445 肉料理:レーヴェ・フロムダール(39)
「……これが"あの方"の理力……いやはや、これ程だとは…」
理力の塊を取り込んだ男は、肺にたまった息をすべて吐きだすと首をくたりと折って、そしてまた仰け反って大きく息を吸った。全身で理力を堪能する仕草は廊下で繰り広げられた逃亡劇から辞して自分だけの世界に閉じこもっていた。
顔の前に掲げた両手をひらと眺めて、喉をあお向けてから牛革の手袋を袖口深く引き下げた。革が擦れる時に発する特有の鳴き声のあと、間髪を入れず指先から放出された理力が男の意に合わせて浮かびあがった。光の粒は一回転すると幼魚に姿を変えて、ぱっくりと開いた男の口に飲み込まれた。ごくりと、誇張した嚥下のあと、にんまりと弧を描く口を白布で拭う。
男の"小芝居"には非常な熟練があった。
相貌はどこにでもいるような中肉中背の老人だったが、他人から師事を仰がれることに慣れている者が漂わせる余裕があった。すべてについて指図を与え、物の考えは大きく柔軟で、気の利いた冗談で場を和ませては、他人に気持ちよく金を使わせることができる者。それは龍下や大主教、司祭たちが持つ先導者の素質であり、こんな状況でなければゾアル確保の為に現れた同志であったが、理力を吸収してもなお男が浮かべる穏やかで静かな笑みは、善と悪の境がない者のそれと区別がつかなかった。
ロラインの衛士たちは男の姿をみとめるとゾアルの捕獲と大主教の警護に人員を再編した。落下した照明で負傷した者はおらず、足止めの体で立ちはだかった男の衣装が祭服であったことからも、心情的には大主教の前でゾアルを取り逃がす失態をせずにいられそうだと安堵していた。少女を死に至らしめたのは理力の行方からして彼であることは間違いなかったが、簒奪者に理力が渡る仕組みなど判じている者はなく、彼が教職者であればその他の事は衛士たちが判断することではなかった。
今宵の晩餐会の為に選抜された衛士たちは、他領の同職位との交流を目的とした比較的若年の男によって構成されていた。その為、今まさに大主教の腕の中で息を引き取った少女が彼の身内であることを知る者はいない。
あくまでも少女の身分は、龍下が隠していた濫觴の民であり、国に繁栄と豊穣をもたらす定めにある女であった。
ギンケイ、アクリス、シュバ、クサビなどの異形種たちの祖であり、神がいた時代の存在だ。けれども見た目は痩せ衰えた栄養不足の子供であり、赤子のように口元を唾液いっぱいにし、血でその身が染まろうとも何の反応も示さないため神話に描かれているような畏怖を感じることはなかった。
海をもちあげるほどの術と、即死しても生き返る不死の能力があったとしても、目の前にいるのは炉端の浮浪者といえばそれまでだ。
教会の庇護対象ではある―――あるが、ロライン大主教自ら庇護しなくともよいではないか。彼らの心には事情を把握しきれない事からくる酷薄さがあった。
衛士たちが腰から下げるエゲリア写本には、"濫觴の民"の愚行が数多く記され、今を生きる異形種が支払っている代償について知ることができる。エゲリア写本、そしてその原典である聖典によれば濫觴の民は神殺しの罪を償わなければならないのだ。
教会を疑うべからずという規律や、生まれてこの方教会にすがって生きてきた者にとっては、うずくまるロラインが術に集中して汗水垂らしている姿は一人の少女を懸命に救おうとする純粋な善行に見える。だが、この少女が濫觴の民であるならば――助ける必要はないのだ。
五重の帯は回転し続けている。ロラインの目は床に張りつき、身を震わせている。
胸の中に抱き込み、押し潰すように自分の身で覆い隠した少女は四肢を放りだしたまま動かない。誰も声のかけようがなく、また指示がくだる気配もなかった。一方で理力を吸った祭服の男は笑みを絶やさず、互いで挟み込んだ形となったゾアルを彫像をまざまざ眺めるように見ていた。その視線には、傅きたくなる強制力がある。
「名はなんと言うのですか」
目を細めるレーヴェに、男は黙然と控えていたが、いつまでも答えないとみると首を傾げた。
「あぁ……家畜に名前がついている筈ありませんね」
「何故彼女を傷つけたのです」挑発に乗らず、怒りを押し込めて問いかける。男は声をあげて笑った。
「あはっ、けだものが喋った。お上手、お上手」
「私はどうあっても、貴方方と同じ道はいかない」
「というと?」




