443 肉料理:レーヴェ・フロムダール(37)
周囲には地位も名誉もぶら下げた男達が一点を見つめて息を飲んでいる。視線が向かう先は私ではない。顔の向きは一様に"隣"に注がれている。
振り向こうと試みる自分の動きがやけにゆっくりとしていた。数十秒かけて、肩を上げ、首を回す。耳の奥に膜が張られて音が遠くなったのか、生唾を飲み込む音がやけに大きく響いていた。
どこかの部屋へ通ずる道半ば、幅の広い廊下の床にレーヴェは倒れている。自分がいつどこで何をしていたのかわからなくなり、夢で、最後に見た弱そうな彼女の歪んだ頬を思い出した。
夢――あの海辺の光景を夢と位置付ける以外に言い表せない――彼女が言った通り、全身を貫いていた痛みはなくなり、一生浴びれぬような血を含んだ衣服だけが体に張り付いている。低く吐いた息が人の気配をすくう。目端に白い衣が入り込んで、やっとのことで目を投げれば小さな膝が揃ってレーヴェの方を向いていた。彼女がいる。夢の中の凛とした彼女ではなく、言葉もうまく操れず、ただレーヴェの名を拙く呼んだ少女がそばにいる。
何の遮るものもなく、理力の流れを激しく感じた。彼女が立ち上がれと言っている。レーヴェはすべてをかけて体を動かした。身を起こす動作の合間にかすかな香りを拾う。満開の花に鼻先を近づけたような甘い香りがレーヴェの心を掴んでいた。
「リリィ!」
くぐもった膜を突き抜けて血走った声がとき放たれた。銀色の髪を流し、実直な面貌の男――ロライン大主教が凄まじい形相で駆けてくる。突き出した手の先は彼が大事に抱えていた少女だとわかっていた。振り向いたレーヴェの顔にびしゃりと赤い飛沫が飛んだ。顔を顰めたレーヴェは満開の赤い花をみた。
血花を咲かせながら白い衣の少女が倒れていく。あおむきざまに倒れる胸元は背中から衝撃を受けて、肉を散らし、骨を折り、血を噴き出していた。
あちこちから叫び声がする中、レーヴェは少女の袖をぐいと掴んで引き寄せた。だが起き上がったところで体がうまく動かせず、受け止めることもできないまま彼女はのけぞった状態で止まった。「リッ、っ」―舌がもつれる―「リーリートさん!」呼びかけても返事はない。駆け込んできた大主教が背中から抱きしめて、頬を叩いて起こそうとする。
彼女は大きく痙攣すると身悶えて血をたらふく吐いた。上半身を抱きこんでいたロラインと前に膝をついたレーヴェは半分ずつ血を被る。唾液まじりのねばった赤が口から下をぐっしょりと濡らして、レーヴェはほとんど布きれになった上着を脱ぎ、さらに細く引き裂くと、痙攣する背中に腕をつっこみ幾巻か細い体に巻きつけた。長い睫毛が激しく動き、生きようともがいていることを知らせている。
「失血の次は?! つぎは!?!!」
声にだして、気を抜くと真っ白になる思考を働かせる。大主教は帯を展開しながら治癒術を詠唱している。途切れぬ言葉の途中で、レーヴェの胸倉を掴んでさらにそばに寄せた。青白い理力光が痙攣する少女の体に入り込む。眉間から汗を滴らせ、男は目線だけで言う。レーヴェは頷いて、ぽたぽたと溜まる顔面の血を荒々しく腕で拭うと、彼女の名を呼び続けた。顔を眺め尽くし、頬を掴み、顔の血を拭う。
「リーリートさん、だめです、だめです、だめ、だめです、もっと言いたい事があったんです、もういちど」
肉の端からぼたぼたと落ちる血は乳房を、腹を、両脚に滴って川を作る。すると投げ出されていた腕が浮き上がり、彼女の指が動いた。レーヴェとロラインは同時に小さな手を包みこむ。むざんに濡れたまだらの顔の中で、瞼がゆっくりと持ち上がり、はんなりと光が跳ねた瞳がレーヴェを捉えた。喉からひゅーと息が抜けるが、彼女は言葉をしぼりだした。
「……れー、……い、たく……なぃ?」
「っ、いたくない、もう痛くないですよ……貴方が治してくれたから、貴方のおかげで……お願い、いかないで、いかないでください……」
事の運びもわからぬまま名を呼び続ける。胸に巻きつけた帯はすぐに赤く染まり、隙間から胸の真ん中に開いた大きな裂傷が動くのが見えた。止血の為に締めあげた布の下で肌がふくらみ、元に戻ろうとしていた。大きく口を開けた傷がレーヴェの目に入る。骨がばらばらの方向に突き出ていた。人の肉は想像より白い。内側から破壊された骨と肉の奥に白い袋があって一定の感覚で収縮を繰り返していた。「あぁ、だめだよ……」鼓動は次第に弱くなって、二人が手をきつく握るなか、彼女は逝った。微笑みが口元に残る。何から何まで他人に好き勝手されて、また、――――
「――――」
腹にのみこめることではない。考える余裕すらなかった。自分の体に新しく生まれた"もの"のことなど忘れ去っている。鮮血に染まる体から噴き出した理力が頭上に集結し、"新しい主"を求めている。その光の向かう先に彼女を殺した者がいる。烈火のごとくレーヴェの目が染まる。




