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どれくらい時間が経ったのか分からなくなっていた。何度も何度も、公妃が血を吐いた映像が頭の中でよみがえる。
(リリアンさま…、ご無事でしょうか。なぜ、あのようなことに)
あまりにも突然のことだった。呆然としている間に、公妃は倒れ、自分は捕縛されて地下牢に入れられた。
何度も繰り返される尋問も、自分に答えられることは何もなかった。ただ、公妃の安否を確認することしかできなかった。誰も教えてはくれなかったが、それでも公妃の無事を確かめたかった。今すぐにでも、この牢から出て公妃の元へ走って行きたい。「どうしたのですか」とあたたかく公妃に微笑みかけられたい。以前のように、和やかな雰囲気の中、他愛のない話で語り合い、公子と公女を見守りたかった。
(あれは、夢だったのね)
牢に入れられた初めの頃は、出して欲しいと声をあげた。鉄の柵をつかみ、どうにかして出られないかと抵抗した。しかし、何も起こらなかった。暗く閉ざされた地下牢の中は、ぞっとするほど静かだった。尋問のために別室に移動させられる以外は、暗くかび臭い地下牢にただ座り込むしかできなかった。
(一人は慣れているはずだったのに)
地下牢は、帝国で折檻を受けるときに閉じ込められていた部屋によく似ていた。光の入らない部屋に、たった一人取り残されることなど、帝国では日常だった。
(夢を見てしまったから、弱くなってしまった)
公妃からの慈愛に、公子と公女からの愛情に、甘えてしまっていた。それが日常であると錯覚してしまっていた。自分には、そのような日々など来るはずがなかったのに。
(愛されない存在であることなど、分かりきっていたのに、何を期待していたのかしら)
アイリスはぼんやりと自分の手を見つめた。小さく、かさついて骨張った手。幸せではなく、災厄を招いてしまう自分を象徴する手だと感じた。
(きっと、リリアンさまを害そうとしたのは帝国の手の者でしょう)
何らかの形で、公妃に毒を盛り、それをアイリスの仕業に見せつけた。アイリスが罪に問われても、帝国は何も痛手ではない。大公国が帝国に強く出られないことも、帝国はよく分かっている。領民に慕われる公妃を傷つけて大公国を混乱させ、邪魔な庶子の皇女を排除することが狙いだろう。
(皇后さまがわたしを自由にしておく訳がなかったわ)
何を夢見ていたのだろう、あたたかい家庭での平和な日々を。自分にそんな日常が来るはずなかったのに。帝国の手を離れたと油断し、公妃の優しさに甘えていたために、帝国の毒牙に巻き込んでしまった。
(こうして牢に囚われて、当然なのかもしれない)
自分の存在自体が、罰であるということを忘れていた。宝物だと言ってもらえたことがあまりにも嬉しくて、本当の事実から目を背けてしまっていた。
(これから、大公国はどうなるのかしら。公宰相さまなら、どうするのかしら…)
一度は侮蔑の目を向けてきたスミールが、自分を認めてくれたことは驚いた。しかし、その信頼をまた裏切ってしまった。もう、信じてくれることはないだろう。
しかし、それで良いのだとアイリスは思う。自分への同情など持たず、帝国に立ち向かって欲しかった。帝国の脅しに屈さず、帝国の非道を公に糾弾して欲しい。
(あの方からの便りをどうにかして大公閣下に知らせなければ)
大公たちの助けになればと、微力ながら動いてきた。自分はもう、便りを受け取れないかもしれない。だが、スミールの元に届いてくれれば、きっとうまく動いてくれるはずだ、そうアイリスは信じていた。しかし、自分がここに囚われている今、どうするべきか分からなかった。
そのとき、不意に声がかかった。立ち上がり、声の方を見ると、一人の人影が見えた。
「…あなたは?」
「なぜ、罪を認めない。お前の罪は明らかであるだろう」
恨みのこもった声だった。いつも自分を厳しい目で見ていた侍従の、強い憎しみが伝わってきた。
「公妃さまの容態は、どうなのですか」
怒りを注ぐだけだろうと思いながらも、アイリスは聞かずにはいられなかった。
牢の柵が大きく揺れる。
「次はどんな手を使って公妃さまを害するつもりだ! あのお優しい公妃さまの恩に報いるどころか、お前は…」
薄暗くて表情は見えないが、きっと憎悪の眼で自分を見ているのだろうとアイリスは思う。
「今すぐにでも、お前を殺したい気持ちを抑えているんだ、公妃さまの敵をこのまま自由にしてたまるか。早く自白して、罪を認めろ」
「あなたは本当に、公妃さまを尊敬しているのですね」
怒りで興奮する侍従と対照的に、アイリスは静かな声で答えた。」
「何を…」
「公妃さまを危険にさらしてしまったことは、悔いても悔やみきれません。わたしの油断が招いたことでした」
