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今まで聞いたことのないほど、温かくて優しい声が聞こえた。包み込んでくれるような、愛情あふれる声。ずっとアイリスが欲しかったものだった。経験したことがないほどの心地よさに包まれ、ここから出たくないという気持ちが強くなる。手に、温かい体温が触れた気がした。このような温もりを感じたのはいつぶりだろうか。母との記憶はほとんどない。母は、自分を愛していてくれていたのだろうか。愛情を持って抱きしめてくれていたのだろうか。今となってはもう分からないけれど、せめて母といた時間だけは、愛情を受けていたかった。
公妃は生まれた我が子をどのように扱うのだろう。慈愛あふれる公妃として領民から慕われている彼女なら、こどもにたっぷりの愛情をかけるのだろう。まだ会ったこともないけれど、アイリスにはそう感じられた。
「皇女さま。今日はとてもお天気がよいですよ」
耳元で誰かが、柔らかく語りかける。あたたかい日差しが感じられた。光のない、あの薄暗い部屋はいつも孤独だった。皇后からの折檻に怯えるだけの日々だった。自分を包む雰囲気からは、そのような暗い様子は感じられない。どこからか、子守歌のような優しい歌声が聞こえた。その歌につられるように、アイリスはゆっくりと目を開けた。
「…」
ぼんやりと、周りを見渡す。まどろみながら、ゆっくりと視界が開けていく。
(本当だ、いいお天気。ずっと雪だったのに)
冬眠している動物が間違って出てきてしまうのではないかと思われる陽気に、思わず微笑む。
「皇女さま…?」
震える声の方を見ると、目を潤ませる女性がいた。
「お目覚めになったのですね、ほんとうに…良かった…」
女性は、アイリスの手を握って涙を流す。その手の温かさと、声の優しさから、ずっと近くにいてくれていたのはこの女性だろうと感じられた。
「あ、…」
感謝を伝えようとするが、思うように声が出ない。女性は涙目で微笑んだ。
「しばらく声を出していなかったのです、無理はなさらないでください。」
しばらくとは、自分はどれくらい寝ていたのだろうと考える。大公と公妃の元へ行こうとして、倒れてしまったことは覚えているが、そこからの記憶がない。
辺りを見ると、自分が大公国で与えられていた部屋とは変わっているようだった。寝台も今まで経験したことがないほど柔らかく、温かかった。
不思議そうにしているアイリスを見ながら、女性は静かに口を開いた。
「名乗るのが遅くなってしまって申し訳ありません。わたくし、大公国の公妃であるリリアンと申します。
皇女さま、この度は大公国が大変な不始末を犯し、本当に申し訳ありませんでした。」
深々と頭を下げた女性を見て、アイリスは目を見開く。
目の前の美しい女性が公妃であること、そしてその公妃が自分に謝罪していることに驚きを隠せなかった。
「…どうして、あなたさまが、謝るのですか、…謝る、べきは、わたしの、方です」
途切れ途切れに、アイリスは言った。声を出すのは難しかったが、それでも自分の気持ちをちゃんと公妃に伝えたかった。幸せな大公夫妻の関係に陰を差してしまったこと、大公国に波乱をもたらしてしまったこと、そして、今まで帝国が大公国にしてきた様々な仕打ちについて、謝罪をしたかった。
しかし、やはり身体が言うことをきかなかった。口を開こうとするのも辛かった。
「皇女さま、今はまだゆっくりお休みください。ずっと、お側におりますから」
公妃の優しい言葉に、アイリスの気がふと緩む。そのまま、眠気にさそわれるように、アイリスはゆっくりと目を閉じた。
* * *
アイリスが完全に寝台から起き上がることができたのは、それから10日後のことだった。自分が倒れてから、2月以上も経っており、春の陽気だと感じたのは勘違いではなかったことに驚く。
起き上がることができるようになっても、公妃はアイリスの側を離れなかった。謝罪のために代わる代わるやってくる、大公や重臣たちへの対応も、公妃が側で見守ってくれたおかげで、あまり気負わず行うことができた。少しでも顔色が悪いとすぐに気遣ってくれ、あたたかい食事を運んでくれたり優しい言葉をかけたりしてくれた。
そんな公妃のあたたかさを、アイリスは最初不審に思った。公妃の座を脅かす存在である自分にこのような待遇を与えてくれるわけがないと思っていた。今まで出会ってきた人々のように、いずれ冷たい目を向けてくるだろうと思っていた。
しかし、しばらく接するうちに、公妃は心から自分のことを案じてくれていると実感した。公妃のまなざしには、アイリスへの侮蔑は一切なかった。差し出してくれる手には、まるで我が子を抱きしめるような愛情にあふれたあたたかさがあった。
アイリスは初めて、人から受けるあたたかさというものを知った。これに慣れてはいけないと思うが、公妃からの愛情に抗うことなどできなかった。
「リリアンさまは、どうしてわたしにこんなに良くしてくださるのですか?」
アイリスは何度も公妃にこう聞いた。その度に、公妃はふわりと微笑みながら答えた。
「アイリスさまが大切だからですわ。わたくしにとっても、この大公国にとっても、アイリスさまは宝物のような存在なのですよ」
共に過ごす間に、お互いを尊称ではなく名前で呼び合うようになっていた。宝物、という言葉がくすぐったくて、けれど信じられないくらい嬉しくて、アイリスは繰り返し尋ねてしまう。
(リリアンさまが、本当の家族だったら良いのに)
アイリスはぼんやりと考える。帝国には、血のつながりのある者はたくさんいた。けれど、決して家族ではなかった。家族の情など、感じたことはなかった。
(リリアンさまは、わたしを大切に思ってくれている。味方になってくれている…)
そのことが、何よりも嬉しかった。




