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アイリスはぼんやりと窓の外を見ていた。今日は少し調子が良く、なんとか身体を起こすことができた。吐く息が白い。あまりの寒さに、朝と夜に食事を届けてくれる使用人に暖炉をつけてもらったが、それでも北国の寒さは異常だった。大した防寒着も持たせてもらえなかったアイリスの身体には、慣れない極寒の気候は堪えた。ただでさえ弱っていた身体がますます弱っていくのを日に日に感じていた。運ばれてくる固いパンと薄いスープを必死に食べようとしたが、傷の痛みや発熱で食欲がわかず、半分も喉を通らなかった。ろくに治療もできていない、背中の鞭の跡はおそらく化膿してしまっているだろう。
「けほっ」
乾いた咳が出る。死に近づいているような実感があった。自分が死んだらどうなるのだろう、とアイリスは思う。厄介者がいなくなったと喜ばれるだろうが、帝国が大公国に責任を押しつけたら、また大公国は苦しい立場になるかもしれない。アイリスがここまで弱っている原因の大半は皇室にあるというのに。大公国で良い待遇を受けているとは言えないが、皇宮での日々を思えば、身体を傷つけられることはなかった。
(どちらにしても、邪魔者であることには変わりはない)
自分は一体何なのだろう。ただ、周りの人に不快感を与えるために生まれてきたのだろうか。せめて、少しでもいいから何か意味があることを成したかった。
(…まだ、諦めたくはない)
自分の手と手を震えながら握りしめた時、扉が急に開いた。
「帰還された大公閣下が、本日の晩餐会にお呼びです」
「…閣下が…?」
アイリスは目を丸くして、入ってきた侍従と思わしき青年を見つめた。
「公妃さまもお待ちですので、お早く」
顔をしかめながらせかすように促す侍従の言葉に、アイリスは戸惑った。
「お待ちください、支度をいたします。」
晩餐会のようなものにアイリスは出たことがなかったが、ドレスコードのようなものがあることは知っている。今の自分は、よれよれのワンピースにぼさぼさの頭で、とても晩餐会に出られる格好ではなかった。大公国に来たときの衣装ならば、と考えていると、侍従は吐き捨てるように言った。
「着飾って大公閣下の寵愛を得ようと? 愚かなまねはやめていただきたい」
「寵愛…?」
アイリスは自分の心がすっと冷えていくのを感じた。自分の行動は大公夫妻の迷惑にしかならない。下心などなくとも、周りには公妃の座を脅かす憎らしい存在と捉えられていることを実感する。
「大公閣下と公妃さまのお優しさにつけこんで、横暴な振る舞いをされるものなら、私は絶対に許しません」
(この人は、大公夫妻を心から敬愛しているのね)
侍従の強いまなざしと口調は、アイリスを責めたてたが、不思議と不快な気持ちは感じなかった。あるのは、こんなにも慕われる大公夫妻とその家臣との関係に陰をさしてしまっているこの状況への申し訳なさだった。
「…肝に銘じます。案内をお願いできますか」
(行かなくては。大公閣下に、そして公妃さまに謝罪をしたい。私の降嫁も、今までの帝国の仕打ちも)
それが、自分がここに来た意味なのかもしれない。
アイリスは全身に力をいれて、寝台から下りた。
本当は、動くことも精一杯だった。気を緩めたら、すぐに倒れてしまいそうな感覚があった。一歩進むだけで、視界がかすむ。謝罪をしたい、という強い気持ちでアイリスは自分を奮い立たせたが、限界はすぐだった。案内する侍従の姿はもう遠くになってしまった。景色が歪む。咳き込むだけで、体力が奪われていく。手についた血を見ながら、アイリスはゆっくりと地面に倒れ込んだ。
* * *
「これは一体、どういうことだ」
本来なら和やかな雰囲気で晩餐会が行われていた王城は、緊迫した雰囲気に包まれていた。皇女が倒れた、と連絡を受けて大公が駆けつけた場は、防寒設備が不足している別棟のせまい個室であった。とても皇女が過ごす場所ではない冷たくかび臭い部屋の中で、青白い顔をして寝台に横たわる皇女がいた。すぐに暖かく衛生的な部屋へ移させ、御医を呼んで治療をさせたが、御医からの報告は大公を驚愕させた。皇女の健康状態は一刻を争うものだったからだ。
「あと少し、治療が遅れていたらお亡くなりになっていたでしょう。今も危険な状態です。この数日が峠かと」
