440 肉料理:レーヴェ・フロムダール(34)
(だけど……)
一方でこうも思った。身をもがいてしつこく言い残すことは男のすることではない。そもそも彼女の中の鏡像が異なるのは出逢って日が浅く、互いのことを全く知らないことが原因だ。
なら教え合えばいいといっても、ここで気持ちをひとつひとつ詳らかにしても何の意味もないだろう。自分の中にふつふつと煮えたぎる"冷たい怒り"や、認めてもらいたいという"浅ましい欲"を、彼女にぶつけようとするなんて未熟すぎて嫌になる。
冷静に思考を立ち止まらせると、自論に対して決して「でも」とは浮かんでこなかった。
彼女にどのように思われていようが、自分が成すべきことは自分だけがわかっていればいい。それに齟齬があってこそ「見直したわ」なんて言ってもらえることもあるかも知れない。どちらかといえば、その時まで自分を磨く方がよほど健全だろう。
(……この人が好き、なのかな、愛しい…のかな。どう言い表していいかわからない。でもいいや……たんなる形式に当て嵌めるのはずっとずっとあとでいいよね……)
出逢ってからレーヴェが差し出した信愛は、彼女の前では無力だった。
けれど伝えたい言葉は預けられた。流されても、透明な花として刻印されていると彼女が言った。
『自分を傷つけられることを許してしまう貴方を、肯定することはできません』
『レーヴェ……何を望んでいるの? 私は貴方の為に生きることはできないし、貴方も私を見るべきではない。いま思い描いていることを口にするのはよして……』
『別に私は貴方を漠然と幸せにしたいとか、未解明な難題に答えようというわけではありませんよ。確かに……そう言ってしまいたい気持ちはあります。少し前の私なら大人たちが貴方にした蛮行を感情で否定したでしょう。簡単な提案が貴方にとって最も有効ではないことは理解しています。でも貴方は私にゾアルであることを受け入れるように言った。それは貴方が"死"を受け入れることによって、自身の均衡を保ったからでしょう? 私を助け、自分の身を犠牲にしても他者の為に尽くすのに、自分の事は助けようとしないなんておかしいです。それは実体を無視しているということでしょう? 貴方の心と体は一致していないのです……』
『私達は定めを受け入れる代わりに、愛をどこかへやってしまうようです。生きる上で一番大事なことは理力でも種族でもありません。なんだと思いますか?』
『………理性かしら』
『貴方らしい答えですね。私もそう思います。神様が私たち"人"に罪を科し、差をつけ、顔や身体に異なる表現を示して設計したのだとして、やはり頂点にあるのは情感、心なのだと思うのです。意識があるがゆえに、他の獣とは一線を画すのが"人"でしょう?』
『貴方は……自分を愛しなさいと、そういうのね』
――記憶の波濤が砕ける。
崩壊する空の下、彼女に伝えた私の言葉がそのまま心にしっくり来れば、彼女はいかにも主体性がなく、物を判別する思考力もないということだ。
レーヴェは彼女を操りたいためでも、心棒をまるきり入れ替えて欲しくて言葉を投げかけたのではなかった。彼女もまた熟慮する素振りをしながら頑なだった。"自身を愛するよう"に願ったレーヴェに対して納得しきれず言葉を濁したのだから。
誰かに言われた言葉がいかに細心な注意だったとしても、人は自身が思い描いた行動しかうつすことはできない。それと知りつつ何故問いかける必要があったのか。彼女に"幸せ"になって欲しいからだ。
誰しもが持つ"生きる"という避けられない宿命を前に、他人の思いを汲まねば何も始められぬといった"他者ありき"の態度は間違っている。自分の命は自分の為に使っていいのだと、気づいて欲しかった。
生涯をかけて一冊の本を綴ったとして、いかに豪華な装丁をしても、いかに流麗な書体で情感を綴っても、主題に自分以外を据えてしまっては台無しになってしまう。
(この人は好き好んで他人の表紙をつけているように思える……)
薄い白布が翻る。その絹の衣裳の下に包まれた肌は水の冷たい匂いがある。
「レーヴェ、私と貴方の欲求の形は違うわ。痛みから一切離脱したいというのなら、人と人は関わり合うべきじゃない。でも私は貴方と関わり合っていたいの。許してくれる…?」
「……」
私は彼女の前に立っている。
潮風の中で自分の思考が変転していくのを感じていた。




