442 肉料理:レーヴェ・フロムダール(36)
「……謝るのはもう終わりにしましょう」
「うん……あとで思い出したら、その都度いいかしら?」
「ふふっ」
「あっ、また。もう…泣くほどおかしい…? おかしいわよね……」
「あなたの、せいですよ。あなたが……」
レーヴェは悲涙の涙に気づかれぬように明るく努めた。精神の彼岸にいることにかこつけて、妙な自信をもって彼女を見つめる。背後をみれば、逃れられぬ死が剣先を向けているとわかっていながら、彼女のこれからが幸多からんことを願ってやまない。思えば、あの忌まわしい"祭事"に使用された麻袋の中に人が入っていると聞かされた時に、命を救うために駆けだせなかった時点で命運は決まっていたのだ。
(……あの袋に入っていたのは、私だったのかな……)
誰かの役に立つことで自分を守っていた。それが誘拐され、売られ、フロムダールとして第二の人生を歩ませられた苦しみに対抗する手段だった。自分の価値を見いだすことができれば、知らない土地で生きる自分を肯定することができる。そして最期にこの浜辺に戻って来たのなら上出来だ。たとえ幻であったとしてもこんな美しい心根の人と笑い合うこともできた。手を打って喜ぶべきなのだ。
村のはずれの砂浜には誰の罵倒もなく、潮の香りと花の匂いに満ちている。澄んだ匂いを吸って吐きだすと、もうすこしで季節が変わることが感じ取れた。
「……リーリートさん」
「はい」
「遠方に流されてこんなところまで来ましたが、もう充分だと思います。もう向き合いましたから、ここに浸っていなくても私は大丈夫です……私を目覚めさせてください」
「……"外"の私が理力を注いでいるから、体の傷は治っている。失った血は戻らないけれど、理力が補っている間は問題なく動けるでしょう。ロライン大主教は手を出さずにいてくれる。まわりの人たちは私が止めるわ」
「そのあいだに逃げろと?」
「ゾアルは……この世では輪に混じれない身の上だわ。認めたくはないし、許してはいけないことだけど、貴方の言葉に力はなく、多数に押し切られてしまう。だからといって自分から巣穴に入り込むことはないわ、少なくとも今は」
貴方がそれを言うのかと喉元まででかける。
「……さいごに構いませんか」
「いくらでも」
「触れたいです」
差し出した手に、白い指が添えられる。親指の腹で指を一本一本なぞっていくと、二人の間で無言の話が行き交う。この瞬間も記憶と深く結びついていくとしたら再び肌を合わせた時に引き金として彼女の心は開くだろうか。触れあった場所に熱はないのに、あたたかく感じた。彼女の甘やかな顔をみていると同じ物が自分の中に溢れていくようだった。自分も善人になれるような気がしてくる。
「…………さようなら」
本当はもっと別の言葉を言いたかった――でも言えなかった。
不十分な微笑は光の粒となって風に乗る。一片消え去るまで、青年の笑みは女の心をほとほとと叩いた。
海辺に佇むひとりの女は、遠くで一枚の葉が落ちる音を聴いている。一瞬、片足が引き攣り重心がずれた。孤独が来る。それでも凛とした背中はほとんど乱れなかった。青年の居た場所や、心の中に刻み込まれた形を愛そうとして持ち堪えた。彼がくれた言葉は治療薬であり純粋な文脈としてまだ変質せずに残っている。
けれども光の消えたあたりをいつまでも眺めても愛は戻らない。いずれ透明な花となっていく。
「……ほら、やっぱりつらくなったでしょう…?」
弱音はすぐに遠くへ流れる。共にいて欲しいと願っていても、誰とも寄り添う事はできないことはいつもリーリートの胸を引き裂いた。今すぐに気が違ったかのように走り出してしまいたい。でもどこへ?――「何故生きなければならないのか」という当然の疑問が浮かんで、リーリートの体は砂浜の残骸といっしょに落下した。
上下なくなっていく白い世界で、湿った目を向ければ硝子片がきらきらと光っていた。夢から覚められるならばどれだけ良かったか。わからない。なにもすべがない。
顔を覆って嗚咽を封じる。ただひっそりと涙をこぼすことに熱中すると、指の隙間からこぼれた涙が空に昇っていった。目を細くして空を眺めると、低い笑い声がもれる。壊れた空になみなみと涙の海ができあがっている。私はどれだけ泣いたのだろう。これから幾度泣くのだろう。
ー
レーヴェは夢から覚めた。