「なんということでしょう」
公妃が悲痛な声をあげた。御医は言いにくそうに続けた。
「あの寒い部屋で、大した食事も取っておられなかったため、体力が非常に落ちています。部下が今看病しておりますが、どうなるか…」
「なぜ、皇女はあの部屋にいたのだ。侍女は何をしていた」
大公の暗い声に、侍女頭があわててひざまずく。
「も、申し訳ございません。あまりかまわないでほしいと仰っていましたので、我々のお世話はいらないのかと。公宰相さまにもそのようにせよとのことでしたので」
「必要最低限で良いとは伝えたが、これは必要最低限を超えているだろう…」
スミールは呆然とした顔で呟いた。信頼していた部下が、このような失態を犯すとは思っていなかった。
「侍女として普段通りの仕事を皆が行っていれば、皇女がこのようなことにはならなかっただろう。今更言っても仕方がないが…。そなたたちの責任は重い。スミール、そなたの監督責任もだ」
大公はそう言い切り、そして立ち上がった。
「しかし、責任は私にもある。私が意地を張ったせいで、皇女への対応に混乱を生じさせてしまった。私が毅然とした態度を取っていれば、そなたたちのような有能な家臣が、このような愚かな真似はしなかったであろう。申し訳なかった」
大公は自分自身に重い責任を感じていた。皇女を軽く扱っていいという雰囲気を作ってしまったのは自分だった。帝国のやり方を批判し、皇女を出迎える準備について明確な命を下さなかった。そればかりか、降嫁の日に王城を留守にした。皇女その人は何の罪を犯したわけでもないのに。
怒りをこめて握りしめた大公の手を、公妃は優しく包んだ。
「今はとにかく、皇女さまのご無事をお祈りいたしましょう。回復なさったときに、皆で謝罪をしなくては」
公妃のあたたかみのある声に、ひりついた場が少し和む。その中で、御医がまた言いづらそうに口を開いた。
「もう一つ、申し上げることがあります。皇女さまのお身体ですが、多くの傷跡があり…、おそらく鞭で打たれた跡かと思われます。背中の鞭跡が特に重傷で、化膿してしまっており、そこから発熱して弱ってしまわれたのかと」
「鞭とは、一体…。帝国は、皇女を鞭で打つのか? 皇帝の娘を?」
御医の言葉に、場が騒然となる。第二皇女が傷だらけとは、どういうことなのだろうか。
「…閣下。発言をお許しいただけますでしょうか」
うつむいていたスミールが、おずおずと口を開いた。
「何か知っているのか」
「帝国に密偵を放ち、皇女について調べさせていました。先ほど報告を受けたのですが、皇女は…、およそ皇女と思えぬ扱いを受けていたようです、皇后によって」
「皇女は皇后の娘ではないのか」
大公が難しい顔でスミールを見た。帝国からは、第二皇女は皇后の愛娘であると伝えられていた。
「そのようです。側妃の子でもなく、後ろ盾がいなかったようです。使用人として育てられ、皇后の機嫌を損ねると厳しい折檻を受けていたと。今回の降嫁も、大公国でどんな扱いを受けても構わないから選ばれたようです」
「…皇女さまには、誰も味方がいなかったのですね」
公妃が静かに呟いた。味方になろうとしなかった者たちにとって、この言葉は重く響いた。
「閣下、わたくし皇女さまの看病につこうと思います」
「しかし、あなたはまだ出産したばかりでは」
「休憩もしっかりとりますので問題ありませんわ。皇女さまの扱いを皆に見直してもらうためにも、わたくしが必要だとは思いませんか」
公妃の言葉に、大公ははっとした。公妃が皇女の部屋にいれば、どんなに帝国を恨んでいても侍女は丁寧に仕えるだろう。王城の中心である公妃が皇女を厚く敬うことで、皇女の地位が安定する。大公がやろうとしなかったことを、公妃は立て直そうとしていた。
「私が大公でいられているのはあなたのおかげだな」
「夫婦は支え合ってこそです。それでは、皇女さまの元へ参りますね」
公妃はほほえみ、御医の案内に従ってその場をあとにした。
大公は家臣等に向き直り、命令を下した。
「皇女から話を聞くためにも、皇女の治療に全力を尽くせ。皇女のことが落ち着いてから、そなたたちには処分を下そう。まずは情報収集を急ぎ行うように」
厳しい声で言いながらも、大公は迷っていた。今後の皇女の処遇も、帝国への対処も、何もかもが先を見通せなかった。