直接手をかけたわけでは決してない。しかし、自分の存在が公妃に危害を加えたことは否定しようがなかった。
アイリスの言葉に、侍従はたじろぎを見せた。口調が少し控えめになる。
「…今更殊勝ぶっても、何も変わらない。お前の存在は、この国にとって悪でしかない」
「分かっています。すべての混乱の原因はわたしであると。
…でも、わたしもあなた方と同じ気持ちなのです」
アイリスは強い思いをこめて侍従を見つめた。目が慣れてくると、侍従の顔がぼんやりと見えた。目つきは未だに鋭かったが、改めて見ると案外素直そうな顔だった。今までのことを振り返って、決してアイリスに好意的とは言えなかった。けれど、理不尽なことはしてこなかった。彼の言葉の裏には、大公と公妃への尊敬だけがあった。まっすぐで、真面目で、誰よりも大公国のことを大切に思っている、そんな青年なのかもしれなかった。
「公妃さまは、こんなわたしを宝物と言ってくれました。帝国で誰にも顧みられなかったわたしの存在を認めてくださいました。信じてもらえないかもしれませんが、わたしはこの国を心から大切に思っているのです。帝国の理不尽な要求を受けず、平和で幸せな国になってほしいと願っています。少しでもわたしの動きが助けになればと、そう思っていました」
「動き…?」
鼻で一蹴されるかもしれない。聞き流されて、自分の意図は伝わらないかもしれない。けれど、尋問官よりも、この青年の方が自分の言葉を受け止めてくれるのではないかという気がした。
「帝国からの圧力から逃れる策を、ずっと考えてきました。そのために、陰で様々に動いてきました。もうすぐ、わたし宛てに密書が届くはずです。もしかしたら、近衛兵の方たちに破棄されてしまうかもしれませんが…。あの密書は、必ず大公国の利益になるものです。わたしの言葉をどうか、宰相さまにお伝えいただけませんか。宰相さまなら、きっと…」
「お前の言葉を、どう信じろというのだ。帝国の間諜のくせに」
言葉と裏腹に、侍従の顔には迷いが生じていた。
「宰相さまとお約束したのです。帝国から、大公国を守ると」
アイリスの必死な言葉に、侍従は目を泳がせた。そして唇を引き結び、何も言わずにその場をあとにしていった。
侍従の後ろ姿を見つめながら、アイリスは脱力して壁にもたれかかる。
(どうか、宰相さまに届きますように)
確証はなかったが、あの青年なら良い方向に動いてくれる、そんな気がしていた。
張り詰めていた気が緩むと同時に、脚に力が入らなくなり、アイリスはその場に座り込んだ。粗末な筵は、それでも少しあたたかい気がした。
ふと足を触ると、尋問の際に打たれた跡が大きく腫れ上がっていた。春であっても、地下牢は凍えるほど寒く、痛みに鈍くなっていた。尋問では、気絶するまで殴られることもあった。薄暗くてよく分からないが、身体中に傷があるのだろう。頭がぼんやりしていて、身体が重かった。以前からの不調も相まって、座っているだけでもやっとだった。
(今回こそ、死んでしまうかもしれない)
今まで何度も死の淵を彷徨ってきたが、もう身体の限界のような気がした。
不思議と、悲しみは湧いてこなかった。幸せな夢を見せてくれた大公国に混乱を呼んでしまったことだけが、ただ悔しかった。準備していたことが、実になって大公国の助けになることを祈りながら、アイリスは壁にもたれて目を閉じた。
* * *
(きっと、皇女が自発的に行ったことではないだろう)
それが、スミールの推測だった。
以前、皇女と話したことがよみがえる。皇女は、いずれ自分が災厄を招くかもしれないと危惧していた。帝国が何か仕掛けてくるかもしれないと考えていて、そして決して帝国の言いなりにはならないと断言していた。あの言葉が嘘だったとは思えない。皇女は利用されたに過ぎないだろう、とスミールは思う。
しかし、皇女を今すぐに自由にすることはできなかった。罪を不問にすることもできなかった。皇女が大公国にいる限り、災厄は繰り返される。それは、皇女も分かっているだろう。尋問では、公妃の無事を聞くばかりで、自分の罪について何も答えないと聞く。抵抗しても何もならないと理解しているのだ。その皇女の聡さが、スミールには悲しかった。
『どうか、帝国に立ち向かってください』
皇女の必死な訴えが脳裏によみがえる。皇女は大公国の行く末を案じていた。そして、自分にその行く末を委ねようとしていた。決して好意的ではなかった大公国のことを本気で心配していた。その健気な思いに、報いなければならない。
(皇女さま、どうかお待ちください。必ず、誰もが帝国の脅威から逃れられる場所にしてみせます)
地下牢で皇女が衰弱する前に、何としてでも領民すべてが納得する方法を考え、帝国に立ち向かい、皇女を救い出さねばならない。
スミールは深く息を吸い、部下からの報告書を読み始めた。




