒がしくしてしまうかもと連れてこなかったのですが、今度はこどもたちも一緒に参りますね」
ずっと静かだった部屋が、ぱっと華やかになる。アイリスはソファ席に公妃を案内し、嬉しそうに続けた。
「リリアンさまとお茶をご一緒したいとずっと思っていたんです。最近はお話しできていなかったから。今日はたくさんお話ししたいわ」
「ええ、アイリスさまの体調がよろしいなら、わたくしもたくさんお話ししたいことがありますの」
二人は目を見て笑い合う。まるで、仲の良い姉妹のような雰囲気だった。
「こちらもお飲みになってくださいね」
アイリスは用意していたお茶を二人のカップに注いだ。
「良い匂いですね。おいしそう」
華やかな香りに、公妃は目尻を下げた。
「リリアンさまもお気に召すと思ったんです。最近の、わたしのお気に入りのお茶です」
「好みも丸わかりですのね、こんなに仲良くなれるなんて嬉しいですわ」
本当に、和やかなお茶の場であった。誰も、このあとに悲劇が起こることなど予想できなかった。
「うっ…」
二人は同時にお茶を口に含み、そして、公妃が突然苦しみだした。
美しい顔は苦悶の表情へと化し、そして喀血して床へ倒れ込んだ。
「…リリアンさま?」
突然のことにアイリスは呆然とする。
立ち尽くすアイリスを横目に、侍女や護衛の者たちが公妃に駆け寄る。
「公妃さま! 公妃さま! お気を確かになさってください!」
侍女の悲痛な声が響き渡る。いつも笑みを絶やさなかった公妃の顔は、青白く何の表情も浮かんでいなかった。
「一体公妃さまに何をした!」
若い侍従がアイリスにつかみかかった。いつか、自分に厳しい目を向けていた侍従だった。
「皇女さま、ご同行願おう」
いつのまにか、アイリスは兵に囲まれていた。突然の出来事に呆然してといる間に、自分が公妃を害しようとしたと疑われていることに気がつく。
「待ってください、公妃さまは…」
「抵抗するなら、容赦はしない」
向けられる厳しい声と視線に、アイリスははっと気がつく。今までの穏やかな日々は、ただの夢だったのだということに。
アイリスはまるで罪人のように、兵に身体を拘束されて、連行されていった。




