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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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447 肉料理:レーヴェ・フロムダール(41)

持ち上げた刺繍枠の裏から複数の糸が伸びたままだということに彼女は遅れて気づいた。処理をし終えたと思っていた糸が絡んでいるのをみて、彼女は肩をすくめた。


「差し出した手はすぐに下げられた。不格好だからと、恥じらいを見せた彼女はまた俯いてしまったので、柔い毛の中に渦を巻くつむじを見下ろすことができました。わざと残念がると、手元を隠すことを諦めて見せてくれました。彼女は本当に可愛らしい人だった――(誰かを裏切ることに慣れていない愚かな女)――羽を休める鷲の風切羽の陰影まで縫いこまれていました。とても美しい刺繍でした。鷹はうちの家紋なので、私の為に縫ってくれていることはすぐにわかったのです」


あの神経質で執着のきつい兄は修学道具を片付けていたけれど、すぐに背中に咳払いと刺すような視線を投げてきた。それは心にしまいこめない暗号のようなものだった。


少女の美しい体の中に、自分への想いだけが充満していなければ嫌なのだ。それというのが、彼の胸元にはいつも同じ白布が折りこまれているが、目の前で不意の失敗や涙があったとしても決して自分の白布を差し出すことはしなかった。決して穢さずに真っ白いまま胸におさめておくことを美徳としているのだ。彼は妹の耳に口を押し当てて、秘密事をつくりたがった。こうした態度は家族にしても行き過ぎているが、彼女は意に介していないのだから、やはり二人は夫婦のようなものだった。


(けれど……気が多い妻でもあった)


胸元を三つ指で抑える。そこに覗いた白布を撫でると『差し上げます』と柔らかい声を思い出す。美しい女と複数の伴侶、いささか童話めいた話だ。レーヴェは、男の動作から胸元の白布と彼女とを結びつけた。


「もう一つお話しても?」

「…………」

「私はいつも龍下の御指図のもとで教務にあたっているのですが、ある日特別に執務室の奥、豪華絢爛なお部屋に入室を許されました。彼女は長椅子の端っこに座っていました。生活のほとんどがままならなくなっても、お気に入りの場所は覚えているのでしょうね。何もせず、ただぼんやりとして龍下を待っているようでした。私は彼女の対面に立って"挨拶"をした。当然声は返りません。視線の先に水差しがあったので、半分注いで差し上げたのです。彼女は黙ったまま、私の動きを眺めていた。杯を揺らしたりすると目が追いかけてくる。杯を持たせるとそこで初めて私を見て、やわらかく微笑んでくれました。白い喉が仰向けになって、とくとくと動く。けれど口の端からこぼれた水で金糸の刺繍入りの服はどんどん水を吸う。妙に心が騒ぎました。あぁ、この子は体と心が別離している。私のことは覚えていないのだ。とても憐れでなりませんでした……今となっては鷹の刺繍だけが彼女の思い出を証明するものとなったのです」


二人の距離は馬二頭分となり、無感動な横顔をみせる男は廊下の奥や天井に視線だけをやった。レーヴェは思う。胸元の白布に本当に刺繍が刻まれているのだろうか――。


思い出を語っているのに、執着に息が詰まるのはなぜなのか。美しい光景を描写している言葉の裏に、重たい情感がこめられている気がして、レーヴェは酩酊していく。誰もいない空間へさしむけるには濃厚過ぎる執着が、どうしようもなく不快にさせる。老いた男の目は思い出を語る澄んだ目などではなく、何かが(くずお)れて濁っていた。


綺麗に繕った見目に反して、底の知れない闇を感じる。この男が何者なのか、まとわりつく不穏にレーヴェの背中に震えが走る。骨を伝い、極限まで持ち上がった尻尾は、二またの先端を男に向けて垂らした。男は周囲にぐるりと漂わせた視線をレーヴェに戻すと、警戒されていることに眉をあげて驚いた。


「何故怯えているのですか?」

「……彼女と既知の間柄でありながら、どうしてそんなむごいことができるのですか…?」

「理力を奪ったことですか? それとも無残に扱われる彼女を今日まで見過ごしてきたことでしょうか」

「……っ」

「冗談ですよ。あの方たちをみていると自分の愛の定義がまがい物だと気づかされます。とてもお似合いなのですよ」

「なにを……」

「もちろん龍下のことです」


心底わからず、みじめさに泣きたくなった。他者と感覚が合わない時、身と心が切り離される苦しみを味わう。レーヴェは男と関わったことに悔恨を感じた。






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