446 肉料理:レーヴェ・フロムダール(40)
「私は誰も殺さない……誰も傷つけない」
「抽象的に答えるのはやめてくれませんか。どうやら私を軽蔑しているようですが、私が何をしたというのです」
「彼女を傷つけたのは貴方だ。理力が証明している」
「では何故怒りに耐えて私と会話を?」
「軽蔑が加害を遠ざけています」
「軽蔑が…ハッ」
男は回答が気に入ったといわんばかりに二度噛みしめるように頷いた。裏地の赤を鮮やかに揺らして祭服を翻し、襟元を摘まんで上から下に整える。その所作は彼が物事に本腰を入れる際に用いる癖だった。
彼は聡明な者が好きだった。性別年齢に関係なく賢者たりえる若者を探していた。かつて上流階級の子に教育を施していた時は、自分が優秀であると思い込んでいる子供を多く見たが、煌びやかな円光を避けるようにして暗闇を歩きたがる子の方がそそられた。そうした子は自分が特別であるとは思わず、はじめて心をくれた娘をどこまでも忘れることができない。あの兄弟にとってのリーリート・ロラインであるように、ゾアルの青年にとっての物言わぬ聖女のように。
「君は見所がありますね。良い生徒になるでしょう」嫌悪から口を挟もうとしたレーヴェを人差し指で押し留め、「まず、家畜といったことは取り下げましょう」と言った。
徒歩で近づいてくる男に、レーヴェは後ろを何度も振り返りながら下がった。衛士たちの頭の向こうにはまだ理術帯が浮かんでいる。まだ目覚めてはいないのだ。夢の中で彼女は逃げろと言っていたが、このまま背中を見せることはできなかった。
「しかしなんとまろやかで濃厚な理力でしょう。龍下に都合してくださるように懇請したこともありましたが、私には値する願望がないと仰せになられて。こうして得てみれば、こんなにも静寂を味わえるとは思いもよりませんでした……私はね、彼女と面識があるのですよ」
「……それは、変でしょう」
「殺しておいて? ふふ。君はどのような関係なのですか?」
レーヴェは絶句してしまい何も返せなかった。男が面識があると言ったことに対して理解するまでに時間を要していた。あんなにも美麗で心根の清い人を、こだわる理由もなく無感動に殺すことができるのか。彼女を知り、愛おしく思ってしまったレーヴェには信じられない世界だった。
「逢ったばかりということか。ふむ」男はこともなげに天窓を見上げた。
「君は行きずりの女に熱中してしまったのですね、若者にはよくあることです――あぁ、怒らせるつもりはありません。あの子をみるとみんなそう"なる"んですよ。つくづく、この人だと思ってしまう。彼女はとても元気で愛嬌があって、私ですら愛おしく思ったものです」
日頃この男が方言癖を装って、他人の生活をさまざまに創造しては見栄に役立てていることは誰も知らない。大抵の事は虚言だが、関知し得ない相手にとっては真実となる。
レーヴェはつけ込まれるような反応をみせる訳にはいかなかった。食いついてはいけないと思いつつも唾を飲んで、男が何を言うか待ってしまう。話が本当であると判別することもできないということは、嘘だと切り捨てることもできないということだ。
男はそうした葛藤を見抜きながら指摘しない。あえて中心を避けるように話題を詰められていく感覚がレーヴェの足元を揺るがしている。男は肉付き豊かな首をめぐらせて、天を仰いだ。掘り出した記憶をしっかりと綴るために厚い舌で唇を湿らせる。
「彼女は何かと口実をつけて書斎にやってくるのです。お気に入りの長椅子の端っこに腰かけて、縫い物に愛を注いでいました。家紋を戴いた大時計が鳴ると、顔をあげてひと息ついた彼女は、私ににこりと微笑みました」
あれはロライン邸の書斎、聡明だけれども野望を持たない逃げ腰の長兄の指導にあたっていた時のことだ。あの兄は彼女を空気のように扱っていた。
ろくに見もせず、妹に構っていられない雰囲気をだしているのではない。自分の生涯に彼女がいて当然だというように何をするにもあの愛らしい存在を真正面から受け入れていた。妹の美しさも、始終そばに居られることに対しても何一つ言葉をかけず、ただ愛されたり守られている女と、庇護を誓う男がいるだけだった。二人は夫婦の手本のようなものだった。
『スベルディア様、今日はここまでにしましょう』
『はい、先生。ありがとうございました』
『もうお済みになったの? 時が経つのは早いわ』
『深く集中なさっていたようですからね。どこまで進んだのですか?』
『お兄様のそばだから心地いいの。こちらよ』




