441 肉料理:レーヴェ・フロムダール(35)
彼女は記憶に触れ、瞬く間に思考を積み替え、順序良く整えて一つの軸を通そうとしていた。レーヴェもまた万能感のある彼女を前に無力を感じていたが、輪郭のくっきりした美しい顔立ちを今は真っ直ぐに見る事が出来るし、心を横切るのは敬慕だけではなかった。
二人の間には得体の知れない経験や距離、視点の差や抱える懊悩の違いがのしかかっていたように思う。彼女を天使、あるいは神のように捉えていたが、その桃色の唇から心情が吐露されるたびに生々しい実体がもたらされた。目の前に立っているのは激しく生きている一人の女性だ。
彼女は嘘がつけず、誠実で、流れに乗ることも逆らう事もできる。弱気もみせるが、ひとつを決めるといかにもはきはきしている。きっとこう在りたいという理想があって、手が届かないことにもどかしさを感じていたのだろう。
伏し目がちで、よく思考に沈む。唇の端と瞳に情感がよく乗るから気持ちがわかりやすい。
こうした細かな観察は、風呂屋で寝食を共にしていた女性たちから学んだことだ。生きる術や社交、序列、謝罪の仕方、媚びへつらう……"作法"。鏡越しにみた養母の顔色を読んで機嫌を察知していた日々が今日のレーヴェに蓄積されている。そのことを初めて肯定的に捉えることができたような気がした。
その時、レーヴェの後頭部に水を打ったような衝撃が走った。一滴の雫が平坦な水面を揺るがして、肌に微弱な震えが走る。思い至った。思考の膜をはいでいたのは彼女だけではなかったことに。
「貴方が許して欲しい分だけ許します……その代わり、口づけに理力が込められていた理由を教えてくれますか?」
「…気づいていたの」
一歩下がって、深慮を抱きつつ彼女の前に全身をさらす。こうして離れれば、眼前に立つのが庇護するべき子供ではなく、レーヴェ・フロムダールなのだと教えることができると思ったからだ。彼女もまた腹の上で手を重ね、他者を魅する気高さをまとった。砂浜に広がる白い裾は、海水を浮遊する海月のように柔らかく透明だ。
「私に理力はありませんが、見当はつけられます。貴方の姿は言葉通り光っていますから、唇が触れる度に間近になっていくように感じていました」
「私はとても、……」
レーヴェは口を挟まなかった。リーリートはじっと考え込んでいる。おそらく最善の言葉を探す癖があるのだ。間違えたくないと強く思う分、完璧を求めて立ち止まる。
あれほど喜色に富んだ顔をしていたのに、一番に考えることが私への謝罪なのだから愛おしい。
(弁明しなくてもいいのに――"でも"って、言うでしょうから、黙っていますね……)
風が舞う。葉群れが揺れる。翻弄される彼女のそばで風が渦を巻いたような気がした。
しばらく言葉を待つつもりだったが、伏せた瞳が何度も右往左往するので、ふっと鼻を鳴らしてしまった。口は結んでいたけれど、そのせいで笑いをこらえているのが丸見えになってしまった。呆れられたと思ったのか彼女は慌てて言葉を紡いだ。
「あ、あの……ごめんなさい。許しも得ずに口づけをしてしまって、とってもひどいわね……たくさん抱きしめてしまった。それもひどいわ……あぁ、私ったら……何をしてもよくないわ」
レーヴェは耐え切れず口元を覆った。それでも零れた呼気は掌にぶつかって弾む。
「ははっ!……ふっ、ふ……あー、はぁ……あの、貴方になら構いませんよ……嫌だったら最初にそう言っています。ふふ、ふ あの、ごめんなさい、面白くってだめです」
「……恥ずかしい」そう言って、しゅんと肩をすくめてしまった。
わかった。この人は人が好きなのだ。他人にどこまでも誠実でいたいから、全身で打ちこむ事ができるのだ。それはいっそ強迫観念ともいえる。他人のために自分の命を差し出してしまうのだから、そうしたことは到底許容できない。
レーヴェは彼女が無抵抗を選ぶことが疑問だった。言葉や体を奪われている"表"のあの姿とは別に、ここにいるのは自立した姿だったからだ。海をも持ち上げ、炸裂させる強い力があるならば自衛に使うことだってできるはずだ。
けれど心に触れてようやくわかった。彼女はどんな命も愛している。そしていつも濁流に身を置き、困難な箇所に流されまいと立っている。悪意の渦の中に立つ彼女は愚かに見えて、嘲笑されるかも知れない。
(でもこの人はそうやって生きてきたんだ……)
笑いながら、目端から涙がこぼれ落ちた。これまで多くの悲しみや苦痛を感じてきたことが伝わってくる。凄まじい道程を思うとあれこれ口を挟む方が愚かに思えた。




